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本への没入と、気を逸らすためのインターネット

本を読むのが好きだ。特に文庫本。ハードカバーは、だらけて読むには内容も質量も少し重い気がして少し背筋が伸びる。文庫本を部屋で読むときは転がったり捻れたり、身体を放って読むことが多い。

もちろん電子書籍やnoteなども読むし作品自体は好きだが、神経をカリカリと引っ掻かれているような、常に気を張っているような感じがある。その点、紙の本は、特に文庫本は落ち着く。なぜだかは分からない。誰かが科学的根拠を見つけてくれていそうな気もする。ページの曲線は、人間の耳から頬、鼻、そして反対の耳までの稜線に寄り添い、目と意識を優しく覆う。

今は友人からもらった短編集を読んでいる。

不定期で、目が滑ってしまって全く文字が読めない、頭に入ってこないことがある。そんなことは何度もあって、気がついたらそうなっているし、気がついたら治っている。今はそれを脱しはじめたところだった。

(本当は読まなければならない)論文や講義の指定書籍を読めなくて、短編小説や詩集歌集だけ読めるのは、サボっている感じがして居心地が悪い。
ただ、心地よさもあった。幼い頃から本が好きだった自分にとって、読書はアイデンティティの一部のようになっていた。本が読めない期間はそれが揺らぐ。

余白が多くてどこで閉じても良い詩集が読めた。休憩の多い短編集を読めている。それは自分がまだ本を読めること、自分が自分であることの自信になった。

また、スマホを見続けるよりは有意義なことをしているという安心感もあった。気を紛らわせるためだけにSNS(返信するだけの気力がないので誰にも連絡をしたりせずに、タイムラインをひたすらスクロールする)に時間を溶かすよりは、やるべきことが進んでいない状況は同じなのに、幾分かマシなように思える。

もうどうにもならなくてめちゃくちゃになりそうな時、嫌なことを思い出して息の浅くなる時、どうにか意識を逸らすために、目と手をスマホにジャックしてもらっている。ショート動画やリール動画をひたすらスワイプする。つまらないおすすめ欄を見ている。嫌な気持ちを上書きしたくて、嫌な漫画を読む。おすすめ欄に嫌な漫画がサジェストされる。絶対精神に悪いのは分かっているのに、それをし続けることしかできない。もっと悪い状態にならないように。
思えば、オフライン状態の紙の本ではその悪循環を起きない。そこも良い点かもしれない。

集中して本を読んでいるとき、意識は完全に本の中にあるような感じがする。読んでいる時は気が付かないけれど、しおりを挟んでページを閉じたときに、急に現実に戻る感じ。肉体をあまりに無防備に放置しておいたことが不安になる。

スマホを長時間見ていた後は”やってしまった”とか”もうこんな時間!”とかの後悔をすることはあるが、”完全に別の世界に行っていた”と思うことはない。インターネットは好きだし日常的に使用するが、本を読むときのような没入をできたことはない。以前VRゴーグルを使った時もそんなに没入感はなかった。(もしかしたら最新の技術ではすごいことになっているのかもしれない)

SFでは仮想空間に意識だけを移植する設定がある。
もし実現するのだとしたら、今の自分がインターネットを見ている時の感覚ではなく、きっと本に没入している時のような感覚なのではないかと思っている。

集中力が切れてしまったり、読み終わってしまったり、一冊の本に強く没入し続けることはできない。身体を放って物語に入り込むあの時間が、永遠になったらどのような感じなのだろうかと想像する。

日は昇らないし暮れもしない。冷房(或いは何かしらの機械、走行する一瞬の車、音だけの雨)の静かな音は不快でない範囲で無音をかき混ぜる。きっと雨の憂鬱さも忘れてしまう。窓の外から誰かの騒ぐ声もしない。一人なのに孤独ではない。夕飯の買い物を考えなくても良い。食べなくても空腹がない。もうこんな時間だ。夕飯を作らなくては。

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