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エバ

 目次

 常磐樹の街。それがこの中央都市の呼び名だった。
 街道を進んでいる途中、青く大きい城の影として街の奥にそびえていたものは、しかして城ではなく、一本の大きく大きな樹であった。いいや、正しくは城ではあるのだが、元々は樹なのだと街の人々は語る。昔、世界で大規模な戦争が起こり、兵力をほとんど持たないこの緑の大陸にも争いの火の粉が燃え移りそうになったとき、当時の王は民を此処——常磐樹の街へと呼び寄せ、そして街の中心にそびえる大樹の中へと自身も一緒に身を隠したらしい。そうしたのがいつ頃なのか正確には定かではないが、緑の王家は万が一のときに備えて世界戦争以前から、この大樹の幹の中を掘り進め、人工的な樹洞をつくり出しては十分に人が住めるようにと改造をしていたと云う。
 確かに、遠くから見れば城と錯覚するような大きさだが、近付いて見ればそれは未だに大樹の姿を保っている。目を凝らせば樹洞が幾つも存在しているのが視界に映るが、けれどもこの大きさの前にはそれもほとんど気にならないだろう。
 それからややあって戦争が終わり、存外大樹の中で過ごすことが気に入ってしまった当時の王は、以後この樹を自らの王城と定め、常磐樹の街を国の都としたらしい。正確には都と定められてからこの街は常磐樹の街と呼ばれるようになったと云うが、それ以前の街の呼び名は定かではないのだとか。案外、街ですらなかったのかもしれない。
 王家が廃れ、その存在を人々に忘れ去られてしまうまで、大樹は王城として永く機能していたと云うが、当時魔法使いの庭師によって〝城っぽく〟整えられていた樹の枝葉も今や見る影もなく、常磐樹の街に存在するのはただただ王城のごとくそびえる、恐ろしいほどに巨大な大樹その姿であった。そう、庭師の風を操る魔法によってさながら城の外形に刈られていた枝葉は、王家衰退後も成長を続け、不朽の緑をその両腕で誇っているのだった。
 そんな枯れないこの大樹の名前は、エバーグリーン。
 常磐樹の街を国の中心と定めた王家が滅びた今現在でもこの街が都として栄え続けているのは、ひとえにエバーグリーンに一種の神話性が在るからだろうと、多く人々は考えているらしかった。事実、緑の大陸は訪れる者を拒まず、また出ていく者も拒まない、旅人をはじめとして貿易の商人や遊芸人の多い国であるから、むしろ海沿いの港街の方を中心とした方が色々と都合の良い面もあるのだと言う。ただ、中央都市されるのが何百年経っても此処、常磐樹の街であるのは、やはり大樹エバーグリーンの存在が大きいのだろうと思えた。
「もし……旅のお方」
 視界を遮られることなく大樹を見上げることのできる、庭園状になった広場で街の人々から聞いた話を書き連ねていれば、ふと柔らかな声に呼びかけられて、はっと羊皮紙から顔を上げた。
「書き物中のところ、失礼致します。その、合唱には……ご興味、ありませんか?」
「合唱、ですか?」
「はい。街の教会でコンサートがありまして。ええと、夕暮れ前に」
 そう言って控えめに微笑むのは、まだ幼さの残る一人の少年だった。
 襟に白の二本線が引かれた、黒に近い青の長衣を纏っている彼は、封筒のたくさん入った小さな籠をその細腕に引っ掛け、こちらに向けて浅く問いかけるように首を傾げる。卵色に近い金髪と同じ色をした長い睫毛が、少年の瞳を重たそうに覆っていた。そんな彼につられるように少し首を傾げて言葉の続きを待っていれば、少年ははっとしたようにその睫毛を上げてこちらの目を見る。
「あっ、申し訳ありません、突然こんなこと……あの、わたしの名前はエバと言います。この街の教会少年合唱団——聖歌隊にてボーイ・ソプラノを担当しておりまして、もしご興味がおありでしたら招待状を、と思って」
「僕はマイロウド。ありがとう、すごく嬉しいお誘いです。でも……どうして僕に?」
「え? え……っと、わたしたち、自分たちの合唱に興味を持ってくださりそうな方へとお声がけをしておりまして……マイロウドさまはその、……なんと言えばいいか……」
 エバと名乗った少年はぱちりと睫毛を上げて、今すぐには言葉が纏められなさそうに籠の中身とこちらの顔を交互に見た。それからこちらの瞳のもう少し下辺りで困ったように再び目を伏せ、視線を止めたエバを視界に映して、変な質問をしてしまったかもしれない、と小さく反省をする。そうしてゆるりと彼から視線を外して、籠の中の白い封筒を見た。
「僕がほんとうにそのお誘いを受けていいのなら、ぜひ。ええと、僕の今の手持ちで足りるのならいいんですけど……」
「あっ、いえ!」
 路銀の残りを確かめようと荷袋の中を漁ろうとすれば、エバが顔の前で両手を振ってそれを止めた。少年はその勢いで籠から封筒を一枚取り上げて、ずい、とこちらの目の前に差し出す。
「お代は頂いておりませんので! けれどその、もし何か、わたしたちの歌を聴いてお心に残るものがございましたら、教会へのご寄付というかたちを取らせて頂くこともできるようにはなっておりますが……」
「そうなんですね。だったら、必ず——」
 寄付を、と言いかけたところで、エバが再び両手と、今度は少しだけ自身の首も振った。
「もちろん、強制ではありませんよ……!」
「ええ、分かってます。でもきっと、心打たれる歌を聴かせてくれるのでしょう?」
「そっ——」
 封筒をエバから受け取りながらそのように問えば、彼は一瞬ぱあと顔を輝かせた後、しかし何かに思い至ったようにその表情を硬くした。そうして自身の両手の指を組み合わせると、詰まった言葉の代わりにその重たげな睫毛を上げてこちらを見る。
「……そうだと、いいのですが」
 眉を下げ、どこか掴みどころがなさげに微笑んだエバは、そうすると同時にその唇から何か声になっていない言葉を発したようだった。そんな少年の瞳は蛍石のように様々な色を併せもつ花緑青色で、しかしその底の方には、自身の睫毛のような金の色も見え隠れしているように映った。
 少し、風が吹く。その風は街の中心にそびえる大樹の香りを引き連れて、柔い音と温度を纏いながら自分と少年の間をそっと流れていった。
「……エバ?」
 少年はいつの間にか組み合わせていた指をほどき、右手だけを自身の喉元へとやっていた。そのようにして彼は、きっと吹いた風よりもささやかな力で己の喉に触れながら、まるで夕陽でも眺めるようなまなざしで、緑のにおいがやってきた方角を見つめている。エバーグリーン。ずっと生き続ける樹。少年は、少しだけ息を吸ったようだった。
「——ぜひ、夕暮れに。お待ちしております」
 ゆっくりとこちらへと視線を戻したエバは、囁くとも呟くとも違う、けれどもそれに限りなく近い温度でそう言葉を発した。彼の指先は喉元から心の臓へと移動しつつあったが、何故かその仕草を隠すようにお辞儀をしたエバは、それでも顔を上げる瞬間、まるでどこかが痛むかのような表情で笑む。少年の蛍石の底に見える、金の色が淡く揺らいだ。それは彼が睫毛を伏せるようにして微笑んだからだろうか、或いは。
 そうしてエバはくるりと自分に背を向けると、近いでも遠いでもない場所に立つ、彼と同じような青黒い長衣を纏っている大人の元へと歩いていった。おそらくエバの所属しているという聖歌隊の指導役か、それに近しい人物なのだろう。少年の持つ籠の中身を指し示しながら、何事か言葉を交わし合っている。地図を見ているようだから、残りの招待状を何処で配るかを話しているのかもしれない。
 ややあって、エバともう一人が広場を去っていく。少年の耳の下で切り揃えられた金髪が、歩くたびに陽を受けてちらちらと輝き、その肩に小さく光を落としていた。そんな彼の姿がすっかり見えなくなってから、受け取ったままずっと手の中に有った白い封筒へと視線を向ける。その封を開け、そっと中身を取り出すと、淡い桃の台紙に花の縁取りが金箔で箔押しされた招待状が顔を出した。
 それを目に映して招待状を再び大事に封筒の中へと仕舞うと、膝の上に乗せたままだった画板とそこに挟んでいる羊皮紙をなんとなく眺め、そうして更になんとなく、少年が見つめていたエバーグリーンの方へと顔を向けた。それがあまりに大きいものだから、ずっと上の方はもう青い霧がかかっているかのように霞んで見える。それからふと、大樹に視線を注ぐエバの目を想い出した。なんて言っていたのだろう。なんて言っていたのだろう、彼の目は? けれどきっと、樹を見ていたわけではないことは間違いない。この旅の中で、ああいうまなざしをする人と何人か出会ってきた。あの目は、たぶん、きっと。
 インク壺に身を浸したままだった鵞ペンを手に取って、再び羊皮紙へと目を落とす。常磐樹の街についての覚え書きが連なっているその一枚の中で、どこか空いている場所はないかと視線を巡らせた。
 エバのあの目がどんな言葉を発していたかは分からない。けれども、声にならなかった言葉なら。そうだと、いいのですが。そう発した彼がその後に口にした言葉なら、少しだけ聞こえた気がしたのだ。だって、その思いなら、そういう想いなら、いつも。心で首を振って、ペンを羊皮紙の上に走らせる。
 ——〝あの人がいなくても。〟
 書いて、息を吐く。少年のあのまなざしは、言葉はきっと——きっと自分も、もっているものだった。



 ばら色のステンドグラスから差し込む光がその頬を染めて微笑みながら、歌を歌う少年たちの姿を照らしている。
 さながら柔らかいストールの如く少年たちの身を包む薄桃色の光に対して、しかし彼らの表情は大地を踏み締めるように真剣そのものであった。その歌声は時に雲よりも高い天上の水色を描き、時に澄みきった夜の星空を描く。合唱の中で少年たちの声によって紡がれるそれらの景色は、どちらもひどく美しく、そしてもの悲しいほどに静謐なものだった。白い光で、空の中の青が少しだけ滲む時間。少年たちが歌を歌っている。歌が聴こえる。それなのに、静かだと感じた。だからこそ、静かだと。
 つと、啜り泣きのようなが聞こえてきて、ちらりと視線だけで隣を見やる。何重にも響き渡り、羽のように広がる聖歌隊の歌声に包まれながら、隣に腰掛けている老人は背を丸めて自身の両手を組み合わせていた。それはさながら祈りの姿だ。その目尻には、やはり少し涙が滲んでいるように見える。そんな老人の目線は聖歌隊の少年たちを見ているようで、見ていないようでもあった。彼の目に映っているのは少年たちなのか、降り注ぐ光なのか、それとも歌声で描かれた空か、或いは羽か。
 老人のまなざしに、何故だろう、少しだけカラクリ時計の少年の微笑み方を想い出す。老人の目は、神さまではなく、けれども神さまに近いものの名を呼んでいた。呼んでいる、気がした。彼のように。
 いいや、分からない。分からなくなってしまって、心の中で息を吐いた。そうして老人から視線を外して、再び少年たちの方を見る。
 ボーイ・ソプラノ隊の中心に立ち、或る曲ではソロパートを堂々と歌い上げていたエバは、今は少しばかりその金色の睫毛を伏せ、彼らの声で描かれる天上の空気の一つ、夜空の星の一つ、白い羽根の一つになっていた。庭園広場にて招待状を差し出してきたときの服装とは打って変わって、エバをはじめとする少年たちは皆、先ほどの夜青色をした長衣を脱ぎ去り、今注いでいる光の色にも似た桃色の衣装を身に纏っていた。彼らの首から下げられた十字架の飾りが、光に照らされてちかりと輝く。
 心から歌を慈しむように、だからこそ揺るぎのない出で立ちで歌うたうエバは、まるで自分に招待状を渡してきたあのときの人物とは別の人間のようだった。歌を歌う彼は、さながらすべてのしがらみから払拭されて、心の窓という窓をすべて開け放っているようだった。少年の瞳に、あのどこか寂しげな色は浮かんでいない。代わりに、祈るようなそれが彼の表情にも浮かべられていた。
 ややあって、聖歌隊のコンサートは、はじめから終わりまで賛美歌を含む聖歌のみで歌い上げられ、夜の訪れと共にそっとその幕を閉じた。自分たちの役目を終え、教会の中から去っていこうとする聖歌隊に拍手をしようと自身の両手を少し持ち上げたところで、その甲の上に他人の温度を感じ、そちらの方へと思わず振り向く。
 老人のやさしげな瞳が、こちらを見ていた。その目だけで首を振っていた。諭すように、窘めるように。
 そんな老人のまなざしに、拍手をするために上げた両手を打ち鳴らすことがどうにもできなくて、音を立てないよう空気を包んだそれを膝の上へと下ろした。ばら色の光が、少しだけ藍みを帯びて教会内へ満ちている。その光に後押しされるように聖歌隊の少年たちが教会から去っていく。そんなエバの金色の髪が彼の歩に合わせて規則正しく揺れ動き、昼間のそれとは少し変わって、柔らかく輝いていた。
 そうして視線で彼を追っていれば、聴衆からその姿がほとんど見えなくなった頃、少年は少し、ほんの少しだけ俯いたようだった。
 日没を告げる鐘の音が、何処からか響いていた。




 教会を出ると、空が低いところから紅、紫紺、濃藍と徐々に夜の色へと移り変わっていた。中でしばらく歌の余韻に浸っていたせいか、教会の近くにもうほとんど人は見当たらない。皆もう、帰路へ着いたのだろう。さらりと風が吹く。それは肌に冷たく、柔らかな外灯の光も暖かさを求める身体の足しにはならないようだった。
 教会の四方をぐるりと囲むようにして在る階段を、入り口に面しているところから一段降りて、しかしふと足を止める。そうして背後を振り返った。なんとなく、何かが光った気がしたからだった。
「……エバ?」
 振り返った先、影の中で小さな影が身じろぎするのが見える。呟く程度だったこちらの声は静かな教会の前で思ったよりもよく響き、それを聞き取った少年ははっとしたように顔を上げたのだった。驚きに近しい表情を浮かべた彼の瞳が自分の方を見る。
「ど——どうしたんですか、そんなところで? 具合でも……」
 教会の側面に当たる階段の三段目、その隅の方で頭から夜青色の長衣を被って膝を抱えている少年に近付きながらそう問えば、彼は目を伏せて黙ったまま首を左右に振った。口元に微笑みを浮かべてはいたが、けれどその眉間には淡く皺が寄っている。
「だいじょうぶです。お気遣い、ありがとうございます。……少し、考えごとをしていて」
「考えごと?」
 外灯に照らされない教会の影で、エバの白い顔が控えめに笑んだままこちらを見ている。それから彼は顔を前へと向け、手元の十字架へとその目線を落とすと、薄く唇を開いて小さく呼吸をしたようだった。柔い月明かりが十字架を一瞬ちか、と光らせた。
「マイロウドさま。……今日のコンサートはいかがでしたか?」
 なんとか笑顔を保ちながらもどこか浮かない表情を滲ませているエバが気にかかりながら、しかし彼がつと投げかけた問いに、自分の耳には聖歌隊が響かせていた歌が戻りつつあった。思わず両手を合わせて、少年に向かって頷き返す。
「ああ——それはもう、素晴らしかったです。物を知らないのでつい拍手をしてしまいそうになって、隣の方に止められたほどなんですよ。代わりと言うわけではないですが、寄付の方もさせて頂いて……その、小銭程度で申し訳ないのですが」
 そんな、と両手を振りかけたエバの方を見て、もう一度頷いた。
「とにかく——素敵でした、ありがとう」
 こちらの言葉を聞いて、エバは一瞬だけ嬉しそうに口元を緩ませた。それは事実一瞬ばかりで、すぐに彼の瞳は夜の空よりも寂しげな色を灯して翳る。エバは指先で持っていた首飾りの十字架をほとんど手の中で握るようにした。
「……わたしは歌うのが好きです。此処で、いつまでも歌い続けたいと思う」
 ぽつ、と零すように発しながら、エバは十字架を握っている方の手で自身の喉を押さえた。
「けれど、これから……声は、わたしの声は何処へ行くのだろう……?」
 エバは喉にやっていた片手を、今度は額に押し当てて自身の目をきつく瞑ったようだった。そんなエバの様子から声をかけられたくないのかもしれないと思い、しばらくは彼の横顔を視線で眺めるだけにとどめていたが、少年があまりにも静かなため、ちゃんと息をしているのかも不安になって、つい彼の名前を呼びながらその顔を覗き込んだ。
 少年の睫毛が揺れ、蛍石に似た瞳がこちらを捉える。次いで彼の唇が初めて呼吸をするかのように震えた。
「——主よ、永遠を願うのは罪なのでしょうか」
 その独白めいた問いに、今度はこちらが息と言葉の間に在るものを呑んだ。
 彼のまなざしはカラクリ時計の少年のそれにも、老人のそれにも近く、しかし遠い。エバは小さく息を吐いておぼろげな笑みを浮かべると、この街の永遠が息づく方へと顔を向けた。少年の名前にも似た名を関している常磐の大樹は今月明かりばかりを輪郭に帯び、だからこそその影は覆い被さるように大きかった。
 目を閉じて、息を吸う。それから息を吐いて、目を開けた。永遠を願うのは罪か。もちろん、その答えを少年に返すことはできない。だって、自分はその答えをもってはいないのだから。それにきっと、彼が問うたのは自分にではなく、別の何かになのだろう。或いは彼自身か、それとも答えなどはじめから求めていないのか。分からない。エバ自身にも、分からないかもしれなかった。自分も彼も、神さまではないから。
「……あの人がいなくなったのは、声が変わったからじゃあない。あの人がいなくなる前の最後の日、彼は、あの人は何かに気付いたみたいな顔をして自分の両手を見つめていたんだ。何かに……」
 訥々と呟くエバの握り締めていた片手が開放されて、そこからするりと十字架の首飾りが落ちる。首から長い紐で通されているそれは少年の両膝の間へ落ち、そこで時折光りながら音もなく揺れた。
「何もボーイ・ソプラノじゃあなくたっていい。彼はまだ歌えたはずだ。もっと、ずっと、歌い続けられたはずだ。あの場所で——あの場所じゃあ、なかったとしても。でもあの人はきっと、きっとあの日、歌を、音楽を辞めた。何故だろう。なんで? あの人は歌が好きで好きで堪らなかったはずなのに。あの日——あの日、彼は一体何に気が付いたって言うんだ?」
 言葉を詰まらせながら、しかし息もせずにぱらぱらと落としてしまうように発したエバは、緩く揺れる十字架の代わりに両手で頭に被っている夜色の長衣をぎゅっと握った。
「声が変わったからじゃあない……でも、それがきっかけになったのはたぶん、間違いない。ぼくもいつか、声が変わる。そうしたら、あの人みたいになるんだろうか。何かに気付いて、歌えなくなるんだろうか。歌を、手放してしまうんだろうか。あの人の歌はあの人にしか、ぼくの歌はぼくにしか歌えないのに。それでも、あの人は歌えなくなった……」
 エバは長衣から手を離し、そうして自身を抱き締めるようにした。少年は誰へでもなくかぶりを振る。彼の言葉が落ちた階段を見つめ、いつの間にか一つの名前に線を引いてしまっている自分の心臓に触れて、上手く笑えているか分からないままでエバの方を見た。
「……好きすぎて離れたくなってしまうことも、あるみたいです」
「なんで……ですか?」
「それは……分からないん、ですけど。僕も今気付いたもので」
「ぼく——わたしには、分からないです。余計……分からないですよ」
「僕にも分からない。ただ……みんながみんな、中々そう上手くはできてないみたいなんです。少なくとも僕は」
 それから降りた沈黙の間に、控えめな風の音だけが流れた。なんとなく見上げた空は高く澄み、星と月がやさしい光を放っている。エバもこちらにつられるようにして夜空を仰ぎ、そうしてみれば彼の被っていた長衣がその頭からはらりと落ちた。
「これからわたしの声は、今よりずっと、ずっと耳にうるさいものへと変わっていく」
 顔を空からエバの方へと向ける。彼もまたこちらを向いた。
「まるで、心みたいだ」
 眉を下げて笑みを形づくるエバの瞳が、その蛍石の花緑青が微かに揺れている。そう言った少年の声が零れるようで、溢したようで、どこか自嘲気味だったのは、きっと彼がまだ何かを諦められないからだった。
「……ぼくの心は、歌っているとき以外はもうずっとうるさいままなんです。今日だって歌う前も、歌った後にだってすぐ、ひどく……ひどいことを考えていた」
「ひどいこと?」
「ひどければいいって、思ったんです」
 エバは自分の膝を抱いて、自身の両手を組み合わせた。そこに視線を落とし、気が付かないほどに小さくかぶりを振る。
「今日のコンサート。聴かせられないほどにひどければいいって、ひどければよかったって思ってた。でも、だけど、いつも通りだった。綺麗だった。あの人がいなくても、ぼくらの歌は完璧だったんだ。あの人が、いなくても……」
 言いながら、エバは手の甲に爪を立てたようだった。
「おかしなことを訊いても、よろしいですか」
「……なんだろう?」
「あの人は、また帰ってくると思いますか?」
 問われて、少しだけ目を伏せた。なんだろう、声を発するところが小さく痛む。
「……それはエバの言う〝あの人〟にとって、ものすごく勇気のいることなんだと思う。だから……」
「だから……?」
「だから、その人が帰ってきたときには言ってあげてください。あなたの歌が好きだと」
 エバの目がこちらを向いた。丸く見開かれたその蛍石には、困惑と驚きが不意を突かれたようにないまぜになって光っている。その瞳を見て、言葉を継ぐために息を吸った。
「——あなたと一緒に歌いたい、と」
 言えば、少年の表情がほんの少し歪んだ。どんな顔をしていいのか分からないと言った様子のそれは、最早笑みのかたちですらない。いよいよ夜の闇がその濃さを増してきたところで、思い出したように教会の側面に置かれていた明かりに火が灯る。そんな夜と影の間でエバは灯された光にも気が付かないまま、こちらの目をじっと見つめていた。
「言う……ぼく、が?」
「きみが」
「……いいん、だろうか」
「神さまはきっと、そんなことでは怒らないですよ」
 こちらの言葉にエバは小さく笑って、組み合わせていた両の手を祈るように額へそっと当てた。その姿を見て、自分もいつの間にか両手を膝の間で組み合わせていたことに気付く。その指と指の隙間を見つめながら、聞こえない程度にそっと息をした。そこでやっと、時折吹いているこの夜風の冷たさを思い出す。
「ずっと愛してきたものに愛していないと言われるより、なんの興味も示されない方がずっと辛いことなのかもしれない」
 その相手が、人ではなくても。そう言葉を口の中だけで発すれば、なんとなく不思議そうな目をしたエバがこちらを見た。少し笑って、かぶりを振る。
「エバ、僕はずっと憶えていますよ、今日の歌を。きみは嫌かもしれないけれど、今日のコンサートはほんとうに素晴らしいものだと思った。美しかった。だから、憶えている。忘れられるはずもない。同じ曲を聴いたら、きっときみたちの歌を想い出すよ」
 エバの目が瞬く。灯された明かりに照らされて、少年の片方の瞳が光って見えた。
「僕はきみの歌が好きです。だから、エバ、僕に歌の歌い方を教えてくれませんか?」
「えっ——う、歌の歌い方?」
「はい。じつは僕、歌を歌ったことがなくて」
「え……ええ……?」
 信じられない、と言うような表情がエバの顔全体に浮かび上がる。それもそうだろう。生まれてから一度も歌を歌ったことのない人間など、この世界には早々いないはずだから。だって、少なくともこの国では草花が生じることと同じくらい自然に、そこここで歌が息づいている。でも、自分は歌ったことがない。それはもちろん、この間生まれたばかりだからだ。そして、そのことにたった今気が付いた。
「エバの好きな歌はなんですか?」
「好き……な、歌……」
 そう問えば、エバはゆるりと視線を彷徨わせて、自身の金髪を片側の耳に掛けた。なんだか気恥ずかしそうな笑みを少年は浮かべている。
「その、秘密にしてくださいますか?」
「もちろん」
 頷けば、エバがすうっと息を吸った。
 それから彼が歌い出したのは、自分でも聞き覚えがある歌だった。街行く人が、時折口ずさんでいた歌。それは賛美歌でも聖歌でもなんでもなく、常磐樹だって一つも出てこない、けれども詩を追えば口の中が甘くなりそうな流行り歌。そう——永遠みたいな、恋の歌だった。
 しばらくして一通り歌い終えたエバは、やはりまだくすぐったそうにこちらを見て頬を掻いた。そんな少年の歌を聴き終えて両の手がそっと持ち上がり、そこでふと、ああ、そうだったと思い至る。
「……拍手をしても?」
「ふふ、ええ」
 問いかければ、エバは可笑しそうに笑った。ちょっとだけ悪戯っぽい笑みだった。
「——主はきっと、そんなことではお怒りになりませんよ」
 それからもう一つ夜が深まったことを告げる鐘が鳴り響くまで、彼と一緒になんてことはない、ただの流行り歌を歌って過ごした。歌うたう少年の横顔は心の底から楽しそうで、けれどもなんだか、少しだけ泣き出しそうな表情を浮かべていた。


20190721 
シリーズ:『マイロウドの手記

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