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仕事を頑張るあなたに薦めたい、女性ジャーナリストと彼女の「天職」の物語 – 『王とサーカス』(米澤穂信)

2001年、フリージャーナリストとして新たなスタートを切った太刀洗万智(たちあらいまち)は、海外旅行特集の事前取材のためにネパールを訪れる。現地で出会った人々との交流や観光地の取材を楽しんでいたが、突然、王宮で国王殺害事件が起こる。混乱の中ここぞとばかりに取材を進めていた彼女は、思いがけずもう一つの殺人事件に関わっていくことになる。

米澤穂信著『王とサーカス』は、実際にネパールで起きた王族殺害事件を題材にしたミステリー小説だ。「殺害」や「殺人」といった血生臭い言葉が並ぶこのジャンルは読んだことがない、という方もいるかもしれない。それでも私がこの小説を薦めたい理由は、この小説には殺人事件の謎以外にもたくさんの魅力があるからだ。普段はミステリーには興味がないと言う方にも、ぜひこの物語の魅力を知ってほしい。

フリージャーナリスト、太刀洗万智

主人公の太刀洗万智は28歳。5年間勤めた新聞社を辞め、フリージャーナリストとして独立したばかり。海外旅行特集の仕事のため、事前取材としてネパール・カトマンズの「トーキョーロッジ」に滞在し、宿泊客やカトマンズの人々と交流しながら取材を進めていく。その中で偶然、歴史的な大事件に立ちあう。

私はこの太刀洗万智というキャラクターが好きだ。自らの観察力や推理力を武器に殺人事件と向き合う彼女は、一言でいって「かっこいい」。ジャーナリストという仕事にプライドを持ち、真実を追いかける。少々危険な場所への取材でも、勇気を持って飛び込んでいく。まさに誰もが憧れる、仕事に燃える凛とした女性だ。だが彼女の魅力はそれだけではない。クールな顔立ちや冷静な態度から冷たい人間のように思われがちだが、一人称で語られる彼女の内面はとても豊かで繊細なのだ。フリージャーナリストとして独立したことに高揚感を感じつつも、会社という後ろ盾が無くなったことで不安を感じてもいる。現地で出会った人々と交流する時には冗談を言うこともある。警察に連行されることになれば動揺するし、しっかり者に見えて天然な一面もある。特に私の印象に残っているのは、終盤、辛い真実を目の前にした時に傷つきながらもそれを受け止めるシーンだ。苦さの中に彼女の人間らしさと強さが感じられて、私たちの感情も揺さぶられてしまう。

太刀洗は、そのかっこよさに思わず憧れるキャラクターであり、同時に私たちが共感や親しみを覚える普通の女性でもある。一緒に事件を追ううちに、きっとあなたも彼女を好きになるはずだ。

ジャーナリズムへの問いかけ

そんな太刀洗が、異国で歴史的な事件に立ち合わせたことはジャーナリストとしてこの上ない幸運だ。しかも彼女はフリーになったばかり。この事件を報じることで名を馳せれば、この先もきっと仕事に困ることはない。しかし意気揚々と王族殺害事件の取材をする彼女に浴びせられたのは、ある登場人物からの手厳しい言葉だった。

その人物は、彼女に「なぜネパールの王族殺害事件を遥か遠くの日本に伝える必要があるのか」、そして「なぜ一介の記者でしかない太刀洗が伝える必要があるのか」を問いかける。そして、彼自身の経験と共に次の言葉を投げかける。

自分に降りかかることのない惨劇は、この上もなく刺激的な娯楽だ。

米澤穂信(2018)『王とサーカス』(株)東京創元社創元推理文庫 p199

彼女たちジャーナリストは、他人の惨劇を娯楽として提供しているのだ、と。その場では何も答えることができなかった太刀洗は、その後、ある殺人事件と関わる中でも、自分はなぜこの仕事を続けるのかを考え続ける。

自分が「正しい」と信じ、プライドを持っていた仕事を否定される経験。自分の足元が崩れるような感覚の中、それでも彼女は考え続ける。自分の記事は誰かを傷つけているのか。誰が読み、何を思うのか。なぜそれでも自分は書き続けるのか。殺人事件の真実を追いながら、太刀洗は自分の答えを見つける。明確な答えが存在しないこの問いに、彼女はどんな結論を出すのか。彼女の覚悟は、最後に小さな祈りとともに語られる。

そして、この問いかけは報道を受け取る側である私たちにも向けられたものだ。他人に起きた悲劇を、私たちは娯楽として消費しているのではないか。ウクライナで起きている惨劇を、「KAZU Ⅰ」の沈没事故を、安倍元首相に起きた悲劇を、私たちは何を思って見つめているのか。それは「消費」になってはいないか。自分自身に問いかけることは痛みを伴うけれど、そうするだけの価値があるはずだ。この物語は、私たちが「ジャーナリズム」、つまり報道についてもう一度考えるきっかけを与えてくれる。

ネパール旅行記としての『王とサーカス』

最後に少し趣向を変えて、この物語の「ネパール旅行記」としての一面を紹介したい。太刀洗はカトマンズで過ごす中で、現地の人々と交流し、現地の食べ物を食べ、街を歩き、その暮らしや文化に触れる。

彼女の視点から語られるカトマンズでの体験は、この数年間のコロナ禍で味わうことができなかった異国情緒をありありと感じさせてくれる。どこからか漂うスパイスの香り、まとわりつくような熱気。ホテルの飾り気のない部屋、水の出にくいシャワー。そして、日本では飲めないような甘ーいチャイや、エスニックだけれどどこか懐かしさも感じるローカルな食堂のご飯。もの珍しさも不便さも含めて、海外旅行のエッセンスがこの物語にはある。ネパールを訪れたことがなくても、この物語を読めば太刀洗と一緒にカトマンズの街をまわったかのような感覚が味わえる。

コロナ禍は収まってきてはいるものの、まだ実際の海外旅行には躊躇する方も多いかもしれない。まずは物語の中で海外旅行を楽しんでみてはどうだろうか。

最後に

『王とサーカス』は、ミステリーとしてはもちろんのこと、それ以上にキャラクターやテーマの魅力に溢れた小説だ。今までミステリーには挑戦したことがないという方も、ぜひ太刀洗と一緒にカトマンズへ旅立ってみてほしい。迷いながらも信念を持って自分の「天職」と向き合う彼女の姿は、きっと仕事を頑張るあなたの背中を押してくれる。

この記事は、SHElikesのライティング入門コースで作成した課題を一部修正したものです。

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