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月に叢雲、花に風

目次


〈開巻劈頭・歌方無常〉
と或る夜


 諸行無常の雨が降り、因果応報の雷鳴が轟く。
 しとしとと涙のように足元を濡らす雨に、しかし雷は天を裂き、其の白い光を地面へ鋭く這わせている。紫と灰、そして其処に血のような赤が不気味に混じった厚い雲の隙間から、か細い月明かりが何を照らすわけでもない儘に見え隠れを繰り返していた。背骨の曲がった枝垂れ桜ははらはらと水溜まりに己の花びらを浮かべ、沼中の蓮は目を瞑るように其の花を閉ざしている。赤々い捨て子花はさして興味もなさげにゆらゆらと身を揺らし、鮮やかな椿の花は首が斬られたようにぼたりぼたりと地に伏せていた。果たして今の季節は春なのか夏なのか、其れとも秋なのか冬なのか。そんな平凡陳腐な問いにすら答えが導き出せないほど、此の伽藍は荒れていた。まさしく夢のように。
 故に、男は息を吐き、獣は笑った。其処に混じった嘲りや蔑み、憐れみに憎しみは瞬間強まった雨足に掻き消されたが、しかして彼らは互いに其れを聞き逃すことはなかった。雨が降り、雷が鳴る。男と獣は、時を同じく少しだけ瞬きをする。
 いつか誰かが日満(ヒミツ)と呼んだ此の時代に、人知れず小さな戦が起ころうとしていた。
「ご覧よ、花が散っている」
 しばらくの沈黙ののち、先に言葉を発したのは、男ではなく獣の方であった。耳の中にごろごろと塵が転がるような其の声が鳴る雷よりも不愉快で、男は返答もせずに眉根を寄せるばかり。
「嗚呼、人というものは如何してこう詰めが甘いのだろうなァ。悲しいモンだね、だって、まったくそっくりじゃあないか」
 今、地面を揺るがしたのは、男の目の前で劈くような笑い声を上げた獣か、其れとも叫び声を上げ続ける百雷の方か。男は相手の声には動じず、只、刀の一振りを静かな呼吸と共に相手へと向けていた。獣の吊り上がった眼が今は見えない三日月を描く。
「——そっくりだよ。神サマってヤツにさあ」
「神……」
「おいおい、やっと話したと思ったらソレかよ。名を名乗るとかな、もっとあるだろ? お互い、初対面なんだからサ」
「化獣に名乗る名などない、分からないのか」
 大岩が鋭く地を殴るような音が響く。鳴き喚く雷の一つが、頭を垂れて祈りを続ける春を殺してしまったのだ。ばきばきと悲痛な呻き声を上げて倒れていく枝垂れ桜をちらりと見やって、獣はどかりと其の場に後ろ肢を前に投げ出すようにして座り込む。
「へえ、一応おれが化獣ってことは分かるのか。なンでもかんでも忘れちまう人間にしては上出来だな」
 化獣と呼ばれた獣は、二本足で立つ、巨大な猫の姿をしていた。彼は何股にも分かれた尻尾を怪しげに揺らし、帯紐を結うように、或いは歪な綾取りをするように、時折其れ等同士を絡め合わせている。化獣の猫に対峙する男は、延々と打ち続ける雨に自身の刀をかちりと握り直した。
「なァ、無常」
「……何故、名を」
「へええ! アンタ、無常って名なのかい。おれン中では、知ってる人間の名前って言えば、そりゃあ無常だけだからなあ。歌方(ウタカタ)無常! 素敵な名前だねェ。流石、天上神が与えてくだすっただけはある」
 小馬鹿にするように然う笑って、猫は片方の前肢を枕にごろりと其の場に寝転んだ。ざあざあごろごろと耳にも肌にもうるさい夜だが、けれども無常と呼ばれた男と打って変わって猫の方は一滴も雨に濡れず、また其の躰に泥の跳ね跡も見当たらない。其れも其のはず、無常が立つのは彼を守るものなど一つもない空の下、ぬかるんだ地面の上であり、そんな彼に対し猫が転がっているのは雨にも泥にも塗れぬ本堂の向拝の下であるのだから。
 そんなこちらの何もかもを嘲り飛ばすような猫の態度に、無常はぐつりと何かが煮えるのを感じ、其れと同時に彼は自らの水を入れる器の小ささを恥じる。然うして相手に悟られないように息を吐き、其れから吸った。前髪から絶え間なく滴り落ちる雨雫よりも、どくどくと脈打つ己の心臓の方が喧しい。悟られぬようにすべきは呼吸よりも、此の動悸に他ならないのではないだろうか。猫の尾が、ゆるゆると三つ編みを作っていた。
「……貴様の言う通り、私の名は歌方無常——初代歌方当主と同名だ。だが、其れでも、私は初代ではない。貴様の指す、無常ではない。貴様は、そんな私に何を望むと言うのか」
「人間っていうのは、どうも昔から然うらしいな。曖昧な言葉で真実をも煙に巻き、相手を惑わそうとする。ふふ、ふふふ、ほんとに神サマみたいだ。其の調子だと、今まで随分楽しかったみたいだなあ?」
 大きな両目をすう、と細めて、猫は其の尻尾の一本を無常の方へと向けた。
「成る程、確かにアンタは無常だが、〝あの〟無常ではないらしい。あは、アハハ、でも、其れでもさあ、歌方では在るだろう、確かに? 人間の、歌方一族。他のどの人間が知らなくても、アンタだけは知ってるはずだ。歌方という家名がどんな意味をもっているのか。自分たちがどういう存在なのか。なァ、然うだろう、当代之無常?」
 無常は猫の其の声に、びりびりと刀を握る手が痺れるのを感じた。其れは、殴り付けるような雨にも、地を震え上がらせる雷にも怯まなかった此の腕が、今は気を抜けば刃を取り落としてしまいそうなほどの圧であった。柄を握る手に力を込める。相手の目をじっと見据えた。其れでも悟られてはならない、何も、決して。
「——記憶の話か、初代歌方の」
「其れ以外に何があンだよ? 嗚呼、面倒だなあ、アンタらは。流転なんてモンがあるから、話の進みが遅いったらないぜ。むしろさァ、無常、アンタは無常の何を憶えてるんだい?」
「そんなことに答える義理はない」
「蓮の花が咲いてる泥の中で溺死したら、或いは極楽へ逝けたりすンのかねえ」
 然う猫は突飛にも聞こえる台詞を吐いて、にゃあ、とわざとらしくも甘く鳴く。其れから前肢をざらりと舐めた猫の、其の尻尾の一本は未だ無常を指していたが、しかし別の一本は月明かりに照らされぬ泥中の閉じた蓮を指している。猫が笑い声を上げない代わりに、落雷が一つの蓮の花を灼いた。
 無常は唇を噛み、心中で己を叱咤した。揺らぐな、乱れるな、悟られるな、平静を保て。見失うな、自分はなんのために此処へ来たのか。無論、のこのこと屍を晒すために来るはずもない。自分は、此の化獣の首を獲りに来たのだ。たとえ相討ちになったとしても。
「……アンタの嫁さん、なんて名前だったっけ? アゝ、いいよ答えなくて。どうせ答えないだろうし、興味もねェしサ。然うだ、ところでさあ、子どもの名前ってもう考えたのかい?」
 自分の身体を指しているはずの猫の尾が、心の臓に絡まってくるような錯覚を起こして、雨ではないものがこめかみから流れ落ちるのを無常は感じた。其れでも彼は猫のてらてら光る双眸から目を逸らさず、歯の隙間からゆっくりと息を吐く。
「——大したことは憶えていない。まず、我々の祖先——歌方無常が始人(シジン)……人間の始祖であることが一つ。そして、其の無常を創り出したのは、他でもない最上神。最後に……十二支を決めるための競走……」
「アハハ、其れだけ憶えてりゃあ上等じゃあないか。ふふ、十二支の競走……人間ってモンは、ホント、神サマにそっくりだよ。たとえば無常の創り手——天上神、玉響之遙花(タマユラノハルカ)なんかには、そりゃあもう」
 声色ばかりはごろごろと笑った儘、猫は気怠そうに其の身を起こし、けれども立ち上がりはせず無常の目を見やる。其れでも、無常は彼と目が合ったようには思えなかった。猫の眼は今、何故だろう焦点が合わずに、どこかぼんやりとしているようだった。
「人ってのはサ、美しいものを宝のように愛で、愉快なものを追いかけて笑い、わざわざ悲しいものを見て心を痛め、気に入らないものがあればソレを容易く壊すンだぜ。いろんな方法、いろんな嘘を操ってな。しかも、なまじ最上神に近い存在だから、湧き続ける好奇心にはどうやっても勝てないときた。いんや、抗おうともしてないか。人間、アンタら、自分の然ういうとこに自分自身で気付いてはいるのかな?」
「何が言いたい……?」
「何、が、言い、たい?」
 無常の発した問いを一つ一つ確かめるように復唱して、猫は今までで一等大きな声で笑った。鳴り続ける雷鳴をも掻き消してしまうほどの大音声に、しかし稲光は其の一瞬を切り取るかの如く猫の顔を白く照らし出す。
「やはり、やはり。酷い、怖い、恐ろしいものだなあ、人間サマは」
 其のさまに、無常は肌が粟立った。視界に映った猫の表情は、最早猫とも言い難い。目の前で、般若の面が笑んでいる。或いは、鬼が恵比寿の面を被っているのか。無常は己の皮膚がびりびりと震え、身体が裂けたような錯覚さえ感じた。左耳から鈍痛と共に、頭が揺さぶられるような違和感が押し寄せてくる。然うして、雨と一緒に耳の中から何かが地へと流れ落ちていった。おそらく、其れは赤色をしているのだろう。
「あの競走で、如何して鼠は此のおれに嘘を吐いたのだと思う?」
「……如何、しても己が勝ちたかったのだろう」
「十二支に成るためにな。そりゃあ然うサ。化獣が十二支に成れば、そいつを創った親の神さんは天上神の御膝元で十二神に成れるんだから。何時だって何処だって、親を喜ばせたいってのが子の心さァね。まったく素敵な呪いだよ、泣かせるモンだ」
 猫は其の顔に笑みを貼り付けた儘、芝居がかった調子で言葉を継ぎ続ける。無常は心の内側だけで唾を吐いた。畜生、耳が遠い。左の鼓膜が破れたせいだろう。猫は前肢の片方で、鼠の尻尾を摘まみ上げるような仕草をした。
「でも、鼠に嘘が吐けるかねえ? 非力でちいちゃな親から創り出されたあんな杜撰な脳味噌が、果たしてはじめから嘘を識っていたかな?」
 こんな問答に意味はない。無常はぐわんと鳴る耳に顔をしかめ、心臓の底でかぶりを振った。彼奴は自分ではない無常の過去を暴きたいだけだ。其れを認める言葉をこちらから引き摺り出したいのみ。
「嘘、か」
「うン?」
 其れを自覚するとくつり、と彼は自嘲するように笑った。後ろに退いても、もう泥に足を取られるばかりだ。遅かれ早かれ、己は此処で死ぬのだろう、今日。
「——嘘が吐けるのは人間だけだ」
 おそらく、猫がこちらから引き摺り出したかったのは此の一言だ。猫は無常の言葉を聞くと其の吊り上がった痛々しいほどに大きな目をゆっくりと瞬いた。摘まみ上げていた見えない鼠を彼は放り投げ、其れを空中で引き裂く。雨音と共に、濡れそぼつ捨て子花の首が全て飛んだ。
「じゃア、なんで、鼠は〝嘘を吐く〟ということを識っていた?」
「分かりきった問答は時間の無駄だと思わないか。無論、人間——歌方無常が入れ知恵をしたに決まっている」
「嗚呼、然ういや、人間ってのは自分の死を悟ると開き直るモンなんだっけ?」
「どうとでも捉えればいい。始祖の贖罪を求めるならば私を此処で殺せ。其れとも腹を切ろうか?……だが、妻だけは返してもらうぞ」
「はっはあ、ハハハ!」
 猫は自身の背を本堂の扉に叩き付けて笑った。暗がりでよく見えなかったが、白雷に照った六角形の御堂は、其の一面々々に趨る獣らの画が描かれているようだった。一瞬だが、其れ等が無常の目に映る。子、丑、寅、卯、辰、巳……
 こめかみの奥で瞬いた始祖の記憶の欠片が、無常の目にかつての競走を浮かび上がらせる。己ではない誰かが見た、己が見たことのない景色が視界に映るのはひどく気色の悪いことだ。だが、同時に其れを甘んじて受け入れている自分も在る。何故ならば、そもそも知っていたからだ。忘れていただけで、己に巡る血が知っていた。本堂に描かれている獣らは、元を辿れば目の前にいる猫と同じ化獣だが、異なるのは彼らが最上神の始めた競走で勝ち抜き、十二支という名誉ある化獣の地位に其の名を連ねたということである。其れを己は、唐突に理解したわけではない。其れを己は、突如として思い出したのである。其れは此の刀を握った瞬間か、或いは此の刀を握れとおのが血が囁いたときからか。
「——もう返したよ」
「何?」
 なんとはなしに呟くような猫の声に、ぱちんと遠い視界が弾ける。無常が相手の方を見やれば、猫は目を三日月にして無感情ににやりと笑んでいた。
「無常、アンタはなんで此処へ来た?」
「莫迦なことを。貴様が呼んだのだろう、私の妻を質に取って、だ」
「アンタ、屋敷で犬を一匹、飼っていたなあ」
「憑かれて化生の者と化していた。貴様の仕業であろう」
「勿論。中々上手く言葉を話したろう? 此の儘じゃあいずれ意味もなく死んでいく只の犬ッコロを死なずの物の怪にしてやったのサ。犬神サマとでも呼んだらどうだい。何、飼い主と飼い犬の立場が逆転するだけだ。おれの処女作、有り難ァく受け取っておくれよ」
 無常は思わず、は、と短く息を吐く。侮蔑と嫌悪、そして微かな恐怖と諦念の入り混じった其の呼吸に、彼は彼自身で瞠目した。顔を上げる。其れでも未だ刀を握り締めた儘、無常は溜め息で猫に問いかけた。
「十二支でもない……そんな只の化獣である猫の始祖が如何して、十二支の子孫である犬を憑き物に出来る?」
「まァ、喰ったからなあ」
「喰った?……よもや」
「喰ったよ、十二支は全部。自分より下位の存在に喰われるってのは、一体全体どんな気持ちなんだろうねえ」
「……何故、其処までの力を持てた?」
 ふと、雷鳴が止む。其れに続くように雨足も少し勢いを削がれ、辺りの空気や音が幾らか鮮明になる。自分らを包む音が多少静かになると、無常は不意に左耳の痛みを思い出し、ついでと言わんばかりに己の鼓動の速さも再度の自覚を強いられた。荒れきった此の地で、目の前の化獣ばかりが余裕の笑みを浮かべている。彼は無常の問いに思案する素振りを見せ、
「アンタらの御陰さ、人間サマ方」
 と、自らの秘密を分け与えるかの如くにそうっと無常に囁いた。無常は其の言葉が心臓に直接刻み付けられたように感じ、訳も分からずはくりと息を呑む。彼はぎり、と歯を食いしばり、猫の方を睨み付けた。
「どう、いう?」
「額面通りに受け取れよ、おれはアンタらと違って嘘は吐かないからサ」
「嘘……」
「アハハ、然うだよ、嘘吐きめ」
 ざあ、と風が逃げ去って、すべての音が掻き消えた。
 無常はとうとう己の両耳が駄目になってしまったかと早合点しかけたが、しかし目の前の化獣の息遣いばかりは耳の中へと入り込んでくるため、駄目になったのは自分の聴覚ではなく自然の声だということに気が付く。猫の呼吸に乗る其の笑い声が重い。圧し潰されそうなほどに。
「おれは一人で来い、とアンタに伝えただろう? 嫁さんに会いたきゃ、一人っきりで此処まで来なってさあ」
 猫の言葉に、無常は笑った。最早笑うことしか出来なかった。小手先の芝居など、此の〝バケモノ〟の前では無意味だったというわけだ、何もかも。
「一人で来りゃあ、会わせてやったよ。だっておれ、嘘は吐かないからな。でもアンタ、違うだろう? 一人で、来なかったろう? 人間の良くないところは、嘘は吐けるが耳やら鼻やらが鈍いってとこ、だよなあ」
「嗚呼……然うみたいだな。私も今、然う思ったよ」
「ふふっ、そォかい」
 成る程、と無常は心の中で溜め息を吐いた。一人きりで来れば、確かに自分は妻に会うことが出来ただろう。おそらく此の猫は、本当に嘘は吐かない。相手のうねる複数の尻尾を見やる。意味が在るのか、其れとも無意味になのか、其の尾は今何かの花の形に編まれていた。猫は嘘を吐かない。しかし、言葉の綾くらいは編めるだろう。彼はどうも、編み物紛いが得意のようであるから。
「どちらにせよ、殺すのだろう? 私のことも妻のことも」
「まァね、嫁さんを返すとは言ってないし。でも、抱き合って殺されるのと然うでないのだったら、前者のが嬉しいだろう?」
「は、は。然うでなくとも、死すれば同じだ。いずれ黄泉の國で会うのだから」
「やれ、随分とおめでたい妄想をしておられるな、人間サマ」
 猫は目を細めて、尾をゆっくりと揺らした。
「嫌いなんだ、おれ。嘘と嘘吐きが、此の世で一番」
 其の言葉に次いでどう、と雷が落ちるような音がした。けれども空は光っておらず、何かが焦げた臭いもしない。只、視界の隅で大きな影が落下するのみ。今落ちたのが、木に留まっていた烏であればどれほどよかったことだろう。無常はそんな自身の行動が命取りだと分かっていても尚、顔をそちらへ向けずにはいられなかった。
「奏……!」
 然う発した無常の耳には、しかし己の声など届いていなかった。今彼の耳に入るのは、ぬるい雨の音でも鳴りを潜めた雷の音でも、そしてほくそ笑む猫の吐息でもなく、閉じた蓮の咲く沼に虚しく響いた、どぽん、という音ばかりである。無常は自身の唇が震えていることにも気が付かぬ儘、其の顔をにやにやとしている猫の方へと向けた。
「さっきの、アンタの僕だよな? 左の胸に穴を開けてやったよ」
 猫は其の目を眇め、半ば歌うように然う言った。そして彼はぬっと二本足で立ち上がると、ゆっくりとした足取りで無常の目の前まで歩を進める。相手の纏うものに何か有無を言わさぬものを感じ、無常は其の場を動くことも出来ずに足を地面に縫い止められた儘、やって来る猫の目を見据えていた。
「アンタの僕も、アンタの妻も、おれが責任をもって死なせてやる」
 猫は、笑っていなかった。
「だが、人間。無常。歌方無常。アンタ、アンタら、アンタだけは死なせない。絶対に。何度も何度もアンタは殺されて、何度も何度も蘇り、永遠に死ぬことが出来ない儘、地獄に落ちれない地獄を味わうんだ」
「人は……人は、殺されれば死ぬ。私を殺したければ、私を死なせなければならない。逆もまた然りだ。私たちは殺されても死なない貴様らとは違うのだ、分からないか?」
「いいや、分かってるよ。だが、人には輪廻転生が在るからなあ。おれは少しだけ、ほんの少しだけサ、其処に手を出させてもらうことにした」
 言いながら、猫は瞬きと同時に自身の尾で無常の首を締め上げた。無常は突如として襲ってきた圧迫感に、自分の肉体の其処此処で血の巡りが切れていくのが分かった。先ほどまで自分と共に在った空気と呼吸が、一瞬にして目の前で千切って捨てられる。みしりと鳴るおのが骨の音ばかりが大きく聞こえた。
「無常。御前の魂は、記憶と成って御前の子に宿る。過たず、必ず、御前の子に、全て。御前が死んだ瞬間、御前の記憶の全てが子に宿る。真白い赤子には赤色が過ぎる記憶だ。子は気が狂うだろう。憎悪と憤怒に気が狂って、再び此のおれの元までやって来るだろう。嗚呼、お可哀想に。しかし御前には、子を成さぬことは出来ない。最上神、玉響之遙花との誓いに反するためだ。最上神に与えられた流転を愛し、身を任せ、産み、産まれ、始人の血を絶やさぬという誓い。まさか己の生みの親である最上神に反旗を翻すことも出来まい。だから御前は、子を成し続ける。然うして御前は殺されても、殺されてもまた産まれ続け、何度も何度も今日という日を繰り返し続ける。永遠に。永久に。
 ——おや、何処かで産声が聞こえるなあ!」
 ぶちぶちと血の管と共に己の生命の糸が切れていくのを無常は感じる。こちらにずいと顔を近付けて言葉を発している猫が何を言っているかはもうほとんど解らなかったが、兎に角其れが呪詛に等しいものであることだけは思考を放棄しかけた脳味噌でも判った。
「なあ、無常。おれと未来永劫、終わらない鬼ごっこをしよう」
 相討ちなど、夢のまた夢。けれどもせめて一太刀。いつの間にかきつく瞑ってしまっていた目の片方をどうにかこじ開けて、こちらを見下ろしている猫の姿を視界に映した。然うして今しがた撃ち落とされた友と、屋敷で此れから命を奪われるのだろう妻の姿を開けられなかったもう片目で思い浮かべ、其の怒りだけでとうに感覚を失っていた右手に力を込める。
「人間は、動きも鈍いよなあ」
 其れでも、無常の腕は持ち上がらなかった。刀を握る彼の右手首から先は、猫のどこか無感情な言葉と共にぐしゃりと音を立て、ぬかるんだ土の上に落ちる。次いで、ぶつり、と己の命が絶たれる鈍い音が、己の内だけで木霊した。痛みはなかった。只、虚ろに思った。視界に霞がかかり、瞼が厭に重くなる。雨はどうやら止んだらしい。雷も、一体何処へ消えたのやら。目の前に、自分の手首と其れに握り締められた儘の刀が落ちている。自分も気が付かぬ内に、同じく土の上に放られたのか。目の前が刻々と暗くなる。己の心音もまた、其れに続くように遠くなっていった。
「おおい、まだ聞こえてる? 忘れてたけど、黄泉の國でアンタの嫁さんに会ったら伝えておいておくれよ。御出産、おめでとうございますってさあ。ま、もしも黄泉の國に逝けたらだけれど、な」
 昏い。最早何をも目に映すことは叶わない。耳だけが名も知らない化獣の声を拾っている。嗚呼、と思い、ふと呼吸を諦めた口を開いた。
「……おまえ……名は……?」
「可笑しなことを訊くね、アンタは。名なんてないよ。名が有るのは、名を与えられたものだけだろう。不便だったら、猫鬼(ビョウキ)とでも呼んだら? 勿論、来世でな」
 口を閉じる。辛うじて開けていた目も、とうとう瞼の重みに耐えられなかった。薄れていく意識の中でふと浮かぶのは、妻の笑顔と、友であり家族である奏を犬死にさせてしまったことに対する自責の念だった。嗚呼、済まない、済まなかった、奏。やはりおまえを此処へ連れてくるべきではなかった。そも、忍などという生業からは足を洗わせるべきだったのかもしれない。おまえは優しくて素直な子だから、いずれ生まれてくる我が子とも真の兄弟に成れると思っていた。平凡な幸せを掴むように、きっと、きっと。
「もう聞こえないかなあ。無常、除夜の鐘が鳴っているよ。然ういや今年は戌年だったっけねえ、なあ?」
 鐘の音は聞こえない。其れにしても不思議なものだった。おそらく今、無様な屍と化そうとしている己を見下ろしている相手に、しかし自分自身が抱くのは――最期に抱くのは。
「ご覧、花が散っているよ。儚いものだ、命なんてものは」
 怒りではなかった。憎しみでもない。虚しさも、また違う。
 ——只、悲しかった。
 ひどく悲しいと思った。だから、
「何……。命は……咲けば、いずれ散るのみ」
 夜。闇夜だ。音も消えた。己の言葉は、果たしてこえになっただろうか。こんなよるに、つきはいま、いったいなにをてらしているのだろう。ああ。ああきのうまではたしかにみなわらっていたはずだつたうまれくるこのかおをおもいうかべてなをきめくちにしてこのこはきつとしあわ
「よく、喋るなあ」
 然うして無常は、ぴくりとも動かなくなった。
 事切れた無常を見下ろして、猫は熱のない声で然う呟く。其れから数呼吸の間、彼はじいっともう言葉を紡ぐことのない死人を眺めて、ふと無常の羽織を摘まむようにして彼を己の目線の高さまで持ち上げる。そして猫はあんぐりと大口を開け、無常の亡骸を自身の舌の上へと乗せた。次いで、何を思ったのか彼は空を見上げる。薄気味悪い色の雲に切れ間が生じ、月が花と人の残骸ばかりが転がる伽藍を照らしていた。其れ以上でも、其れ以下でもない。猫は瞠目し、無常の亡骸を噛み砕くではなく、ごくりと呑み込んだ。
「——またな、無常」
 其れだけ発して、猫は再び月の隠れた闇夜の中を去っていった。
 雨もなく、雷もなく、風もなく、光もない。猫が消えた後の伽藍には未だ刀を握り締めた儘の片手と、横たわる花ばかりが残された。其処では不思議と血の匂いはせず、只、掻き毟るような花の香りが嗚咽のように漂い、雲間から時折差す月明かりが、刀の白刃を涙のように光らせていた。
 そして其の夜、何処かで確かに、赤子が産声を上げていた。




 陽ノ国。東の海には然う呼ばれ、日の出と共に目を覚ます、黄金の眠る島が在ると云う。そして其処には、遠い昔のことか遥か未来のことか定かではないが、しかしひっそりと囁くように語られる奇譚な物語が在ったそうな。其れは、花が咲いては散るように。花が散っては咲くように。嗚呼、さて、ところで……

 ——果たして此れは、一体誰の愛の話だったのだろう?


20190922 
シリーズ:『花二嵐ノ

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