見出し画像

新聞レイアウトという技術の重み

30年以上働いてきた報道部門を離れて2カ月半。もちろん新聞は毎日読んでいる。しかし業務として原稿を書いたり直したりしなくなったため、全紙を見比べたり、用語の使い方を細かくケアするような読み方はしなくなった。

そうなると「新聞チェック」という作業のプライオリティはどうしても低くなるもので、気ぜわしい日は1紙の見出しだけをザーッと流し読みすることも増えている。

新聞が世界のすべての見取り図になっているわけではないし、それを常に意識して読むリテラシー感覚は失ってはいけない。それでも、多数の記者を擁して記事を作成する“集合知”はまだまだ健在だし、それが毎日自宅まで届けられるのだ。報道部門を離れたいま、このビジネスの凄みを改めて認識する。

短い時間の流し読みでも内容とバリューが無理なく頭に入ってくる(気がする)のは、レイアウトの妙がある。メリハリのない真四角な記事が並んでいることを想像すると、まず内容を把握できない事態がわかる。歴史が作ってきたこの技術の素晴らしさに感謝である。

「紙の紙面は生き残れるのか」と、ビジネスとしての新聞の将来を憂う声が多い。確かに各家庭の購読率はさらに落ちるかもしれない。欧米のように一部の層だけが高額な高級紙を読み、大衆紙はさらに扇情的な紙面づくりを指向する、という事態になるかもしれない。それでもメディアとしての集合知と、歴史に支えられた技術はまだまだ生き残っていくと確信する。
(21/10/20)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?