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僕の好きな詩について。第四十三回 萩原朔太郎

こんにちは。ちょっと前に人気漫画の続編?「月に吠えたンねえ」も始まって、注目度大の朔太郎さん。

短い詩が多いので、僕の好きなものをいくつか。

では、どうぞ。
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地面の底の病気の顔

 

地面の底に顔があらはれ、
さみしい病人の顔があらはれ。

地面の底のくらやみに、
うらうら草の茎が萌えそめ、
鼠の巣が萌えそめ、
巣にこんがらがってゐる、
かずしれぬ髪の毛がふるえ出し、
冬至のころの、
さびしい病気の地面から、
ほそい青竹の根が生えそめ、
生えそめ、
それがじつにあはれふかくみえ、
けぶるごとくに視(み)え、
じつに、じつに、あはれふかげに視え。

地面の底のくらやみに、
さみしい病人の顔があらはれ。



光る地面に竹が生え、
青竹が生え、
地下には竹の根が生え、
根がしだいにほそらみ、
根の先より繊毛が生え、
かすかにけぶる繊毛が生え、
かすかにふるえ。

かたき地面に竹が生え、
地上にするどく竹が生え、
まつしぐらに竹が生え、
凍れる節節りんりんと、
青空のもとに竹が生え、
竹、竹、竹が生え。


殺人事件

とほい空でぴすとるが鳴る。
またぴすとるが鳴る。
ああ私の探偵は玻璃の衣裳をきて、
こひびとの窓からしのびこむ、
床は晶玉、
ゆびとゆびとのあひだから、
まつさをの血がながれてゐる、
かなしい女の屍体のうへで、
つめたいきりぎりすが鳴いてゐる。

しもつき上旬はじめのある朝、
探偵は玻璃の衣裳をきて、
街の十字巷路(よつつじ)を曲つた。
十字巷路に秋のふんすゐ、
はやひとり探偵はうれひをかんず。

みよ、遠いさびしい大理石の歩道を、
曲者(くせもの)はいつさんにすべつてゆく。


こころ

こころをばなににたとへん
こころはあぢさゐの花
ももいろに咲く日はあれど
うすむらさきの思ひ出ばかりはせんなくて。

こころはまた夕闇の園生のふきあげ
音なき音のあゆむひびきに
こころはひとつによりて悲しめども
かなしめどもあるかひなしや

ああこのこころをばなににたとへん。
こころは二人の旅びと
されど道づれのたえて物言ふことなければ
わがこころはいつもかくさびしきなり。




まつくろけの猫が二疋、
なやましいよるの家根のうへで、
ぴんとたてた尻尾のさきから、
糸のやうなみかづきがかすんでゐる。
『おわあ、こんばんは』
『おわあ、こんばんは』
『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』
『おわああ、ここの家の主人は病気です』

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朔太郎を語るとき、僕は二つのことをポイントにします。ひとつは「前橋」。もうひとつは「病気」。

前橋市は群馬県の県庁所在地。群馬は詩人が多いですね。萩原恭次郎、大手拓次、高橋元吉、伊藤信吉、山村暮鳥、そして現代の詩人と言っても過言ではないコピーライター糸井重里さん。海が無く、からっ風が吹いて、気温差が多いのが特徴です。現在朔太郎の生家は前橋文学館前に残され、見学出来るようになっています。この文学館の現館長、萩原朔美氏が朔太郎の孫にあたります。そんな繋りもあってか、前橋市では詩の活動が盛んで、僕も何度かイベントに参加させていただいております。これからも前橋は正統派詩人の東の拠点としての位置を保つ気運があります。朔太郎には広瀬川やるなぱあくなど、前橋の風景をうたった詩も多いです。

そしてふたつめのキーワード「病人」。日本の詩は朔太郎以前、以後でだいぶ趣がことなります。朔太郎の処女詩集「月に吠える」は森鴎外にも北原白秋にも誉められた日本文学のエポックメイキングな一冊です。この作品の中心的な表現が「病的なイメージ」です。顔とか、植物とか、猫とか、ボードレール的な隠喩の絵画が日本の暗い筆で描かれた印象です。この暗い筆が日本の詩を近代史から現代詩に押し上げたのです。当時は薬物の規制も今より緩かったので、実際に見えていた何らかの幻覚を言葉に書き写した可能性も否めませんが、この病的な暗喩の質が、その後の西脇順三郎に詩を書かせ、「荒地」の人々や瀧口修造、日本のモダニズム/シュルレアリスムに繋がっていきます。(でも荒地の世代の人から見たら朔太郎は塗り替えられるべき古い存在だったようです。最後の詩集「氷島」を文語体に戻したからでしょうか。そして晩年には西脇とは昼酒を飲む中だったらしいです。凄い席ですね。)

ともあれ、日本の現代詩が病的な質から始まっているというその事が21世紀の今もな詩人たちの中に良くも悪くも尾をひいていると、僕には思われてなりません。

#詩 #現代詩 #萩原朔太郎 #前橋 #月に吠える


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