僕の好きな詩について 第七回 荒川洋治

徒然なるままに僕の好きな詩を紹介して感想を述べるノート、第七回は荒川洋治氏の「梅を支える」です。

タイトルもう少し洒落てても良いよなぁ、と思いつつ、好きな詩です。碍子(がいし)という言葉はこの詩と日本ガイシという会社名でしか見たことがありません。

それではどうぞ。
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「梅を支える」 荒川洋治

きょうは梅が見られると思ったのに
碍子をぬらしてあいにくの雨だ
梅をささえに外へ出る
そんな物見があったかどうか過去に
あたらしいぞわたしは

時のいきおいに捩れやられて
暦のうえだけで梅が咲く
それはささえのいらない梅だ
それもそのこともあたらしい

クリップではさすがに苦しんだようす
そこにも透明なたたかいのあとがある
いやたたかいだけが長命
わたしに熱がないせいか
差し止められた筈のこよみが一枚
風でめくれ
よその月がのぞいた
すこしく未来が
あらわになったわけだ
二二日のところに
「K子の結婚式」とある
いつの書き込みだろう
そしてそれを消すちからのことなど
あたらしいぞわたしは

気のそよいだところで風がやみ
また
先が見えなくなった
来る月はあたらしい落葉とのぶつかり合いだ
この分では避けられぬ、このほうの
生き血のあらため
あたらしいぞわたしは

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現代詩では抽象性を高めるあまり、容易に実体を想像しづらい言葉の使い方をすることがあります。その事が言葉の連なりを詩らしくしている訳ですが、逆にその為に読者を選んでいるとも言えます。

荒川氏の場合、意図して意味不明瞭な言葉遣いをしているのか、抜群に説明が下手で結果的に言葉が抽象的になり、詩として読まれる形に収まっているのか、僕には判別が難しいです。

頭の良い人にありがちな、受け取り手も自分の省略法、話法を了承してくれるだろう、というスタンスが、結果的に不必要な説明を徹底的に省いた詩として成立してるのではないか、という疑問が拭い去れないのに、文章の持つ力やリズムに圧されて思わず「あたらしいぞわたしは」と口遊みたくなる不思議な作品です。

古き良き昭和の香りがするのも良いですね。この詩が発表された1979年にはきっと衝撃的な「あたらしい詩」だったのではないかと想像しています。

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