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痛みを浮かべるその海に

 目次

 こちらの繋ぐ呼吸に合わせるように、波が寄せては返している。
 白いような、或いは青いようなその海の色を眺めながら少女は、こうして海を見るのは一体何年ぶりなのだろうと考えていた。
 今、未だに子どもの自分が更に小さかった頃、両親と共に何処か遠くの海を見に行ったことがあった。空は青く、海も青く、砂浜は驚くほどに熱くて、何か叫びながらその上で小躍りをした記憶がある。少女は空を見上げた。太陽の光が穏やかなこの砂浜でならば、裸足になったとしても踊らずに済むだろう。少女は天色の瞳で再び目の前の海を見、そして、此処は何となく昔見た海の顔とは違った顔をしている、と思った。差す光も、砂の熱さも、打ち寄せる波の音も、水面に映し出される色も――
「思ったより、空の色をしていないだろう」
「えっ?」
 突然背後からかけられた声に一瞬心臓を跳ねさせながら少女は振り返ると、そこに朗らかな笑みを浮かべて立っている老人の姿を認めた。少女は今しがた投げかけられた問いの答えを探すように老人の顔とそこまで青くはない海を交互に見つめたが、ついに答えが見付からなかったのか困ったように笑うと、打ち寄せる波に視線をやって言葉を潮風に乗せた。
「――静かな色、です」
「静か?……ああ、うん、そうだ……確かにそうだな。砂浜の色だ、静かな……。この辺りの海は浅くてね、空よりは砂浜の色を映す」
 老人の言葉に少女は頷くとその場にしゃがみ、こちらへやってきた波に向かって両手を伸ばした。そうして掬った海水を、両手を器にして顔の前に持ち上げると、水は砂浜の色も空の色も失い、少女のこのところ少しばかり焼けたようである肌の色を写しとっていた。少女は手のひらの海を世界の湖へと返すと、ちょっとした好奇心から自らの指先に口を付けた。塩辛い。水の透き色とは全く異なるその味の存在感に少女はとうもろこし色の髪を揺らして少し笑うと、老人を振り返って楽しげな声を上げた。
「こういう海も綺麗だね、おじいさん」
「ああ、おれもそう思うよ。……お嬢ちゃんは、一人か?」
「うん、旅をしてるの。おじいさんは?」
「おれは向こうの方の……あの岬に住んでるんだ。カモメじいさんとよく呼ばれていてな」
 老人が指差した先にはさながら海から生まれ出たような、そこまでの高さはないがどっしりと海に腰を据えた岬と、その上に同じくして腰を据えている一軒の屋敷が、少女のいる此処からよりも青く見えるのだろう海を眺めていた。微かな沈黙に波の音が流れる。その音に少女の心臓の奥の方、心よりもっと深いところで、穏やかに寂しさのような痛みのような音が広がった。それはどこか、水滴が落ちて波紋が広がる水面の姿にも似ているような気がした。少女は未だ空への恋を知らない海へと視線をやり、この浜辺の孤独を潮風として感じる。それと同時に目の前の青くない海が、遠かった青い海を想い出させた。少女の内側が痛んだのは果たして海の孤独のせいだけだったのだろうか。
「此処は確かに綺麗だが、同時に寂しいところなのかもしれないとおれはつい思ってしまうんだよ、お嬢ちゃん」
「寂しいって思うのは、弱いこと?……だったら私、強くなりたい」
「……何のために?」
「たいせつな人、守りたいから」
 老人は少女の、空をそのまま色にしたかのような瞳を見ると一呼吸の間目を瞑り、それから打ち寄せる波よりももっと遠くの海へと視線を持っていった。
「おれも、守りたかった」
「おじいさん?」
「いちばん守りたかったものばかりが、おれの手から落ちていくんだよ。……神さまってやつは、おれの命よりもおれがたいせつにしているものばかりもぎ取っていく……こんな、老いぼれから」
 少女は、表情こそ変わらないがそこに確かに痛みの刻まれた皺が在る老人の横顔を見つめると、己の心臓に手をやって微かに睫毛を伏せた。この老人の悲しみを自分は分からない、代わることもできない。それが他のすべてと同じことだということは、この一人の少女にもおぼろげにだが分かっていた。ただ、痛みは在る。それは静かな波の音のように耳から入り込み、身体を巡っては心臓よりも深いところで広がって少女の呼吸を少しばかり妨げた。老人は浅い海から視線を外して少女の方を見やると、少女の陽だまりのように柔らかな茶色をした髪を大きな手で撫でて、小さく笑う。
「なあ、君、寂しいって思うのは……弱いことは……悪いこと、だろうか」
「悪い……? そんなの……そんなこと、ないよ」
「そうだろう? そうだ、お嬢ちゃん、そうなんだよ」
「おじいさん……?」
 少女が首を傾げると、老人は先までの横顔がまるで嘘のように大声を上げて快活に笑った。少女の頭を女の子に対する態度とは思えないほど荒っぽく撫でると、少女のぼさぼさになってしまった髪の毛を見てまた笑う。少女はぼさぼさ頭もそのままに老人を見上げたが、それはその声の中にどこか空元気のそれが混じって聞こえたからであった。少女の空と老人の時を刻んだ瞳がかち合う。老人は朗らかな笑みを浮かべて頷いた。それこそ彼の弱さであり、また強さなのだった。少女は胸の奥に痛みにも似た熱さと、熱さにも似た痛みが同時にこみ上げるのを自覚して、揺れそうになった視界を咄嗟に閉じる。そんな少女を見た老人は、少女の頭に再びしわしわの手のひらを置くと、今度は優しくその髪を撫でて笑った。
「おれは確かにいろんなものを失くした。幼い頃におれよりたくさんを失くしたやつもこの世には大勢いるから、長く生きていれば……なんて言うつもりはないが、それでもここまで生きてくる内に、随分多くを失くしたようだよ。でも、それだけじゃない。それだけじゃないんだ、分からないか、いや、きっとお嬢ちゃんには分かるだろう? たいせつなものはずっと在る、ずっと在るんだ。自分で……自分で見付け続けるんだ。なあ、きっとそういうものなんだろう、おれたちは……」
 目を開けると、穏やかな波にまばゆさを放つような強さのない光が反射して、砂浜には小さな光の粒々が転がっていた。少女は視界の隅で光ったその中の一つを拾い上げると、それを目の前の老人の、生きた証がそのまま刻まれている大きな手のひらの上に乗せては瞳の空色を柔らかく細めて笑う。老人の手のひらに乗ったひとかけのシーグラスは、誰かの痛みのかたち、誰かの寂しさの色、そして老人の涙の光を宿してさながら波の音のように静かに淡く輝いていた。


20161022 
シリーズ:『仔犬日記』〈ありふれた太陽〉

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