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いなずまを抱く

 目次

 空を見上げると、眩しい日差しと目が合った。
 少女は強い光に目を細めて、視線を目の前の石畳の道へと向ける。新しい街に辿り着いた。その、硬い道の上で小躍りしたくなる気持ちを抑えながら少女は辺りを見回す。どうやら、そこまで人が多いというわけではないらしい。これならば、ゆっくり散策もできそうだ。少女は大通りに入ってすぐ目に付いたパン屋でクロワッサンを買い、それにかじりついた。パン屋の店主が笑いながらその様子を眺め、少女に声をかける。
「お嬢ちゃん、この街は初めてかね?」
 その問いに、少女はパンを頬張りながらうんうんと頷いた。
「そりゃあいい、この街には旨いもんが多いからな。いろいろ食べ歩いてみるのもいいだろう……が、今日はそれよりもっと面白いもんがある。ほら、向こうを見てみな」
 少女はパンを飲み込み、店主が指差した方へ身体を向ける。そうして目に入ったのは小さなカフェのテラスに座っている金髪――少女だろうか――と、首を左右に振りながら肩をすくめて席を立ち去っていく男の姿だった。少女は店主に視線を戻す。
「知らないかい? 〝ミドリメ〟……あの金髪のことだよ、あれは鬼のように強いと言われてる勝負師だ。今日此処にやってきてあのテラスで何度か勝負を挑まれてるが、まあ、相手はあの〝ミドリメ〟だ、勝ったやつなんていないわな」
「勝負師……勝負を挑まなくても、何か話ができるかな」
「ミドリメに勝負以外で話しかけるって?……どうかね、金を取られるかもしれないな」
 店主がからかうように言う。少女はそれを聞くと、店主からクロワッサンをもう二つ買い、店主に別れを告げてミドリメと呼ばれる勝負師が座っているカフェのテラスまで歩いて行った。
 気配を感じたのだろうか、ミドリメが振り返ってこちらを見た。丸く大きい彼女の緑眼が、少女の天色の瞳を捉える。少女は自分と彼女との間に、何か稲妻のようなものが走ったような気がして一瞬足を止めたが、すぐにまた歩を勝負師のところまで進めた。緑色の瞳が面白いものを見るような色を浮かべて細められる。
「――アナタが次の相手? 人を見た目で判断したくないケド、アナタって勝負……得意のようには見えませんネ」
 ミドリメが話す言葉には、不思議でわざとらしい抑揚があった。それはこれから勝負を挑む人間にとってはひどく苛立ちを募らせるものなのだろう。しかし少女は鬼の勝負師に挑む気など毛頭なかったため、その、彼女の発する言葉の抑揚に少しばかりのかわいらしさを感じ、頬を綻ばせた。少女はミドリメの向かいの席に腰を下ろして、先ほど買ったクロワッサンを差し出した。緑色の瞳が不思議なものを見るような色を湛えて少女の顔とクロワッサンを交互に見る。
「あれ? クロワッサン、嫌いだった?」
「いや……別に……」
 そう言うと彼女は少女の手からクロワッサンを受け取り、それを眺めた。
「――毒でも盛ってあるンデスカ?」
「え?……どうして?」
「勝負、しに来たんデショ?」
「あ、ううん、そうじゃなくて……えっと、少しだけあなたと話してみたかったから来たんだ。毒なんて入ってないよ。美味しいから、食べてみて」
 少女がそう告げると、ミドリメは眉根を寄せつつもクロワッサンを一口かじった。少女も同じように自分の手にあるのを一口かじって、もぐもぐやっている彼女の方へ視線をやる。ものを食べているミドリメは小柄の、どこかあどけない少女に見えるが、最初に視線がかち合ったときの彼女は強い力をもった大人に見えた。どうにもこの人の年齢が分からない。少女は小首を傾げる。と、同時に、子どもの側面と大人の側面をもっている人なのだ、とも思った。だからこの人は鬼のよう、と言われるほどに強い勝負師なのかもしれない。年齢のことなど、今はいいか。クロワッサンを食べ終えてから、少女はミドリメに声をかけた。
「ミドリメさんも、旅をしているの?」
「ミドリメ?……ああ、ワタシのこと? この辺りだとそう呼ばれてるンデスネ。……で、旅? 勝負相手を探していろんなトコロを飛び回る、ソレも旅と言うなら、まあ……そうデスネ」
 それを聞いた少女は、両の手のひらを合わせて顔中に喜色を浮かべ、天色の瞳を細めて言った。
「そっか、そうなんだね! あのね、私も旅をしてるの!」
 ミドリメが呆れたように笑い、片手を机についてひらひらと振る。
「そんな風に、さっきからキョロキョロしてるのなんて旅人くらいデショ。アナタが旅人ってことくらい知ってマスヨ」
「ありゃ、分かってた?――旅っていうのは楽しいね。そう思わない?」
「楽しい?……ふぅん、そういうモノ?」
「勝負師の旅は、楽しくないの?」
 問われた勝負師の瞳が、こちらの瞳を見つめた。なのにどうしてだろう、目が合った気がしないのは。目の前の彼女は、確かにこちらを見ている。だが、同時にこちらを見ていないようでもあった。彼女は遠い何かを見つめている。
「さあ。少なくとも、楽しいと思ったことはないデスヨ」
「なら、これからそうしようよ。美味しいものをたくさん食べてさ、綺麗なものとか、面白いもの、素敵な人に出会って――」
 彼女の緑眼が冷たく閃き、口元が薄く弧を描いた。ほとんど嘲るような音をはらんだ小さな笑い声が、少女の続く言葉を制す。
「……それって、幸せ者の考え方」
 彼女のその一言に、様々な思いが入り混じっていることを少女は感じた。それはまるで、手の甲に鋭い爪を立てられ、手首の血管から心臓までを茨の棘で巻かれているような気分にさせられる言葉。少女は俯いて目を閉じた。彼女が嘲笑うように、はたまた吐き捨てるように言った言葉。幸せ者。その言葉の音色に少女は彼女の、人を傷付けるためではない、なにか別の心を感じた。わたしはあの音を知っている。あれはわたしの近くにあった音だ。そう、あれは。少女は目を開く。あれは、寂しさだ。父を亡くした母の寂しさ。母の寂しさと彼女のそれはひどく似ている音をしている。少女は顔を上げた。
「――そうだと思う。私って、幸せ者だ」
 顔を上げた少女は笑顔を浮かべている。その表情にどこか面食らったような顔をしたミドリメは、しかしすぐに少女を小馬鹿にするような笑みを浮かべて言った。
「……さっき、美味しいものを食べろ、とか言ってたケド……美味しいものなら食べてマスヨ。ワタシくらいの勝負師になると、お金なんて腐るほどあるンデス」
「幸せ者から言わせてもらうと、高い料理がいちばん美味しいとは限りません。……ねえ、さっきのクロワッサンどうだった、美味しかった?」
 その問いに、二つに結んだ金糸のような髪を揺らしてミドリメは溜め息混じりに答えた。
「まあ、悪くは――」
「うん、ほんとうは?」
「……美味しかったデスヨ、それなりに!」
 少しばかり赤くなった頬でそう答えた彼女は、今、まったく少女の姿をしていた。それが何だか嬉しくて、少女はいつもより大きな声で笑い声を上げる。眉間に皺を寄せた彼女が、不服だと言わんばかりの顔でこちらを見た。あの、遠いところを見ていた緑眼は、確かに少女の天色を見ている。二人の瞳がかち合ったが、少女はそこに痛みをはらんだ稲妻の光がないことを感じた。少女はとうもろこし色の髪を揺らして、また笑う。ミドリメの瞳が細められ強い光が閃いたが、そこに少女を嘲るようなあの色はもう浮かんではいなかった。
「ね、今、楽しい?……私は楽しいよ、楽しいなあ。私、あなたと出会えて嬉しい。此処にいてくれて、私と話してくれて、ありがとう」
「……変な人……。でもワタシ、もう行くカラ。――アナタ、さっきの勝負相手よりは面白かったデスヨ」
 金糸の髪を揺らして立ち上がったミドリメの手を、咄嗟に掴んで少女は引き留めた。それを振り払うこともできたというのにミドリメがその場から動かなかったのは、少女の天色の瞳に昼の星がきらきらと瞬いたからだろうか。少女は笑みを浮かべて言った。
「あなたの名前を教えて!――あなたとはきっと、また何処かで会える気がするんだ!」
「人に名を聞くときは自分から名乗れって――いや、やっぱりいいデス。じゃあ……勝負、賭けをしよう。アナタの言うとおり、また会えたらワタシ、ミドリメの名前を教えてあげる。会えなかったら教えてあげない。それでどう? ええと、そうネ……〝ソライロ〟」
 〝ソライロ〟とは自分のことだろうか。少女は笑い、勝負師が言うにはあまりに子どもっぽいその賭けに、迷うこともなく乗った。それから行先を言うこともなく、また聞くこともなく二人は別れたが、何となく少女はそれでいいのだと思った。小さな街に流れる煮炊きの香りを感じながら、去っていった彼女の緑の瞳を想う。宝石のような緑に、稲妻のような強い炎と、少しばかりの寂しさを抱いたあの瞳を。また、会えるだろうか。いいや、また会うのだろう。ゆっくりと下りてくる夜の色に一番星が煌めくのを、少女の青空を映した瞳が捉えた。また旅に出る彼女に、もう一度出会うためのさよならを、少女は心の中だけで伝える。そして少女もまた、旅に出るのだ。少しずつ夜の火が灯っていく街の姿は、どこかやさしく、そして暖かい色を纏っていた。


20160405 
シリーズ:『仔犬日記』〈ありふれた太陽〉

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