美術史第32章『ロマン主義と写実主義』
1819年にはフランスの画家テオドール・ジェリコーが三年前に発生した船の難破事故という時事的なテーマを使った「メデューズ号の筏」を発表した事で大きな議論が巻き起こり、このジェリコーの用いた激しいタッチと運動感の描写は新古典主義絵画とは異なり、ロマン主義絵画の先駆者とされる。
その後、「サルダナパールの死」「キオス島の虐殺」そして世界で最も有名な絵画の一つ「民衆を導く自由の女神」などの作者のフランスの画家ウジェーヌ・ドラクロワにより粗いタッチ、運動感の描写、入り乱れた色彩などロマン主義絵画の様式の様式が完成され、近代絵画に多大な影響を残した。
ドラクロワと同じ19世紀前半は、新古典主義からロマン主義への移行時期でありポール・ドラローシュという歴史や文学作品などロマン主義的な題材を新古典主義の様式で描くといったスタイルの画家も活躍している。
19世紀前半のフランスではロマン主義的な傾向のある絵画が主流となっていたが、1830年代頃からパリ周辺の集落バルビゾンに集まった画家達により写実的な風景画を描いたバルビゾン派が誕生、ここでテオドール・ルソーやジャン=バティスト・カミーユ・コローなどが活躍、これにより今まで歴史画や神話画などに比べてメインではなかった風景画が盛んとなり「写実主義美術」が誕生した。
1850年代頃には「エッケ・ホモ」などの作者であるオノレ・ドーミエ、「落穂拾い」「晩鐘」などの作者であるジャン=フランソワ・ミレー、「オルナンの埋葬」「画家のアトリエ」「世界の起源」「こんちにはクールベさん」「女とオウム」などの作者ギュスターヴ・クールベなどが登場、写実主義絵画が繁栄を極めた。
一方、イギリスの首都ロンドンでは1760年代にベンジャミン・ウエストにより新古典主義絵画がもたらされ、ローマ、パリと共に新古典主義の一大中心地となっており、新古典主義を基調にしつつ自由な表現を行いロマン主義絵画もフランスより早い18世紀末期にはヨハン・ハインリヒ・フュースリーや詩人でもあるウィリアム・ブレイクなどによって作られる様になった。
19世紀に入ると光の表現を追求し多数の幻想的な風景画を描いたジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーや気象学に基づいて正確に空や雲を描写したジョン・コンスタブルにより風景画や写実主義絵画が広められた。
ドイツでは18世紀末期に新古典主義の先駆者の一人とされるアントン・ラファエル・メングスが活躍して以降、繁栄することはなかったものの、19世紀初頭には新古典主義と独自の内省性を組み合わせた様式が誕生、「雲海の上の旅人」「氷の海」の作者であるカスパー・ダーヴィト・フリードリヒや、フィリップ・オットー・ルンゲにより風景画が発展した。
また、この頃にはヨハン・フリードリヒ・オーファーベックによってキリスト教美術を復興するナザレ派も誕生し、これは19世紀中頃のラファエロ前派に大きな影響を与えることとなる。
スペインでは18世紀末期から19世紀初期にフランシスコ・デ・ゴヤという最も有名な画家の一人とも言える人物が宮廷画家として活躍、「我が子を食らうサトゥルヌス」「着衣のマハ」「裸のマハ」「巨人」「マドリード、1808年5月3日」「カルロス4世の家族」などの主観的な情熱を主題としたロマン主義の傑作を多く描いている。
アメリカではジャクソン大統領によって推進された西部開拓やナショナリズムの確立によって「アメリカ・ルネサンス」が開始し、文学や美術は大きな活況を呈し、ロマン主義に影響を受けた画家達によるハドソン川周辺を中心に西部などの壮大な風景画を描く、アメリカ最初の絵画の流派とされる「ハドソン・リバー派」が誕生した。
ハドソンリバー派ではトマス・コールやその弟子フレデリック・エドウィン・チャーチ、アルバート・ビアスタット、アッシャー・ブランド・デュランドなどが活躍し、それとは別に「ルミニズム」と呼ばれる近くを明確に、遠くを不明確で彩度を低く描き、筆跡を残さないなめらかな画風の風景画家も多く活躍、他にもアメリカではジョージ・カレブ・ビンガムなどのような人々を描いた風俗画も生まれた。
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