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「腹八分目」が身にしみた1週間

わたしは滅多にお腹を壊さない。
食べたものが合わなくて胸がむかつくことはあるけれど、お腹を下したりはしない。それだけ体が必死に「消化吸収しよう」とがんばっているんだと思う。

ところが先週1週間、どういうわけか何を食べても胸につかえ、便通も滞り、おまけにひどい頭痛がしてきた。痛いのは辛い。何をする気力もなくなる。家事を投げ出してベッドに籠もること2日。漢方薬を飲んで少し改善したような気もするけれど、相変わらずお腹はスッキリしない。


そんな中、休日に夫が外食しよう、と誘う。彼にとって、やっかいな仕事がひとつ終わったご褒美のランチ。断ったらがっかりするだろうな、と思う。
(隣で座っているだけで、わたしはそれほど食べなくてもいいよね)と内心思いつつ、夫のお気に入りの中華レストランに向かう。

まずは子どもたちの好物チャーハンをチョイス。他にも水餃子、角煮、麻婆豆腐、とオーダーは増えていく。知ってはいたけれど、夫は美食家で大食いだ。料理好きのお義母さんが、毎晩テーブルに並べ切れないほどのおかずを用意し、それを残すなんてもってのほか、という家庭で育った。目の前に並んだおかずの数=幸福の指数なのだ。

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わたしは胃もたれしない程度におかずをつまみ、無料のジャスミン茶をおかわりし店を後にした。帰宅したのが4時近くだったので、「今日はもう夕ご飯いらないね」と声をかけると、子どもたちからは「うん!」と返事が、夫からは「えっ!」と疑問形の返事が。

いつの頃からか、私たちは三度三度の食事を「義務」のように捉えてしまっていると思う。朝食は必ず食べるべき、とか、タンパク質は毎食必ず摂るべし、とか。
わたしは別に、お腹が空いていないなら朝ご飯でも夕ご飯でも抜いていい、と思っている。だけど、夫は「夕ご飯食べないと大きくなれない」と言って、疲れて寝ている子どもを起こしてまで食べさせようとする。

結局、子ども達はヨーグルトを食べ、夫は納豆ご飯を食べてその晩は落ち着いた。いやしかし、もし夕飯用意したら絶対食べてただろうな。そのぐらい、夫にとっては「食べる」ことが重要案件なんだ。というか、家庭において「誰かの手料理を食べる」ことは「愛を咀嚼する」ことの代替行為に近い。以前、夫の実家に滞在し「そんなに食べて大丈夫?」という量のおかずを平らげた時も、「全部食べきるのが親孝行」と呟いていた。


わたしは、誰かの手料理を残したくはないし、愛情表現としての食事、というのも理解できる。けれどそれ以上に、いま自分の体を気遣いたい。もうこれ以上仕事をさせるな、と叫んでいる胃と腸の声を無視し、食事という暴力をこれまで散々やってきた。そして身に沁みた。

自分の体に押し付けたタスクは、自分に返ってくる

例えば、筋トレで無理してしまった翌日。
あるいは、宴席で盛り上がり飲みすぎた翌朝。
ついつい夜更しした週明け。

「後悔」と共にやってくるツケ。毎回「もうやめよう」と思うのに繰り返す愚かさ。

長年の習慣は、その人にとってもはや人格の一部となる。
夫にとって、おそらくいついかなる時も「食べる」ことは優先順位の第一となるだろう。
彼にとってはそれでいい。強靭な胃袋をもち、時間をかけてすべてを消化吸収できる能力が備わっているから。

わたしは自分の内臓にオーバーワークを課す、という習慣を実行し続け、ブーメランのようにダメージをくらってきた。
こんなスパルタの成果は何もない。


ちょうど今日、3月21日は1年のうちでも重要な意味を持つ日。
占星術の世界では新しい1年のスタートとされ、古代マヤ文明でもこの日にしか見ることの出来ない日時計があるとか。日本でもお彼岸の中日にあたる今日は、なにか新たな気分、スタートを切るのに適した日。

ここに私が宣言するとしたら、「腹八分目」とかになるのだろうか?
1年のスタートになんだか滑稽な気もするけれど、このままオーバーワークを続けていたら、確実に体は悲鳴をあげる。

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食べる」という行為は不思議だ。生きていくのに必要不可欠な行為が、時に社交の手段や、豊かさ・文化の象徴や、愛情表現になったりする。ひとりひとりにとって「食事」の持つ意味は違い、それをすり合わせ「家庭」という場所での食事行為が成り立っていく。

だったら、これから。わたしと夫、それぞれの価値観は違うけれど、子ども達とわたしたち家族の文化、ささやかな歴史というものが、毎日の食事の上に積み重なっていく。いままで無自覚に、「時間だから」「決まりだから」と食べていた行為をもう一度構築していく。

そんな事を思いながら、いま夕食のタコザンギを揚げている。

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