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言葉の旅路、ここから何が始まるか

ふと頭に浮かんだ「言葉の旅路」という言葉。まったく脈絡はなく、ただふと頭に浮かんだのだった。確かに言葉にするということについて、表現していくということについて、その難しさを痛感していたりはしている。だけれども、どういうこととは何だか違うように思うのだ。

今の自分の状態はというと、なんだか焦っている。落ち着きがなく、今もこうして机の前にいる。そして、パソコンをカタカタと鳴らしながら、言葉にすることを進めている。隣の家、自分の背中の方からは、隣に住んでいる人と、そのまた隣に住んでいる人が何やら話している。

2日に一回くらいのペースで、壁からは声が聞こえてくる。自分のこうして売っているパソコンの音も響いているのかもしれない。また動画を見ている時の音も、壁を通して漏れ聞こえているのかもしれない。最近は、イヤホンをつけたほうがいいかなと夜は配慮している自分がいる。

今日は、活動している団体の定例の会議で、今月合宿をするので、そのための準備もかねて、頻度を上げて会議をしている。状況も状況なので、今日はオンラインでの実施だった。会議に臨む上では、自分自身を整える必要がある。

また、誰かの発言があって、そのことを聞いて感じたり考えたことを、言葉にしていくこと。自分の思ったことをちゃんと言葉にして伝えるということ。そのことがなかなか難しい。その場でいかに生きた反応をすることができるか。

自分のくせというか、習性としてと、書こうと思ったけど、なんだか意識が違うところに行ってしまい、もう文脈を見失ってしまった。今もなんだか落ち着きのない状況が続いている。どうしてこんな感じになっているのだろうか。

自問自答するという言葉を勝手よく使っているのだけど、実際には自問しかしていないということの方がほとんどである。ふと自分に問いかけてみること。そこから始まっていく、考えるということ。

考えすぎるということも、土壺にハマってしまうとなかなか苦しい状況であるけど、しっかりと時間をかけて考えること、吟味することは、そのこと自体は、妥協しないでしっかりとできるといい。

ただ一方で、考えるということで満足してしまって、そのことに甘んじてしまっているような感じになってしまっているのであれば、これまで考えていたことを一度手放してみる。そういう勇気も持っているといい。

考えるということではない文脈で、自分を発揮すること。そういうことができて、その上で考えるということができると、考えるということの深みや幅が出てくるのだと思う。

こうして書くことをしないと、そのことを認識することができない場合もあるけれど、言葉にしてしまうことで、意識してしまうということもある。意識してしまうことによって、それまでは自然だったことが自然ではなくなってしまうということもある。

自分の何気なく使っていた言葉について、友人から指摘されて、それ以降その言葉を使うタイミングだと思っても、言葉に対するこれまでとは違った不自然な意識が湧き上がってくるため、使うタイミングでは使えなくなる。使わなくなっていく。

頭ではそのタイミングでその言葉が出てくるのだけど、場には出てこなくなる。場に出てこない言葉は、出てこない以上は、ないということと同じだ。存在していない。自分の中に確かに立ったとしても、他と共有するためには、言葉にするということをしないといけない。

そういう言葉にするという努力をすること。いきなりぴったりな言葉が見つかることもあるかもしれないけど、大抵の場合は、とりあえず思い浮かんだ言葉。そこから始まること。

時間が経つと、その言葉はまったくなぜ自分はその言葉を使ったのか思い出せないということもあるし、またときの流れに関係なくしっくりくる言葉もある。またその言葉よりもより的確に表現ができた、そのものを表している言葉が見つかる場合もある。

人と話しているときに生まれることもあれば、ふと自分の中から湧き上がってくるということもあるだろう。言葉の生まれ方、出てき方は、千差万別だ。それは当たり前のことだ。

だけど、言葉にするということを考えすぎてしまうと、ある限定的な範囲でしか言葉にするということを捉えなくなってしまったり、枠を自分自身で規定して、そこから出ることをしなくなってしまう。そうなると、思考がん停止位してしまっていたり、安心安全をキープするということになっていく。

自分はこの先をどのように生きていきたいのか。いかにして、生きていくのか。自分の今の感じはどんなか。過去ではなく、今という地点の、自分というものを発揮して、1つ1つ自分の感覚を掴んだり、頼りにして、前に進んでいくこと。言葉にするということも、そういう生き方そのものだなと思う。

以前同じような結論を出したということが不意に頭を過ぎる。自分はこういうことが書きたかったのか。ちょっと自問するけれど、言葉の旅路というものをイメージしたときに、まったくまとはれずれなことではないと、場が展開されて、なんとか書き切ることができたように思う。おしまい。

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