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自分のための文章と誰かのための文章

noteに日記を投稿した。続くかはわからないけれど、三行日記からはじめて一週間まとめた日記の投稿に移行したところだ。元々、自分しか見ない紙のノートの日記(以下、自分用の日記)をゆるく書いていて、それの一部をnoteに転記して公開した。

自分用の日記は、元々誰かが読むことを想定して書こうとしていた。
物語で、愛する人の死後に遺した日記を読み心境を知って泣き崩れる場面などで日記は印象的に登場する。そのような自分の死後などに物語的な作用を誰かにすることを少し期待して書こうとしていた時期もあったが、結局自分の脳内を出力する手段として続いている。
脳のキャッシュをクリアするイメージ。今まではTwitterをそのために使用していたが、日記だと他人に読まれたくないことも書けて便利だと始めてから気がついた。他の人にとっては当たり前の感覚なのかもしれないが、今までの日記は提出するためになんとか誤魔化すものだったから気がつかなかった。自分のためだけに日記を書いて良いというのは、最近獲得した感覚だ。

自分用の日記には私的なことばかり書いてある。自分にしか分からない話や、固有名詞の出てくる話など。自分の知っていることで補完して読む前提なので、あまりに説明がない。生のままの感情や出来事をそのまま転がしてある。きっと他の人にはきっと分からないし、そのままでは面白くないだろう。

例えば投稿した4/26の日記には以下のような文章がある。

このペン(日記などに使っているボールペン)を買った。いつもは線の太さが0.5のものだけれど、0.4にしてみた。手帳に書くには0.5だと太くて、ノートを書くには0.3だと細すぎる。折衷案みたいなペン先。

https://note.com/hallucinationote/n/n1e7b8c731e04

上記の文は、自分用の日記には必要のない「日記などに使っているボールペン」という説明や「いつもは線の太さが0.5のものだけれど」という前提を補っている。
また、4/21の日記はもう少し感情がそのまま書いてあったが、他人に説明するのが難しかったため削ったりマイルドにしたりした。

noteに投稿した日記はこの点で自分のための日記から、読者のための日記になっている。

ただ、読者のことを考えて役立つ文章を書いたというよりも、自分のことを人間味を感じて親しみを感じてもらいたいという目的で書いている。その点では独りよがりな自分のための文章だ。
ただ、日記を投稿して読者と僕が文脈を共有することで、今後投稿する文章に「前に投稿していたあれのことか」とか「前と言うことが変わっている」という面白さを感じてもらいたいという目的もある。

エッセイには共感や新しい視点以外に「作者と読者の文脈の共有」が求められていると考えている。
自分の知っていることが適度に文章に出てくると面白い。自分だけ(あるいは一握りの人間だけ)が知っていることであれば、よりその快感は強い。おそらく、その快感を得たくて人は歌人や小説家の作品だけでなくエッセイやツイートを読むのだと思う。憧れのあの人が考えていることを知りたい。あの人の視点がほしい。言葉が好きだ。そんな気持ちに突き動かされて、人はエッセイを読むと思う。

僕は作品とこのエッセイのアカウントを切り分けている(それによって書けることがある)のと、無名なのとで、僕のエッセイにはその快感はない。読んでくれる人に何を感じてもらえるのか、分からないままで文章を書いている。日記に関しては今のところ自分のことを人間味を感じて親しみを感じてもらうのと、継続して読んでくれる人と文脈を共有するためだ。

読んでくれる人にとって面白く、かつ僕が公開できる範囲で書けることを書くのは難しい。

「読んでいて面白い(だろう)」が◯
「あまり面白くない(だろう)」が×
「多分場合による」が△。全部場合によるかもしれない

私的な文章、例えば自分用の日記やSNSの鍵付きアカウントなどは前提を省略して文章を書く。自分には分かるし親しい友達には問題なく通じる。しかしその部分を共有している人間以外は読んでも面白くないだろう。
そのため、note用の文章を書くときは適度にパッケージする必要がある。

助詞を補い、状況説明をつけ、固有名詞は一般語に書き換えるか説明をつける。しかしレポートや書類のように脱色した綺麗事のような文にならないように、適度に生々しさを残す。

中学生くらいの時に文集に載せる作文を書いて、先生に言われたことを覚えている。作文自体は何を書いたのかは覚えていないが、感想とかではなくあまりにも淡々とした文を書いたのだろう。「こういうのはもっと具体的な出来事を書いた方が後から見返した時にこんなこともあったなっていう思い出になる」ということを言ってもらった。自分にとってということだけでなく、文集にした時に他のクラスメートにとっての思い出にもなるということだったと思う。noteに投稿するエッセイを書くときに、よく先生の上記の言葉を思い出す。

創作の作品を作るときは作者としての自分の感情を書かないようにしている。作者のことは作品を見たい人にとってはノイズになると考えているからだ。これは自分のため(出したくない)であり読者のため(ノイズにならない)でもある。
エッセイや日記などの文章を書く時に”自分の感情のちょうどよいバランスを見つける”というのは執筆をする自分のための行為だ。読者の誰かの利になっているのだろうか。この点はもう少し考えていきたい。

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