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愛をうたう窓辺にて

 目次

 その日の朝は、窓辺から差し込む光は暖かく、廊下に漂う空気は冷たく澄んでいて、しんと静かな表情をしていた。
 少女は微かに肌寒くもあるその空気を肺に満たしながら、まるで呼ばれたかのように父の眠る書斎の扉を叩く。父が今起きているだろうことも、今日の彼女には何故か分かっていたのだった。父からの返事はなく、それでも少女はやはり呼ばれたように扉を開き、書斎の内側へと足を踏み入れる。
「おはよう、父さん」
「――ああ、おはよう」
 父が揺れる椅子の上から、半ば動かなくなりつつある右手で少女を手招いた。窓から差し込む朝陽はやさしい白をしている。少女は少しばかり冷えた指先を擦り合わせながら父の前に佇んでいる小さな椅子に腰かけて、書斎の中を何となく見回した。壁一面に広がる本棚、そこにはきちんと姿勢を正した本や隣に寄りかかる本が凝った規則はなく父の自由に並べられている。父が使うことはなくなった本棚に寄り添う梯子は、最近はもっぱら、少女のお気に入りの本が並んでいる一部屋に立てかけられていた。父の書斎は紙と時々埃、物語と――そして父の香りがする。少女は目の前の父を見上げた。
「朝早くにごめんなさい。ちょっと、父さんと話がしたかったんだ……あ、でも、父さんの体調がよくないなら……」
「いいや、しよう。しなくちゃいけないよ」
 微かに頷いた父はそれだけを言うとしばらく目を瞑って、何かを想うように部屋の中に沈黙を流した。今、その瞼の裏には何が映っているのだろう。それはどれだけ考えても、やはり少女には想像することしかできないことなのだった。自分はもうずっと父に憧れているが、それでも父になることはできない。そのことはおそらく、生まれたときから知っている。それでも想う。今、父の閉じられた瞳には何が映っているのだろう、と。かつて世界中を歩き回り、たくさんのものに出会い、そしてその中から母を愛した彼の瞳には。何処か遠い土地の、美しく輝く街並みだろうか。それとも、家のすぐそばに在る煌めく小川の流れだろうか。或いは嬉しかったことだろうか、いいや、悲しかったことだろうか。少女が父を見つめていると、父は目を開き、優しい表情で自らが流した静けさに言の葉を浮かべた。
「おまえにこんなことを言うのは酷かもしれないけれど――」
「酷?」
「ああ、父さんはひどいやつかもしれないってことさ」
「父さんが?……そんなことないよ、ぜったい」
 父は微笑むと、震える右手を持ち上げた。それが合図だったかのように少女は椅子から立ち上がり、父の座るその隣へと移動した。父の手が、少女のとうもろこし色をした柔らかな髪をゆっくりと撫でる。父の手は大きく骨張っていて、そしていつも、温かい。父の命がその手のひらに巡っていることを少女は想い、その手に触れるたびに彼女はもう、どうしようもなく涙が出そうになるのだった。この熱は、いつか失われる命だ――いいや、もうすぐ失われる命、なのだ……
「……母さんを、守ってやってくれ」
「……うん、私、強くなるから」
「弱くたっていいさ、どんなかたちだっていいんだ。ずっと一緒にいなくてもいい。守ることってきっと、それだけじゃない。想うこともまた、守ることなんじゃないかなと、おれは思う。……それに、母さんもおまえも強いから、守ってやれなんておまえに言ったこと――知れたら怒られるかも、しれないな」
「確かに怒るかも、母さんなら!」
 少女は空を写しとった色をしているその瞳を細めて笑った。父も少女とおそろいの色をした髪を微かに揺らして笑い声を上げる。少女の睫毛が震え、天色の瞳に張り詰めていた薄い水の膜から堪え切れなくなった一粒が零れ落ちた。少女はそれを自覚すると慌てて涙を拭い、少しばかり震える声で父に声をかけた。
「私、頑張るよ。……もう、泣かない、から」
「何を言うんだ。おまえはもうずっと、頑張ってるだろう」
「……足りないよ、ぜんぜん、こんなのじゃ……」
「泣いたらいいんだ。朝が痛いなら、夜が怖いなら、嬉しいなら、悲しいなら、誰だって。……そんなときはおれだって泣く。だからおまえも、泣いたらいいんだよ」
 少女は不安げなまなざしで父を見つめた。未だ滲む視界には、埃が陽に照らされて踊るさまが映っている。その奥で父が優しい笑みを浮かべていた。そのよく知る微笑みに、また涙が零れ落ちる。少女はそれを再び拭うと深く息を吸って、吐いた。父はそんな少女の小さな手を弱い力で握ると、今度は困ったように笑って言った。
「おれはな、いつも怖いんだ。この書斎で夜を過ごすのも、ほんとうはずっと、怖いからなんだよ」
「怖い……?」
「深く眠るのが怖いんだ。そうすれば自分は、二度と目を覚ますことができないんじゃないかって、いつも不安になる。だからこの椅子の上で少しだけ……少しだけ眠るんだ、またおまえたちに会えるように。椅子の上なら、いくらか緊張していられるからね。……おれは、嫌なんだ。おまえたちの顔が見られなくなるのが、話ができなくなるのが、声が聴けなくなるのが」
 父の哀しい痛みが、心臓の奥に広がっていく。少女は揺れる椅子に座る父の首に腕を回すと、彼をやさしい強さで抱きしめ、声は上げずに涙を流した。父の嗚咽が近くから聴こえてくる。優しい痛みとじりじり灼くような熱さが心臓の鼓動を打ち鳴らし、その温度をもって少女の涙は次から次へと零れ落ちていった。血が出るほどに強く噛んでいた唇が次に開かれたときに少女は、自分でも予想しなかった言葉がそこから外へ出ていったことに驚き、ほんの少しだけ笑う。
「――私、旅をしてみたいなあ」
「……ああ、往くといい。いろんなものを見ておいで。そうすれば、おのずと道は見えてくるから……自分の、道が」
 少女は微かに頷くと父から身体を離し、照れたように笑って目元を擦った。父も同じような顔をして笑っている。これは父が涙を隠したいときにする表情だということを、少女は痛いほどに知っていた。その姿は自分とよく似ている、可笑しいほどに。少女は光差す窓辺からよく晴れた空を見つめた。この分なら今日は一日中ずっと晴れて、空が泣くことはないだろう。――わたしたちが今日どんなに、泣いたとしても。
 少女は振り返らずに、父へと問いかけた。
「父さん、生まれ変わり……って、信じてる?」
「まあ、信じてるかな」
「じゃあ――生まれ変わったら、何になりたい?」
「そうさなぁ……おれは……もし、選べるとしたらね――また、母さんの夫で、おまえの父さんになりたい、なあ……」
 少女は瞼を閉じる。
 そこには、父が今どんな表情をしているのかが、優しい色と少しばかりの痛みをもって映し出されていた。


20161016 
シリーズ:『仔犬日記』〈ありふれた太陽〉

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