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教育と洗脳はどう違うか?

最初に2点。

①そもそも、教育にしても洗脳にしても、人間が名付けた分類に過ぎないので、明確に「こう違う」という答えはありません。
②よって、この問いの答えは決して1つではありません。あくまでも持論、私の感想であって、論理矛盾なり例外なりあるかもしれません。

Twitterの投稿。

どんな意見があるのか気になったのと、自分があとでこれについてまとめようと忘れないためのメモとして、試しにツイートしました。すると、たくさんの興味深い考えを聞くことができました。リプライや引用RTをご覧ください。

本題。私は「教育は、内から引き出すもの。洗脳は、外から注ぎ入れるもの」と思います。

「教育education」は、educatioという動植物を飼育・栽培することを意味するラテン語が語源だそうです。
この語から、「大きくするeducare」と「引き出すeducere」という2つの動詞が生まれています。
元から学習者の内部にあるものを大きくしたり、引き出したりすることを「教育education」と呼ぶのではないか?というのが私の考えです。

例えば、こういうのは教育ではないと思う。

この考えに沿うと、例えば、訳の分からない仕来りを「○○高校らしさ」と言って押し付けるのは、教育ではありません。外から押し付けているからです。
下の画像も2つとも、教育ではありません。

https://twitter.com/4ki4/status/1214748539307225088
https://twitter.com/4ki4/status/1214748539307225088

タブラ・ラサの世界観は、教育ではない。

タブラ・ラーサ(ラテン語: tabula rasa)は、白紙状態の意。蝋などを引いた書字版を取り消して何も書き込まれていない状態。

Wikipedia『タブラ・ラーサ』

人間はもともと白紙状態で、外から知識なりなんなりを注ぎ込まれて、成長する。こういう考え方は、私の「教育」観からすれば、そもそも教育ではありません。

私のような「教育」観は、どうやら社会構築主義とよばれる派閥に近いらしい。

社会構築主義とは

社会構築主義(しゃかいこうちくしゅぎ、英: social constructionism)とは、人間関係が現実を作るという考え方である。現実、つまり現実の社会現象や、社会に存在する事実や実態、意味とは、個人の頭の中で作られるものではなく、人々の交渉の帰結であると考え、言語的に構築されるという社会学の立場である。
(…)
社会的構築主義に立つ理論家にとって、社会的構築物とは、それを受け容れている人々にとっては自然で明白なものに思えるが、実際には特定の文化や社会で人工的に造られたにすぎない観念を指す。
(…)
構築主義の立場は要するに「本質的で客観的な真理」は人間にとっては直接観察不能であり、何らかの枠組みによって観察されざるをえないのであるから、問題はどのような社会的枠組みに依拠しているのかといった足場に向かう議論であって、こうした議論は「実在それ自体」を否定しているわけではなく誤解であると反論した。

Wikipedia『社会構築主義』

まず、「学ぶ」という行為を「本質的で客観的な真理」に到達しようとする営為だとします
私の考えは、「学ぶ」ことを、何かしらすでに存在している「本質的で客観的な真理」や、それに類するものを、外部から注ぎ込む、教え込むことだととらえないものです。
(なお、「それに類するもの」とは、たとえば、「本質的で客観的な真理」にたどり着いていない場合、それに今人類が到達している限りで最も近そうなことを指します。また、当該の発達段階で理解し得る範囲で、最も「本質的で客観的な真理」に近しいものを指します。)

私の考えは、「学ぶ」ことを、本人が本人の価値観や思考の癖に自覚的であったうえで、社会構築主義的に、対象を認識することだととらえるものです。

①「本人が本人の価値観や思考の癖に自覚的である」とは

社会構築主義の視点に立つ場合、対象をどう認識しているか?を解き明かすことが「学ぶ」という営為の本質ということになります。
よって、学習者には、学習者自身がどういう価値観で、物事をとらえがちなのか?を把握することが求められます
それは、授業者にとっても同じです。授業者も、自分が物事をどのようにとらえがちなのか?を自省し続け、その癖を自覚しながら教材を作ったり、授業展開を練ったり、実際の授業でふるまったりする必要があります。
そして、学習が、さまざまな当事者が物事をどのようにとらえているか?を観察・分析し、その背景にある価値観や思考の癖を解き明かそうとするものとなるように、設計します

人間には、各個人なりの、あるいは各集団なりの、「合理性」があります。これを「他者の合理性」とよぶそうです。

仮に、自分にとっては到底理解ができないとしても、他者にとっては納得のいく行動や考えがあるということです。裏を返せば、自分もまた、何かしら自分にとって腑に落ちる「合理性」をもっているのでしょう。他者から見れば、それも「他者の合理性」です。奇妙な言い方ですが、この「合理性」は、必ずしも合理的ではありません。同じ人であっても、いつ何時も矛盾のない「合理性」を保持しているわけではありません。
突き詰めれば、結局はその人の「好き嫌い」があるわけです。様々な言論は、その好き嫌いを可能な限り論理的に表現しようとしているにすぎず、結局は、究極的には、その人にとっての納得感、しっくりくる感、好き嫌いにたどり着くでしょう。それがその人の「合理性」です。つまり価値観、思考の癖のことです。

よって重要なのは、学習者が、自分自身の価値観、思考の癖に気づくことです。同時に、学習者が、他の学習者や分析対象がもつ価値観、思考の癖を解き明かすことも必要です。

こういう価値観、思考の癖のもとに、この対象をとらえると、こんなふうにみえる」と、物事のとらえ方とその背景を分析・記述できるようになる。それが社会構築主義的に、対象を認識することです。これを「学ぶ」営為の本質だととらえるのが、私の「教育」観です。

裏を返せば、知識や解釈を学習者に流し込む、一斉講義型の授業は、私の考えでは、洗脳です。だから、「教育とは、本質的には洗脳だ」と述べる教育者がいても、そういう人もいるのだろうなと思います。一斉講義で、知識注入こそが授業だととらえている人にとっては、教育とは洗脳なのです(私の考えでは)。

例えば。歴史総合の授業実践。

①フランス革命は人権宣言の理念をどこまで実現できたのか?

フランス革命の知識事項を覚えることを目的とせず、また、「フランス革命では、人権宣言のこの要素は実現でき、ここは課題が残った」などと教員が解説することもしません。
それぞれが調べたことをもとに、自分の考えを書き、これを他者と交流します。学習者は、グージュの『女性の人権宣言』など、興味深い事項を取り上げて、それぞれなりの価値判断をしていました。

②大衆は、第二次世界大戦の展開にどうかかわっただろうか?

第二次世界大戦の単元の授業実践です。この授業は、知識攻勢型ジグソー法という手法で行いました。まず、3人1組に分かれて、3人それぞれが別の資料を読み解きます。同じ資料を読んだクラスメイトと話し合って補い合った後、別の資料を読んだ3人でお互いに報告しあいます。それぞれの報告内容を組み合わせて、メインクエスチョン(MQ)について話し合い、自分の考えを書きます。

それぞれ「子ども・若者は第二次世界大戦とどうかかわったか?」をテーマにして、アンネ・フランク、オードリー・ヘップバーンとレジスタンス、白バラ運動の3つのストーリーを読み、自分の考えを書きます。
3つの資料では、いずれも「第二次世界大戦中、大衆は①ナチ党に協力・加担する、②ナチ党に反対・抵抗する、③社会に無関心となって見て見ぬふりする、の3つの選択肢を取り得た。あなたなら、どういう生き方を選択しただろう?」と問いました。

お互いの報告の後、改めてこの問いについてグループでディスカッションをすると、「本音は②。でも現実を考えると……」という声が多数。
「白バラ運動をした3人と、みんなは何が違うのかな? なんで、反抗・抵抗するのは無理だと思ったのだろう?」と問う。
「抵抗して殺されるかもしれない。死ぬことを考えたら、、」
「でも、自分に嘘をついて、ナチ党に加担したり、見て見ぬふりをしたら、自分の心は死んでしまう。死んだも同然や」
「でも、生きたいと願って生きることは悪いことなんかな」

私が指名するまでもなく、クラス全体で議論に。この議論に明確な答えはありません。それぞれの価値観が浮き彫りになる。それが教育ではないかと私は思います。

③生きていくために戦争に協力することを、あなたはどう考えるか?

この授業は②の次の回の授業です。同じく知識構成型ジグソー法で実施。それぞれが読んだ資料は、次の3種類です。
①ホロコーストの事実が漏れ伝わっていたなかで、それを黙認し、抗議の声をあげなかったドイツの大衆は、責任を問われるべきだろうか? 
②スターリン体制に抵抗するために、ドイツに協力したソ連の一部の人々は、責任を問われるべきだろうか?
③レジスタンスが命がけで抵抗に尽くす一方、自分が生きるためにナチ党に協力したフランスの女性たちは、責任を問われるべきだろうか?
文章や図表を読み解き、自分の考えを書きます。答えが1つに定まる問いではなく、価値観次第で答えが変わる問いを設定します。

これもまた自然と議論が白熱。重要なのは、この授業が競技ディベートとは異なる点です。正解はなく、また議論の勝ち負けもありません。「対象となる出来事の、こういう部分を重視する人にとっては、こういう考え、結論になる。一方で、こういう部分を重視する人には、こう見える」というふうに、物事のとらえ方と価値観について、考えを深めること自体が目的です。

このnote自体も。

ここで「というわけで、この問いの答えはこれでした。」と種明かしするみたいな終わり方をする場合、このnote自体が教育ではなく、洗脳です。

教育と洗脳はどう違うか?
この問いの答え自体、それぞれの価値観や思考の癖、つまりそれぞれの「合理性」に基づいて、異なる答えがあるはずです。
それぞれが「ああ、私はこういう価値観、思考の癖があって、この問いに対して、このように思うのだな」と気づき、また「ほかにこんな考えがあるのか。こういう価値観、思考の癖があるのかもしれないな」と推察することが、「学ぶ」営為だということです。
ただし、それ自体が社会構築主義的な認識に立つもので、これもまた絶対的ではありません。

しかし、結局のところ、「他者の合理性」とは、どこまで行っても「他者」のものなので、「私」には完全に理解することはできません。(これもまた、社会構築主義的なとらえ方)
かつ、自分の「合理性」も、自分自身でさえ言語化できない、完全にはわからないものです。

だから、「学ぶ」営為にはゴールがありませんあくまでも常に推察であり、改訂・更新されていくものです
「答えを知ったから終わり」とはならないのです。本当の意味で「答えのない問い」とは、そういうものです。真に「学ぶ」営為に取り組んでいる場合、つまり、自分や他者の価値観、思考の癖をとらえようとしているときに、生じるものです。

ということで、結局「教育と洗脳はどう違うか?」に対する私の答えは、「わかりません。人による、価値観によるでしょう。自分の価値観では、教育は学習者の内から引き出すもの、洗脳は外から注ぎ入れるもの」ということになります。


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