アセット_39

「情熱」という宗教の信仰。見つけるものでも育むものでもない、説明要員としての情熱。

「情熱を育てる」なんと良い表現だろうか。

「情熱を持て」「夢を描け」なんて自己責任を強調する言葉よりも、ずっと現実的である。さらに、上記記事では「情熱を育てた人」が結果として得られるものは「情熱を持っていた」人と遜色がない、むしろ良い結果が得られることもあるというデータも紹介している。アドバイスする人、される人へのアドバイスにも納得である。

しかし、情熱は、見つけるのではなければ、育むものでもない。

性格が悪い人がいる。この人が今日も誰かの悪口を言っていた。あぁ、性格が悪いからだ。

この解釈は正しいだろうか?否。

・悪口を言っていること
・繰り返し行っていること

この2点から、「性格が悪い」とされたのだ。

性格が悪いから悪口を言うのではなく、悪口を繰り返し言っているから性格が悪いと解釈されたのだ。

情熱も似ている。

◆情熱を持っているから何かに集中して取り組んでいるのではない。
何かに集中して取り組んでいるから「情熱を持っている」と解釈・理由づけされたのだ。
◆何かに集中して取り組むことは、何かを犠牲にすることだ。

この記事では上記2点の内容を説明していきたい。

具体的アドバイスなどにあまり結びつかない。その上、何のデータも伴わない記事である。しかし、情熱を持つことを勧める、育むことを勧める、というスタンスが、狭い視野で行われている可能性を知ることが、身を守ることにつながるかもしれない。

そもそも、人はなぜ「情熱を持ちたい」と望むのか?

望む理由として多そうなものをいくつか

憧れの起業家に言われたから?
成功したいから?
幸せな生活をおくりたいから?
誰かを幸せにしたいから?
よりたくさん稼いで、大きな仕事をしたいから?
何かに打ち込んでいる人はかっこいいから?

こうして見ると、情熱というのは「目的」ではなく、「結果を得るための手段」のようにも思われる。情熱的に何かに集中して取り組むことで、得難いものを得ることができる、そんな風に。

待て待て本当だろうか。

以前「情熱」ではなく「夢」という表現で、このような記事を書いた。

「夢を追いかけること」「好きなこと」へのコミットメントは、続けているうちにやめられなくなる。という話だ。

リンクを貼った記事での言葉、「情熱」に言い換えるならば、

「ある行動」をするとき、閾値を超えると、その行動はやめられなくなる。「情熱をもっている対象」としか呼べないものと化す

人はやめられなくなった行動の説明要員として「情熱」を持ち出すのだ(たぶん、夢に関するリンクは読んでくれていないだろう)。この記事では宗教と比較して改めて説明してみる。

「情熱」が起こるメカニズムは宗教の信仰に似ている。

これまで神様を信じて生きてきた人にとって、

「信じるのをやめること」=「これまでの生き方・行動が無意味であったと認めること」

である。

そうしたつらい自己否定を行える人は少ない。だから宗教を信じる人はいまだにたくさんいるのである。(宗教への批判ではありません。)

だから、改宗を勧める際には、罪を認めたり、悔い改めたりすることを評価する。新しい神様は許してくれると伝える。「過去の人生も無意味ではないと認めてあげるからうちに改宗せよ」と迫る。
逆説的だが、本人に自身の人生が無意味であったと受け入れさせることで、意味を与える存在はより強大なものとなる。(ちなみに、ブラック企業が行う新人研修で自己否定的発言を強制するのも同じように解釈できると思う)

これまでの人生や、繰り返し行ってきた行動が無意味であったと人はなかなか認められない。

だから、これからも同じ行動や関連する行動を行っていくのである。大抵はネガティブな諦めではない。ポジティブに「●●な意味・目的があって、▲▲をやってきた。これからもやっていく」と人はストーリーを作る。

こうして続けてきた行動が「情熱の対象」と呼ばれるのである。

人が行動をするとき、必ずどんなに小さくても自身と周囲に変化をもたらす。技能に卓越すればより新しい変化に出会える。もちろん、偶然もある。

好ましい変化を行動の結果であると理解することで、より行動は増す(好ましくない変化は仕方がない、人生はそういうものだと合理的に諦めることが肝要である)。行動が増すことでより新しい変化に出会う確率が高まる

好ましい変化に出会い、また行動の結果であると理解する。こうしたループの中にいるとき、人はその行動に対して情熱を感じるのだ。やめられなくなるのだ。

改めて、「情熱」が先か「行動」が先か。~妄想って良いよね~

当然、行動である。やってもいないのに「情熱」は起こらない。

起こるとすれば、「行動をしている自分の妄想」に対する情熱である。妄想という「現在行っている行動」に対して情熱的な執着心を抱いているだけだ。漫画を読んで「バンドをはじめたい」と思うようなものである。(いろいろの行動のきっかけになるとっても良い現象です、一応)

情熱を抱いたのは行動を始めてからだ。さらに行動の前には心地よい妄想があることも多いだろうという点は見逃してはならない。

急に情熱を抱ける「行動」を見つける人はいない。

・何という気もなしに行う行動
・心地よい妄想の現実での実行

このどちらかに当てはまる行動が繰り返されて、先のループにはまったとき、「情熱を向ける対象」とよばれるようになるのである。

「情熱を持った人」は、私が求めるものを得ていることが多い、らしい。

こういう仮説を持って、「情熱」という漠然としたものを求めているのだろう。しかし、情熱とは「目的」ではなく「結果の認識」なのである。

情熱は、「万能の手段の第一段階」や「世界を出し抜く法則の第一歩目」ではない。「行動のバリエーションを肯定的・積極的に限定すること」を許してくれるひとつの理由である。

Choosing is Refusing

過度に一つのことに、長年継続して取り組む人がいるとき、その人は人類の可能性を押し広げていることが多い。情熱とは人類にとって素晴らしいものだ。

しかし、人生は有限である。様々な行動を諦めたうえで、「情熱」は成り立っている。

もちろん、「偶然による人とのめぐりあわせ」や「日本人として生まれること」「家庭環境」などの運によるところで、諦める事柄が少なくてすむ人もいれば、その反対もいる
また、諦めた事柄が多い・少ないといった認識でさえこれまでの人生に左右される。

いま、大事なものはなんだろうか。あるいはこれから大事になるであろうものはなんだろうか?

成功や社会的名声でもよいが、もしかしたら掘り下げると、恋人や家族だったり、功利主義なあなたは人生の幸福量の最大化なんて抽象的なものかもしれない。平穏・平凡な人生かもしれないし、自分の命や子ども、これから出会うであろう理想の恋人かもしれない。

決して失いたくないと思うものは、何度も確認した方が良い。

「情熱を育てる」ことは素晴らしいことだ。しかし、大事なものを「大事にするための手段」という二次的な行動を情熱の対象とするのは危険なことだ。大事なものを大事にできなくなるかもしれない。稼いだり、勉強したりする二次的な行動と同時に「大事にする」を行動として現実に日々行っていかないと、おろそかになる。

情熱はあなたが得るのではない、行動が「情熱」という理由を得るのである。

先の記事に書いてあること、勧めている行動には大賛成だが(あんな記事を書けたらかっこいいですよね)、以上のような意味で「情熱を育てる」という日本語はしっくりこない。

「情熱あるものという地位を得るチャンスを、何らかの行動に対してちょっとだけ与えてみる」ことを繰り返していくうちに、どれか一つの行動がそこそこの情熱を得ることに成功するのではないだろうか。(ちょっとズレたり、深掘りしたり、いろいろするかもしれない)

繰り返そう、「情熱」それ自体は目的や目標ではない。理由・説明要員・解釈である。

あなたの「目的」や「目標」、「望むものを得ること」に近づくきっかけとなりそうなもので、興味がわりと大き目のものを何でもやってみる。こういう態度が結果、情熱を持った人を生み出す。

しかし、大きすぎる情熱は、現代で常識的に良いとされる人生を壊すことがある。一つのことに執着しすぎないことを、情熱の対象を幅広くもつことを、そっとアドバイスすることが、人生の年数分だけわずかに世の中を知る大人のあり方であるように思われる。

「好きなことをあれこれやっていたら、ここにいました」

そのくらい気が抜けた感覚で、たくさんの事柄に少しずつ「情熱という理由を持つチャンス」を与えていけることは一つの幸せかもしれない。

人が与えられるチャンスの数や大きさには限りがある。大事なものから優先的に与えていきたい。

Have a nice day^^