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どんな色も受け止めよう

 目次

 夕暮れに浮かぶ淡い月に、懐かしい顔を見た。
 少女は母が旅立つ前に自分にくれた、タンポポをかたどった髪飾りに指先で触れて、空の色に溶けている頭上の月を見上げる。それは光を放つほど明るい色をしているわけでもなく、しかし透き色というわけでもなく、空の上でひっそりとだが確かにその存在をこちらに伝えていた。少女は瞼を閉じ、想い出す。淡い月を見上げる父と、その隣で父の顔を見つめる母を。それは幼い頃の記憶、それでも、母の腕に抱かれながら見上げた二人の顔を、少女は未だ色も鮮やかに憶えている。少女は胸の中にほんの微かな、まだ少女である彼女には言いようもない何か――いいや、大人になっても分からないかもしれない何かが鉄琴の音のように落ちて広がり、そして響くのを感じ、その音がした辺りをぎゅっと押さえた。
 胸の奥の違和感を振り払うように少女は、まるで濡れそぼった犬がするようにぶんぶんとそのとうもろこし色をした柔らかな髪を勢いよく揺らして、それから月ではなく目の前に続いている街道へと視線を戻した。
(……あっ!)
 街道沿いに在る、おそらく小さな宿だろう家の低い塀の上、そこに見覚えのある金糸の輝きを見出した少女は、ぱっとその天色の瞳を輝かせてその金色のところまで走っていった。走りながら、声を上げる。
「――〝ミドリメ〟!」
「え……」
 少女の姿を認めると、〝ミドリメ〟と呼ばれた子どもにも大人にも見える金糸のような髪をもつ彼女は、その両目の緑色を一瞬見開いて、二回瞬いた。それから手に持っていた黒色をした煙草を古くなってところどころ欠けている煉瓦の塀に押し付けて火を消し、右手を浮かせて地面に放り捨てようとしたが、一瞬少女の空色をした瞳を自身の目が合うと溜め息を吐いてその手を引っ込め、金属製の箱のようなものに煙草の燃え殻を仕舞った。
「〝ソライロ〟……」
「うん、そう!……ねえ、煙草って美味しいの?」
「いや、不味い」
「えっ……じゃあ何で吸ってるの?」
「……ワタシ、顔ががきっぽいから」
 少女は彼女のその予想もしていなかった答えに鳩が豆鉄砲を食ったような顔になったが、すぐに表情を和らげると小さく吹き出して笑い声を上げた。鮮やかな緑の瞳をした彼女は、少女のその様子に多少不服そうな色を大きな丸い目に浮かべると、それから塀の上で立てた膝に頬杖をついてほとんど呟くように何か言葉を発する。
「――ココ・メアリー」
「うん……?」
「ワタシの名前。アナタはワタシとの賭けに勝った……だから」
「ご、ごめん……今名前、あんまりよく聞こえなかった。もう一回教えてくれる?」
「だめ」
 その返事に、少女は困ったように首を傾げる。てこでも動かないというように、頑なにもう一度を許さないミドリメを前にしていた少女は諦めたように煉瓦の塀を背にして、その上に座っている彼女を見上げた。金糸に似た彼女の髪は、夕暮れの光を背により一層輝いて見える。少女はその眩しさに目を細めると、見下ろす緑の瞳と目が合った。するとその緑色は呆れたような光をその瞳に宿し、それから浅い溜め息を吐き、少女に声をかける。
「簡単なことデスヨ、賭けたものを勝った相手に差し出すのは一度きり」
「あ――ああ、そっか。そうだよね。えっと……ココ、メ?……ココメ」
「ココメ? 何それ……」
「受け取れた分の、あなたの名前」
「ああ、そう……マ、何でもいいデスケド……」
 塀の上で、ココメは燃える太陽ではなく、淡く浮かび上がる月を見上げた。夕暮れに吹く、少しばかり冷たい風がココメの細い髪の束を揺らしている。少女は背中でざらついた煉瓦の感触を覚えながら、微かに揺れるその金糸の髪の毛を見つめた。この人は、何処から来て、何処へ向かうのだろう……
 ココメがその瞳は月へ向けたまま、静かな、しかし胸によく通る声で少女に問いかける。
「アナタは何で、旅をしているの」
「えっ?……あ、それは……父さんの見た景色を、私も見てみたくて……」
「へえ、何で?」
「……」
 父の見た景色を見たかった。それは、その想いは間違っていないはずだった。だというのに、静かな声に問われ、その答えとして口に出した瞬間に、何か――月を見上げたときに生まれた何か、その微かな違和感のようなものに少女は心の奥で触れたような気分になった。何故、わたしは父の見た景色を見たいと思ったのだろう。何故?……父に憧れていたから。違う。父の歩いた道を歩いてみたかったから。違う。父のことをもっと、知りたかったから。違う。……違わない、すべてほんとうに思ったことだ。それは、今も。けれど違う、違うのだった。
 少女は黙り込み、ココメと同じように淡く空に浮かぶ丸い月を見上げる。それに気付いたココメは一瞬横目で少女の顔を盗み見ると、そこに何を見出したのか目を細めて微かに笑った。それから音を立てずに息を吐き出すと、軽い身のこなしで塀から降り、地面に足を着ける。少女は自分の隣に降り立った金色の方へ反射的に振り向くと、その金色は強い緑の目を細めて微かに口角を上げており、しかし少しばかり眉は困ったようなかたちをつくっていた。それは小さな妹をやれやれといった風に見やる、優しい姉の姿のようにも少女には見えた。
「何だ。……アナタ、寂しかっただけ」
「あ……」
「……」
「でも……えっ?……だ、だって、寂しい……? 寂しいなんて、母さんには……母さんの方が、もっと……」
「そんな寂しいだろう母さんを置いて、アナタは旅に出たんだ? それ、分かってた?」
「わ――私……」
 微かに震える手で少女が髪につけたタンポポの飾りに触れる。自分の横から照る夕陽の光は熱く、しかし心の奥底はその熱さと反比例するように冷えていく。俯きそうになりながらも、少女は空の瞳で目の前の強い緑の瞳を見つめた。二つ在る緑色の片方は燃え尽きそうな夕焼けの光を受けて、さながら火の粉のように煌めいている。先に目を逸らしたのはココメの方だった。彼女はその金色の髪を軽く左右に振ると、呆れたような顔で少女の頭にその白い手のひらを乗せる。それからその瞳に微かな寂しさの宿った光を映すと、静かだが揺るがない、胸に通る声で少女に声をかけた。その声にはかつて少女に会ったときに発したあの、茨のような鋭さは混じっていなかった。
「……帰りなよ。というか……帰るんでしょ、そういう顔になった。ちゃんと話した方がいいんじゃない、すれ違う……その前に」
「うん、帰る。……私、帰らなきゃ。ありがとう、ココメ――私……もう少しで、見えなくなるところだった」
「そう?……アナタなら、どっかでは気付いたと思うケド。だって、アナタはばかだけど、馬鹿ではないデショ」
「そ、それってどういうこと?……あ、そうだ、ココメ」
 言いながら、少女が肩から掛けた鞄を何やらごそごそ漁りはじめた。そうしてそこから小さな白い紙袋を取り出すと、手のひらほどの小さなタルトを取り出してココメに差し出す。淡い橙のクリームの上に、薄くスライスされたオレンジが数枚乗っている。それは自分たちの隣で燃えている夕焼けよりもずっと優しい色をしていた。何となく生地が焦げているようにも見えるそれを訝るような目でココメは受け取ると、そのオレンジタルトに口を付ける前にやはり怪しむような声で少女に問いかける。
「……これ、アナタが?」
「うん。母さんに作り方を教えてもらって……」
 ココメの瞳に浮かんでいる疑惑の色が少女の答えによってさらに深まる。それでも一応、少女が作ったタルトを一口かじった彼女は、それを噛んでいる最中に何かを発見したかのように小さく声を上げた。
「あ……」
「ど、どうかな?」
「うん……すっごい不味い。びっくりした」
「……」
 少女は肩をすくめて、ココメに背を向けた。そして隣でもう沈みかけている赤色を目にすると、それから色濃くなった空の月を見上げ、肩から掛けている鞄の紐を強く握る。帰る勇気を夕焼けと月と、そして背後の金色と緑色に分けてもらうかのように瞼を閉じると、しかしすぐにその目を開けて少女は前を向いた。今、自分の前に続くのは帰る道。決意を固めた少女の背中に、燃える氷のような静けさと透きとおる色をもった声が投げかけられる。
「……じゃあね、さよなら――ソライロ」
 その言葉に少女は振り返り、そこに在った緑色に真っ直ぐ自分の空色を合わせて笑った。
「またね、ココメ!」
 少女はそれだけ言うと、またねと告げられたココメの表情は見ずにまた振り返り、先ほどまでの後ろ、今では前になった道の上を走り出した。言われて初めて自分の中に住んでいた寂しさを自覚した少女は、今自分の周りに在るすべてのものに対して寂しさを覚え、それでも走り走り、しかし息が上がると同時にその寂しさたちが心の奥から溢れ出したのだった。帰らなければ、今すぐに。帰りたいのだ、今すぐに。青空の瞳から大粒の涙をぼろぼろと零しながら少女は辺りに転がる寂しさをすべて抱えて、それでもなお、走り続けていた。


20161023
シリーズ:『仔犬日記』〈ありふれた太陽〉

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