“権威”のどうしようもない低下
藤井聡太5冠の歴史的な快進撃から目が離せない。といっても、私は実際に指すことがない“観る将”なので、棋譜は読めないし、読もうとする努力もしていない。だから新聞の将棋欄も雑感の文章だけをなんとなく読む程度だ。
けさの朝日新聞の将棋欄末尾に「訂正」が載った。瞬時に「お、棋譜記号でも間違えたんかな」と、記憶に新しい「盤上の向日葵」の誤植騒動も連想する。
違ったのである。
終了図の左下に『将棋』とあるのは『消費』の誤りでした。」
うーむ、そこか。
文庫の大量誤植も、それに気づいた際の編集者や校閲者の衝撃を思うといたたまれないが、こうしたアホなミスをやらかした担当者は「穴があったら・・・」状態が凄いだろうな。
それにしても、新聞の将棋欄という100年以上の歴史があるだろうフォーマット。そこに毎回掲載される「消費」をいちいち手書きしているということなのか。キーボードを叩く担当者の「手」は何万回も「将棋」を打ってきただろう、そりゃ無意識に書いてしまうのも仕方がないのかもしれない。
同じ朝日新聞はつい先ごろも、ベタ記事の見出しで「日本電産」とするところを「日本電算」とやらかして、翌日の紙面で訂正していた。「電算機」なんてもはや“死語”だろうに、変換機能にはしぶとく生き残っているのだな。
まさにこうしたミスは「他山の石」。しかし報道部門で原稿を書いたり、部下の原稿をチェックしていた身からすると、「訂正あるある」でもある。
記事本文は、執筆者本人以外の複数のレイヤーでもチェックする体制になっている。しかし、タイトルや欄外の「記号」には目が届きにくいのだ。もちろんそれでもミスがあってはならない。「落とし穴は本文以外に潜んでいるゾ」と意識していることが大切だ。
天下の朝日新聞サマとあろうものが、お粗末なミスが多い。
部数の低下とそれに伴う人員の縮小で現場の“厚み”がなくなる。しかも優秀な人材が集まらない。そうしたシワ寄せがこうしたミスに顕れてしまうのではないか。
かつての雑誌「噂の真相」には新聞の訂正欄を再掲して揶揄する「訂正人語」というコーナーがあった。そんな企画が成立するのも、新聞が明白な“権威”だったからこそ。
もしもまだ「噂の真相」が存在していたとしても、こんなアホなミスばかり連発しているようでは、それをからかう気にもならないのではないか。
(23/1/31)
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