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2023年3月の連想

ずいぶんご無沙汰しております。
最近、いろんな点や点が結ばれて面になっている気がするので、ここに記します。


富山来て4ヶ月ちょいで転職

した。

かんたんに言うと、

宿のバーカウンターに立ちたい→そのための腕を身につけたい→飲食店で働くのがいいかな? 

ということで、縁あって富山駅前の料理屋で働いていた。
お酒を出す飲食店の仕事は、どうしても夜が中心になる。13時に出勤して、2時間くらい仕込みしてお昼休憩。休憩から上がると17時からの営業にそなえ準備し、そのまま23時くらいまでお店を回す。という感じだった。

一方、一緒に住む彼女は、昼間の建築の仕事をしている。現場のときは朝7時には家を出て、19時前に帰宅するという生活。

はい、毎日の中で一緒にいれる時間、ないんですよ。日付が変わるくらいに私が帰ってくると、彼女はだいたいもう寝てしまっている。
朝は一緒に起きて朝ごはんくらい食べよう、てこともできないことはないけど、やっぱりこちらの睡眠時間は十分とることはできず。それが毎日となると、二度寝して午前中の時間をぶっ潰してしまったり、余裕でやるわけですね。

料理屋は定休日が日曜だけなので、ふつうに働いて週6勤務。彼女は日曜と、隔週土曜が休み。
日曜日は彼女が資格学校に通っているし、私はその隔週の土曜になんとか休みをとらせてもらって、その月2日は2人で一日一緒にいれるチャンスをつくっていた。月2日。
それ以外の平日といえば、一緒に住んでいるのに片方の住人がお互いまるで見えていない。
いくら一緒に寝れるったって喋らないんじゃ何も進まない。

そんな感じでそこに勤めている間、2人の関係はなんとなくつねにギスギスしていた。「2人で暮らす意味ないじゃん」とまでいわれた。家はただの荷物置き場じゃない。
これはどうにかしなきゃいけない。

救い

そんな悩みをいろんな人に相談するうち、知人に「昼間で働けて、かつ将来の独立のために料理だけでなく店の運営の立場に立てる」仕事を紹介してもらうことになった。

当時の私たちにとって神みたいな話だったが、同時に、ペーペーの私にこんな上手い話があるんかいな?と半信半疑でいた。
だが、そこで仕事を始めるまでの間、社長は本ッ当に私に良くしてくれた。
何度も寿司に連れてってくれたり(富山は回転寿司でもほんとに美味い)、新しいお店のロゴやチラシ等々のデザインの仕事を任せてもらったり、クルマを会社用として買うから通勤に使ってくれ、という話まであった。

私はただただそれらに甘えて、その蜜をまといながら仕事をグダグダとやっていた。
結果的に、一度お叱りを受けることとなる。

「期待のもと、ひとつのお店が開く上で生命線となる仕事を任せ、開店の段取りのひとつとして〆切を設けていたのに、なぜ守れずズルズルと延びてしまったのか」
「なぜ遅れると分かった時点で連絡、相談をしなかったのか」
「自身でお店(宿)をやりたいって本当に思っているのか」

あんなこといいな、できたらいいな。
オシャレな音楽と家具とカウンターに囲まれて、お客さんをもてなすシーン。
言葉や絵にはいくらでも楽しい空想なんて描けるから、それだけを根拠にして「こんな宿したいんです!」って言い張っていたのは自分でも薄々わかっていた。「なみいるやど」の本はその最たるものだ。
そこから考える理想の中身は変わることはあっても、現実的になにをやっていくべきなのか、ということにはずっと目を背けていた。

報連相ができないこと。自分のペースが許されるって勝手に思ってたこと。華やかな仕事ばかりをやろうとして、地道で必要な仕事を、やりたくないままにやろうとしなかったこと。
うすうす自覚していた癌をすべてほじくり出されて、なにも言い訳はなくて、呼び出されたファミレスの席でただ泣いた。

社長も、私に対する期待と現実のギャップの大きさにショックだった筈で、貸してもらえるクルマの話はなくなり、働く条件も当初の話とは変わってしまった。けれど、

「君に対する信用は崩れたけれど、期待はまだしているから。ここから這い上がってきて」
と、社長は言ってくれた。

ふりだしにもどる


私は今の飲食の仕事において、
そして宿をつくり営むという目標への道筋において、一度身につけていた、自己評価で固めた手作りのヨレヨレの鎧をはずし、ふたたび素っ裸になった。
「君はインプットが上手だけど、アウトプットでとても損をしている」という社長のことばが印象的だった。
取り入れたもの、考えたことを心の芯からアウトプットするよう、ひとりの人として大きな存在になれるよう、意識して毎日の仕事を取り組んでいる。
もちろん、楽しむことは忘れずに。

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なおクルマ通勤は立ち消えになったので、毎日最寄り駅から往復30分歩くという、クルマ社会の富山では細い目でさえ見られそうな、気合いの電車通勤をやっている。
クルマは1台持っているのだが、彼女と共有している。建築の大工仕事にクルマは必須だから、すると私はクルマ以外の手段で通勤しないといけない。

ランニングシューズを履いて行くので、歩くのは苦でない。スマホの歩数計をみると、日平均1万歩ほど歩いている。これだけの影響かは分からないが、腿やふくらはぎがすこしずつ丈夫になっているのを感じる。健脚に越したことはない。
読書もはかどるし、こんなふうに記事を書こうと思えば毎日の車内でこつこつ書けたりするので、時間はけっこう有用に使える。
ものは考えようである。

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一方の彼女も、このごろ仕事が一段と楽しくなってきたそうだ。
彼女のつとめている職場は、住宅リノベーションと余剰材の家具等への活用をおこなう小さな建築会社。社長は将来、東京や海外でも仕事をしたいといい、この間も彼女ふくめ社員たちで東京へ研修旅行へ行ってきたばかりだ。

彼女は関東での大学時代にたくさんの人間関係に恵まれたこともあり、(育ちはまた別の土地なのだが)首都圏がいちばん彼女にとって馴染みのある街、ホームタウンになっている。

私は、地元でもなく友達がほぼいない富山へ彼女を連れてきたからには、いつも一緒に、たくさんの場所へ行き、たくさんの人と話し、たくさんの経験をしていきたいと思っている。

だけど仮に、彼女がいまの会社の一員として、東京や海外での仕事を志したいというならば、私はそれをも全力で応援したい。
でもそんな道があったとしても最終的には……、やっぱり一緒に宿という空間をつくりたい。という気持ちがある。もちろんある。

なにかをやっていくうち、考えが変わっていくことはもちろんあること。だけど、ふたり一旦別々になっても、お互いやっていけるだろうか。
いちばん大切にすべきはいまの彼女との時間だけど、やっぱり心のどこかで彼女に依存しているような、描く未来に依存しているようなところがある。

絶対的孤独

ということばを、尹雄大氏の著書「つながり過ぎないでいい」で読んだ。

集団をつくり、コミュニティを持って生活する性質のある人間でも、それぞれは少しずつ異なり、それぞれを完全に理解することはない。
「共感」や「ブーム」が巻き起こったとしても、それは、その特定の媒体やことばを自己の意思表示として代弁させている人間の集合である。
日本語のような「ことば」とそれぞれの意思との間には誤差があるのだけど、「ことば」を話したほうが理解されるし、自己も無意識に、ことばにならないような感情を切り捨てて、「ことば」を話すことで自己を理解したつもりでいる。

それゆえに、自己と対話する時間を十分に持たなければいけない。

というのが、いま本が手元にないので正確に説明できないが、私の感じたところでの「絶対的孤独」である。

私はひとりで写真を撮りにいっているとき、自己と対話する。
ふだん見ない景色を見ながら、あんときこうしときゃよかったなあ、とか。
路傍の用水の流れを見ながら、あんとき一緒に盛り上がったふりしてたけど、楽しくなかったなあ、とか。
自己と向き合っていろんな写真を撮ってきた。
だから孤独には慣れているつもりだった。

しかし友達とも家族ともパートナーとも仕事仲間とも、話は通じるけれどやっぱりすべて同じわけじゃない。生を受けてから死ぬまで、たくさんの人と合流し、ともにあるき、そしていつかは皆と別れてゆく。何物にも代え難い寂しさがある。
その予感は日常の中にもふいに訪れることがあって、そのたびに自分の小ささ、人間の小ささ、この世の儚さ、宇宙の大きさを思う。

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写真だけがアイデンティティだった私も、ここ最近趣味が増えてきた。

まず、大学に入ってからフィルムのほうの写真も始めた。
それからフィルムカメラ片手に一人旅したり、旅先のおじいちゃんに影響されて、手挽きでコーヒー淹れたり、サークルの先輩といっしょに原付でキャンプに行ったり、音楽してみたいなと思ってアコギを買ったりした。
コロナで暇なとき、ZINEをつくったり絵を描いたりしていたら、近所の古本屋のおじさんに、フリーペーパーの制作に誘われたこともあった。

社会人になると、ドラムもやってみようとスティックを買ったり、いずれ聴くからとレコード買ったり、カフェや居酒屋を巡りたいとも思ったりした。

やってること、やりたいことがふえすぎると、当然時間もお金も足りなくなってくる。これまで曲がりなりにも続けてきた写真も、プリントしてみたりフィルムの整理し始めたりしたら、きりがない。
ぜんぶ中途半端に手をつけていない自分、なにか一つに集中しきれていない自分。
やりたいことが多すぎる自分って幸せなのかもしれないけど、今は幸せというより苦しい。「それぞれの趣味を極めたときの自分」像があって、思い描くそれらに自身がいつたどりつけるのかわからない。

多趣味は母と、母方の祖父の遺伝だと思う。
祖父はカメラや石や植物をよく集め、母はブランド物のバッグ買ってみたり、ギター買ってみたり、自転車乗ってみたりしていた。
母に「最近自転車乗っとるん?」とか「ギター弾いとるん?」とか聞いても、「いま時間なくて」とか、「機会がないだけ」「タイヤのチューブ交換するん面倒で」とか。なんとなくその血を引いている気がする。
モノ大事にしろよな、とか傍目で思ってたけど、それをそのまま自分に返されても、何も言えない。


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さて、2月で24歳になった。
実績や実力のある同年代は、すでにいろいろとやりたいことで社会と意思疎通している。
オレも早くあんなのになりたいな、って思ったらマトモなものができないことは知っているけれど、どこか心の奥底を焦りが蝕みつづけている気がする。
インスタグラムを見ると、よく見るストーリー(=自分にとって気になるストーリー)はいつもそんな顔ぶれで、当人たちはなにげなくアップしているのだろうけれど、私にはなにかスゴイモノに見えて「今日もなんかやってるな……スゴイ……」という気持ちだけ残る。
大学のときのインスタグラムはそういう気持ちってなかったのにな。




だが仮に、インスタグラムでキラキラしている人たちもなお、同じような悩みを抱えていたとしたら? ひとりぼっちくよくよしている時間があるとしたら?
私は少し安心する。
そして、それを隠さずあっけらかんにしてくれと思う。

私の撮る写真は、思い出を残すため、記録するため、自分の「好き」を披露するためだけじゃなく、環境と、人と、そして自己と会話するための道具にもなりつつある。
インスタグラムに載せる写真と文章は、いわば自己満足の塊で、かつ自分の等身大だ。
架空の宿のインスタを始めたとき、屋号を掲げてお誂え向きに小綺麗な文章と、小綺麗な写真をずっと綴り続けていかなきゃならないのは、しんどいなと思った。

どんなひととも仮面をつけず、泥臭く話がしたい。
だけど深く突っ込めるほどの関係性って、誰とでも結べるわけじゃない。私のアウトプットだってまだまだ下手くそだ。
とりあえず、インスタグラムでは繋がってるけどね。私が私でいるために、いるということを示すために、等身大の投稿は続けていこう。

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人生の大先輩たちは語る。
人は人、私は私。お店をやるのも宿をやるのも、時間をかけて、自分のペースでいいんだよと。
でも、目の前の仕事はそういうわけにいかないし、周りの同年代はつねに一歩二歩先をあゆんでいる気がする。

むずかしい。
ときおり中学や高校や大学のころを思い出す。
あのころは何も考えず、遊びも勉強も、目の前のことを楽しんでいたなと。



そろそろ話題が尽きてきたところで、近況報告といたします。

この文をそろそろ書き終わるころ、彼女はアパートの庭で、日付が変わるというのにテーブル作りに勤しんでいます。
浪人のときも、大学のときにもあって、今なかったもの、それは没頭だ。とごはんのときにつぶやいていました。仕事をただの仕事で済まさず、その時間以外でも実践し、考え、自分のモノとして落とし込む。それってすごく大切なことだ。
私もふだんの料理のなかに、料理屋の仕事で学んだことをふと思い出し実践しています。ほかにももっと、日常のなかに工夫できることはたくさんあるはず。彼女とは良きライバルとして研鑽し合っていきたい。

ここ最近なにかにつけて肩を揉ませられます。何かに没頭していると(?)首や肩に力が入ってガチガチに硬くなるらしい。
それでもって、私の揉みはそれなりにほぐれるらしいです。仕事がうまくいかなくなったら、スーパー銭湯の整体師にでもなろうか。

おわり

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