見出し画像

ライト

 目次

 今日は何日だったか。
 ふとそんなことを思って、手元のティーカップに視線を落とす。見れば、そこには澄みきった琥珀色の水面が揺らぐことなくカップの底を透かしていた。けれども、その中身はおそらく冷めきっているのだろう。カップを包んでいる両手が冷たかった。
 椅子に座ったまま——そういえば自分は椅子に座っているらしかった——辺りをきょろりと見てみれば、どうも此処は喫茶店のテラス席のようだった。自分の他には数人の客と、卓を拭く給仕の姿が見える。自分は一体、いつ店に入ったのだろう。この飲み物は? 何を注文したのだろう。空は晴れている。風は吹いていない。そもそも、こんなところに喫茶店が在っただろうか。こんなところ? そうだった。此処は一体何処なのだろう。今日は何月の何日だった? そうだ、自分の名前は——
「マイロウド……」
 そうぽつりと口から零れた声は、確かに自分の声だった。瞬く。今は星のぞみの月、十三日。此処は緑の大陸。自分は海へ向かっている。手記は足元に置いた荷袋の中。そうでなくても、出会った人々のことは憶えている。名も顔も、表情も顔も、言葉も。だいじょうぶ。忘れ難く、忘れたくない想い出だ。こんなにも刻まれている。だから、きっとだいじょうぶだ。相変わらず、この喫茶店が何処に在るものでなんという名前なのか、自分がいつこの店に入ったかは想い出せないが、それでも。
「——おまえ、不思議だなあ」
 はじめに、鈴の音が鳴ったのだと思った。けれどもそれが人の声であったのだと気が付いたのは、その言葉が聞こえた方へと反射的に顔を向けてからのことだった。
「名前を離さないんだね。しかも名前を離さない限り、すべてを想い出す。まるでその名がおまえ自身のようだよ。記憶が肉体をもっているかのようだ」
 静けさの中で涼やかに鳴り、かつ冴えた音色を密やかに響かせるような声でそのように言葉は紡がれる。声の持ち主は、自分の目の前にいた。正確には、目の前の卓の上へと腰掛けていた。自分がぼうっとしていたのもあるだろうが、けれどこうして目の前に座っていてもなお、声をかけられるまでその存在に気が付けないほど相手の気配には音がない。鈴の声の正体は、一人の少年だった。少年は首を傾げるようにしてこちらを見、うっすらと笑う。
「おまえ、少しぼくに似ているかもね」
「似ている?」
「うーん、ふふ、どうかなあ。ぼくの名前はライト。よろしくね」
「あっ、はい。僕はマイロウドと言います。よろしくお願いします」
「あはは、知ってるよ」
 その言葉におやと不思議に思いながら、けれども目は少年の姿に惹かれた。周りの人々は全く意に介していないらしかったが——しかし、先ほどまでその存在に気が付けなかった自分が言うのも可笑しな話かもしれない——ライトと名乗った少年は驚くほど、ほんとうに驚くほどに美しい見目をしていた。きっと、すれ違ったものは誰もが振り返るだろう。そう、それこそ彼は、宗教画に描かれていた天の遣いのように美しく、背中に白鳥の羽が生えていても自分はきっと驚かないとさえ思えるほどに。
「羽、生やせるよ。見たい?」
「えっ?」
「だから羽、生やせるよって。見たいんじゃないの?」
「え、あの……ライトは天使さま、なんですか?」
 こちらの思考を読んだようにそう言い放ったライトに、流石に戸惑って浮かんだ疑問をそのまま返せば、彼はその目をすうっと細めて卓に腰掛けたまま、ぶらりと両足を揺らした。
「魔法使いだよ」
「魔法使い……」
「それか、魔法そのものさ。おまえみたいだろう?」
 口元に伸ばした人差し指を添えて、ライトは片脚をもう片方の膝の上に折るようにして乗せた。彼は折り曲げた片膝に肘をついて、にやりとふわりの間を漂うような笑みを浮かべてこちらを見ている。
 白い、と思った。頭の先からつま先まで、白い。肩より少し上ほどの長さで、柔く内側へと巻かれている髪は銀とも灰とも言い難く、言葉にするならばやはり紛うことなき白色だった。いつか薄葉緑の街手前で拾った白灯石よりも更に白いその色は、太陽の光と言うよりはまばゆい月光のそれに近いように思える。澄みきり、冴えわたり、道を示しながらも温度を与えない白。彼の肌もまた夜の生き物の如くに白く、しかしそれでもうっすらと赤みのあるそれは、むしろ彼の髪の色を際立てているようだった。そして彼は、纏う服さえも白い。丈の長い羽織も白く、上下が一つになってはいるが、つなぎと呼ぶには袖飾りとしてレースがたっぷりとあしらわれがちな外衣も白く、そこに施されている刺繍の色すらも白かった。ただ、細められている彼の目ばかりが、白に塗れない灰の色をしている。
 こちらを気ままに眺めているライトの姿をぼんやりと目に映しながら、ふと、そういえばこの子は裸足なんだな、ということに気が付いた。この喫茶店はともかく、道を歩いていて痛くはないのだろうか。そう思うのと同時にライトの片足のつま先からぽたりと床に血が滴ったのが目に映って、はっとする。それはまるで、眠っていたところを引き起こされるような心地だった。
「え、なんだよ?」
 がたりと自分が席から立ち上がったのを目にして、ライトはちょっぴり不審そうにこちらを見上げた。そんな少年に構うことなく、自分は彼を一度横抱きにして持ち上げて、それから向かいの席へとそっと下ろす。抱えてみて分かったことだが、ライトはぎょっとするほど軽かった。まだ幼いと呼べるだろう年頃に見えるから当たり前なのだが、彼は背丈も小さい。腰掛けていた卓の上から唐突に椅子へと下ろされたライトは、特に何も言わずにその足をぶらつかせている。
「ライト、動かないでください。血が出ているので」
「血?」
「うん、右足からです。きっと、裸足で歩くからですよ」
 言いながら、自分は床に置いていた荷袋から消毒薬とコットン、手拭いと合わせて包帯を取り出した。それから近くにいた給仕の一人から清潔な水をグラス一杯分受け取って、ぽたりぽたりと血が零れ続けるライトのその傷口へと水を注ぐ。尖った石でも思い切り踏んでしまったのか、見ているだけでも痛そうだ。椅子に座るライトの方を見上げてみれば、彼は片膝を立てながら顎をその上へと乗せ、無表情にこちらを見下ろしているばかりだった。彼は痛くないのだろうか? それとも我慢をしているのかもしれない。
 洗った傷口の水気を手拭いで軽く拭き取りながら、消毒液とコットンを手にする。どちらかと言うと旅の中でも高台の草原でも、怪我の手当てはするよりもしてもらう側だったから、正直腕にあまり自信はない。ライトに向かってちょっと沁みるかもしれません、と声をかければ、今は沁みないからどうでもいいかな、という意味があまりよく分からない言葉を返された。消毒液をコットンに滲み込ませながら、少しだけライトの方を見上げる。
「魔法使いだって言っただろ? 痛みの速さはもう随分前にやっちまったからね」
「……それでも、ちゃんと手当てをしないと後でもっと痛くなってしまうんでしょう」
「どうでもよくない? おまえが痛いわけでもあるまいしさあ」
「痛いのは、悲しいですよ」
 自身の怪我だというのに心底興味なさげなライトへとそのように返していれば、彼は片手の指先で右膝の上をとんとんと軽く叩いた。それが何を意味しているのか、自分には分からない。ただ、苛立っているわけではないのだろう、ということは分かった。ライトの右足にくるくると包帯を巻きながら、ふと或ることを想い出して彼の方をちらりと見る。それから、少し笑った。
「前に叱られたんですよね。痛いときは、ちゃんと言わないとだめだって」
「ぼくは痛くないから言わないんだよ」
「でも、だめですよ。痛くなったら言わないと。言わないと、分からないですから」
「……じゃあ、たとえば、誰に?」
「え?」
 ライトは膝の上に顎を乗せたまま、悪意も善意もなさげな表情でこちらに向かってそう問うた。彼の声色もまた、純粋な問いのかたちを描いて自分の耳までやって来ている。そんなライトの問いにすぐ答えを返すことができずに言葉に詰まれば、彼は瞬きもしないままだめを押すように、
「誰に?」
 と、もう一度こちらに向かって問いを発する。誰に。彼の問いを一度頭の中だけでくり返してから、それに合わせるように言葉が浮かぶ。
「——誰でも」
「はあ?」
「誰にでも、いいと思いますよ」
 もちろん自分でも、と言えば、ライトは感情の読みにくい笑みを薄く浮かべて、ふうん、と呟く。自分の旅路を振り返るに、それもそう簡単にはいかないことかもしれないが、けれどもおそらく、言葉にはするべきなのだろう。誰かに、伝えるべきなのだろう。独りで痛みを抱えるというのは、きっととても寂しく、痛いことだと思うから。
 そうして包帯をあらかた巻き終わり、余りをくるぶしの辺りで蝶々結びにしていれば、頭上で軽く鼻で笑うような声がする。それにつられてライトの方を向くと、彼はその灰色を湛えた目を半月のように細めて、包帯が巻かれた自身の右足を見ていた。
「……下手くそだなあ」
「えっ? あっ、はは、すみません……こういうの、あんまり慣れていなくて……」
 ライトの指摘に首の後ろを掻いて曖昧に笑えば、彼は半ばどうでもよさげにかぶりを振る。それから、ゆるりと気だるげに脚を組んだ。そんなライトの所作と共に、自分は彼の手にいつの間にかティーカップとソーサーが有るのに気が付いて、なんとなく不思議に思いながら卓の方を振り返った。見れば、そこには件のティーカップの姿が見当たらない。だとすれば、ライトの手の中に有るものは。
「だっておまえ、飲んでいなかったでしょ」
 再度こちらの頭の中を読んだかのようにそう発したライトに、やはり少しだけ驚きながら彼の方を見る。空は晴れ渡っているが陽のあまり差し込まないこのテラス席で、琥珀の水面を見つめるライトの睫毛ばかりがまばゆい白を放っているように映った。
「でも……それ、冷めてますよ」
「おまえが言うならそうなのかな。ぼくには分からないけど」
「……ライトの触覚も、魔法の入れ物……? なんですか?」
「味覚もだよ。必要がないだろう?」
「必要ない……かな?」
 さも当然であるようにそう言い切ったライトに首を傾げれば、彼は手元のティーカップに口を付ける。そうしてその中身をこくりと一口飲み下して、しかし何を思ったのか、まだ茶の入ったままであるカップを通路側へと向けて逆さまにひっくり返した。
「だってぼく、人でいる気がないもの」
 ゆっくりとした瞬きをしながら、ライトは囁くような呟くような、それでいて断じるような声色でそう発した。彼が裏返したティーカップからは、零れだした琥珀色の液体が床へと向かっている。それが自分の目にはひどく緩慢な速度で落ちていくように映ったが、けれどもどうやらこちらの錯覚ではなかったらしい。
 それはたぶん、魔法だった。琥珀色の茶はテラス席の床へと至る前に金色の粒子へと姿を変え、そののちに小鳥の形となってはいずこかへ、おそらく空の高みへと飛び立っていく。そのように少しだけ世界のかたちを変えたライトはと言えば、飛び立っていった金の鳥をちらと見やっただけでさして関心もなさそうだった。そうしてつと、ライトの瞳がこちらを見る。彼の手には、もうティーカップもソーサーも残ってはいなかった。
「それにしてもおまえ、不思議ではないの? 気味が悪くはない?」
「気味が悪い……? どうして?」
「だって、分からないんだろう? 此処が何処なのか、この喫茶店の名前すら」
 言われて、それもそうだな、と頭の片隅で思う。確かに今、自分は何処にいて、なんという喫茶店でどんな飲み物を注文したのかを思い出せない。少し前までは、今日の日付すらも怪しかった。けれども、
「だいじょうぶですよ」
 けれども、名は在った。
 名が有った。自分の姿や心を保ち、想い出を書き留め、それをまた言葉にするため名前が。自分へ向けて、或いは誰かに向けて。自分の中には、この中には、道を往くためのしるべ、呼ばれるための名前がある。
「必ず、想い出せますから」
 そうだった、いつかそうまじないをかけられたのだ。それもそう遠い日ではないはずなのに、歩いた距離のせいだろうか、それとも季節が巡りゆくせいだろうか、もう随分昔の出来事のようにさえ感じる。
 そんなことを想いながらライトの方を見てみれば、彼は膝の上に頬杖をついて、ちらりと卓の方を見やる。それに倣うように視線をやると、そこにはいつ注文したのかも知れないパンケーキが二人分配膳されていた。薄切りのパンケーキは、一皿に三枚重ねられている。ライトはその温かそうなパンケーキの一枚だけを腕を伸ばして取り上げ、指で千切っては無表情に口の中へと放り込んだ。
「想い出せないよ」
「……えっ?」
「おまえは、此処が何処だか想い出せない」
 言いながら、ライトは親指と人差し指の先だけで今しがた千切ったパンケーキを持ち上げ、心底つまらなそうに自身の目を眇める。そうして彼はパンケーキを元の皿に戻すと、その隣に添えられている銀色の小壺を手に取った。
「だって、此処はもうおまえの記憶じゃあないみたいだからね」
 ライトは、手にした小さな壺をパンケーキの上で引っくり返した。銀の壺からは、チョコレートソースが柔らかな茶色の山へと向かって流れ落ちていく。その流れは、まるで止まることを知らないようだった。
「ライト、あまりかけすぎると——」
「ホープが世話になったよね。その節はどうもありがとう」
 チョコレートソースはついに皿から零れ落ちだした。流石に、と思いライトへと声をかけようとしたが、けれどもすべてを言い切る前に、彼の口から思いもよらない名前が飛び出てはたとする。
「ホープ?」
「うん。今日はそのお礼を言いに来たんだよ。そういえば、だけどね」
 そう微笑むライトの持つ皿からは、チョコレートソースが溢れ続けていた。止め処なく。止まることなく。いくら注いでも底が尽きない銀の小壺は、なんだか自分の持つインク瓶にも似ているような気がした。ぼたりぼたりとテラスの床に焦げ茶の雨が降っている。制止の意味を込めてライトの腕に触れてみたが、当の本人はどこ吹く風のままこちらの方を見てにっこりと笑みを浮かべるばかりだった。そんなライトに、自分は卓の上にもう一皿分乗っているパンケーキを手に取って、それを彼の持つ皿の下へと滑り込ませる。ライトの降らせるチョコレートソースを自分のパンケーキで受け止めていれば、ライトがその灰色の目を少しだけ楽しげに細めた。
「ホープはぼくの友だちだからね。友だちの友だちなら、きっと仲良くやれるだろうと思ったんだ。それにおまえは、魔法のにおいがするからね」
「……でも僕は、魔法使いじゃあないですよ」
「そうだね。魔法を望んだのはおまえじゃあない。だけれど、おまえは魔法でおまえを得たようなものさ。おまえの憶えていないおまえはね、おまえのために、自分のいちばんたいせつなものを差し出したのさ。この世界にね」
 首を傾げながらそう薄く笑って、ライトはようやくパンケーキにチョコレートソースを注ぐのを止めた。そうして彼は卓の上から小壺と入れ替えにフォークを取り上げると、それを元の色が分からないほどに茶色に染まったパンケーキに突き刺して、それをぱくりと口にする。ぽたりとライトの白い服に零れたように思えたチョコレートは、しかし服にぶつかるその手前で小さな黒い蝶となった。
「ライトはどうして……そんなことが分かるんだろう?」
「だって、ぼくはこれから世界になるんだもの」
「世界?」
「そうだね、ぼくはおまえの神さまになれるよってことさ」
 パンケーキを飲み込み、ライトはその目を甘く細めながら鈴の声で囁いた。チョコレートの落ちるはずだった彼の服は依然白いままで、蝶はそんな白い膝元からひらりひらりと飛び立っていく。そうしてライトがパンケーキを一口、もう一口と頬張るたび、チョコレートは零れ、黒い蝶が生まれる。魔法は少し、世界のかたちを変える。それを使う誰もが、おそらく、世界のかたちを少しずつ変えるのだ。そして、ライトの言うことが真実だとするならば、きっと自分も。或いは、かつての自分も。
「おまえが此処で心を差し出すようだったら、もうぼくと一緒に、一つになってもよかったんだけどね」
「その……ライトの言うことは、なんというか、ちょっと難しいな……」
「人には誰しも、それがたとえ一瞬だとしてもね、心の底から幸せだった時間っていうのがあるんだよ」
 気が付けば、ライトの手には空になった皿だけが乗っていた。彼はその皿をことりと卓の上に置くと、おまえも食べたら、と向かいの席に残っているナイフとフォークを指し示す。
「だからね、ぼくはその記憶を見せてあげる。いつも見せてあげるんだ。そうしたら、そこにいたくなるでしょ、ずっと? その世界に、ぼくに、心を、自分を明け渡したくなるでしょ? それですべてが始まるのさ。人とぼくは一つになる。一つになって、世界になる。おまえとぼくも、いずれはね」
「……たぶん、一つにはなれないですよ」
 ライトの向かいの席へと着きながらぽつりとそう呟けば、彼はおそらく少しだけ眉をひそめたのだろう、それから皿の上になみなみと溜まっているチョコレートソースを指先で掬って舐めた。
「だって、僕はきっと、まだ自分とすら一つにはなれていないんですから」
 目の前の視線がこちらを向く。その灰の瞳には、しん、と底冷えするような光が宿っている。そんなライトの目が何かに似ているような気がして、彼のまなざしを受けながらちょっとだけ目を細めた。
「そうだね。だからこんな夢を見る。この記憶は、この世界は、もうおまえのものじゃあないのに」
「……ライト」
「なあに?」
「ホープは……少し、悲しそうだったよ」
 言えば、ライトはチョコレートを掬うその手を一瞬だけ止めたようだった。彼は、そうっと目を伏せるようにして微笑み、指先から垂れるチョコレートをぺろりと舐める。ああ、そうか。そうか、きっと、ライトの瞳は今日の空に似ている。その色と、光に。そう思って、テラス席から見えるそれを覗いてみた。そうだった、今日の空は晴れ渡っている。澄みきり、白く広がるような青を湛えた空。いや、違う。たぶんこれではない。けれど、今日の空の色だ。その色のはずだった。だが、今、此処に広がる空は……
「ぼくはしばらく生きてきてさ、分かったんだ、この世界がいきものたちの記憶でできているんだって」
「記憶……」
「目を閉じると想い出すだろう? ほとんど夢とおんなじさ」
 ふと、ライトが喉を細く鳴らして笑う。そうして彼は両肘を卓につき、組んだ両手に顎を乗せて、どこかうっとりとした表情で言葉を紡いだ。
「だから人は、夢を見る。ぼくはそれを叶えてあげるんだ」
 言いながら、ライトは目の前の皿の縁をくるりと指先でなぞってみせた。その動きにつられて視線をそちらへやってみれば、皿に満たされていたチョコレートは、いつしか満天の星空を映す水溜まりと化していた。ライトは頬杖をつきながらその夜空を見やり、そうしていつか塔の上でホープがしていたのと同じように星と星を指先の光で結ぶ。彼は少し、困ったように笑っていた。
「彼は、……ホープはね、神さまを欲しがったんだよ。ぼくの最初の友だちとおんなじようにさ」
「神さま?」
「——人は、友だちよりも神さまが欲しいものなんでしょ?」
 ごくごく当たり前のことを言うように、ライトは笑った。そんな彼のひどく確信めいた瞳から目を逸らすことができずに、けれどもそっとかぶりを振る。
「……僕は、友だちの方がいいかな」
 そう発すれば、ライトのまなざしがこちらに問うた。それに応えるように、口を開く。こちらのパンケーキは、きっともう冷めてしまっていた。
「だって、神さまには手が届かないでしょう。こうやって、言葉を交わし合うことすらきっとできない。それはたぶん、寂しいことですよ。……互いに、寂しい」
 言いながら、なんだかほんとうに心のどこかが寂しくなってきたような気がして、何を見るわけでもなく目を伏せた。そんな自分を見るライトの視線ばかりを感じながら、なんとなく目の前のフォークを掴もうとして——けれどもそうはしなかった。顔を上げる。ライトがくすりと微かに笑う声がしたのだ。
「マイロウド、おまえ、やっぱりぼくには似てないみたいだ」
 目が合う。ライトはやはり笑っていた。しんと静かな光を目に湛えたまま。
「うん……それはそうですよ。僕は僕で、きみはきみです」
「でも、……ちょっと神さまみたいだね、おまえも」
 そんなライトの言葉に、まさか、と少しだけ笑ってかぶりを振る。
「人ですよ、僕は。……きみも」
 そう言えば、ライトはゆっくりと瞬きをしてこちらの目を真っ直ぐに見た。口元の笑みが先ほどとは少し形を変え、その瞳には白い睫毛の反射が落ちている。彼の目に、冷たい問いの姿が揺らめいていた。それを視界に映しながら、言葉を紡ぐためにそっと口を開く。
「人でいる気がなくても、ライトは人ですよ。……ねえ、きみはずっと、何かに怒っているでしょう」
 自分の言葉に、ライトは瞼を閉じたようだった。それからややあって彼は再び目を開けると、溜め息に近い呼吸をしてこちらを見やる。
「それは……おまえの方じゃないの」
「僕? ああ……」
 ライトの指摘に、はたとする。その言葉に少しだけ困って、けれども率直に答えを返した。
「——だって、そんなのはライトのせいですよ」
「は?」
「ライト、ごはんを食べるテーブルに座るじゃないですか。人のものは勝手に食べちゃうし、しかもパンケーキにはチョコレートソースをかけすぎるし……あれじゃあ、元の味が分かりませんよ。わざと床にお茶を溢すのもよくないですし……それに何より、ライト、裸足で歩くのは危ないです」
 一つずつ確かめるようにそう発していけば、ライトは一瞬だけ驚いたような顔をした。しかしそれは瞬きにも満たないような時間のことで、彼はすぐその口元に薄い笑みを浮かべると、例のごとく頬杖をついてはもう片方の指先でとん、と卓の上を軽く叩く。そうしてひらりと振られた手に、星座を繋ぐ光はなかった。
「……神さまでもないなあ、おまえは」
 その声には、鈴の音よりも遥かに大きな困惑と呆れ、そしてきっと、諦めのような笑いが潜んでいた。そんなライトの言葉にどんな反応をしたらいいのか分からないまま、やはり自分は曖昧に頷いてしまう。ライトの目がこちらを見る。瞬きを許さないそのまなざしを、自分もそっと見つめ返した。彼は少し、呼吸をしていた。
「マイロウド」
「うん?」
「——明日は、晴れるといいね」
 ぱちり、と瞬く。
 自分は道の真ん中に立っていた。
 きょろりと辺りを見回す。自分の近くには白い少年の姿や手を付けていないパンケーキどころか、喫茶店すらも存在していないようだった。目に映るのは、長く延びている街道と葉も少なになってきた木立ばかり。風が、少しだけ吹いていた。鈴の音は聞こえない。自分の名は、マイロウド。今日は星のぞみの月、十三日。此処は緑の大陸。自分は海へ向かっている。手記は背負っている荷袋の中。そうでなくても、出会った人々のことは憶えている。名も顔も、表情も顔も、言葉も。
 空を見上げた。そこは白んだ雲に覆われて、普段の青はその姿を隠されているようだった。光は何処にも見当たらなかった。太陽の光は。
 明日は晴れるといいね。その空の色が、そう言ったひどく少年の瞳に似ていたことばかり、今は鮮明に想い出せた。


20200112 
シリーズ:『マイロウドの手記

 ➤ メッセージ


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?