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劇場版「おっさんずラブ」はBL映画じゃない。愛するとは、共に生きるとは、家族になるとは。

先日8月23日、待ちに待った『劇場版「おっさんずラブ」』が公開され、早速見に行ってきました。「待ちに待った」と言うぐらいなので、世間的には熱狂的ファンというヤツなのでしょうか。確かに、オフィシャル本もシナリオ本も買ったしドラマも反芻して楽しみました。それだけ、楽しみにしていたんです。こんなにもドラマにハマって映画を楽しみにしていたのは、「SPEC」以来です。

「おっさんずラブ」は「普通の愛の話」だ。

「おっさんずラブ」って題名だし、映画の概要では『1人のダメ男をその上司(男)と後輩(男)が奪い合う!さらに2人の新キャラ(男)も加わってラブバトルロワイアル !!!! 』とか言ってるから、BLと思われることがほとんどだと思う(映画紹介する番組でもBLですって言われてて「?」ってなった)。実際、私がこれのドラマを見た理由も男同士の恋愛話だと思ったからである。しかし私は「おっさんずラブ」が男同士の恋愛話でないことに気がついた。

この映画では(ドラマでも)、出てくるキャラクター達が「男同士だから」という理由で理不尽な目に合うことはない。さらに言えば、「女だから」とか「男だから」とか「若いから」とか「年寄りだから」とかいう、人が変えられない属性的な理由で理不尽を受けることはない。(そもそも理不尽な事件があまり起こりにくいおっさんずラブ世界ではあるけれど。)

じゃあどんなことが起こるかというと、ドラマで言えば、「友人同士で同じ人を好きになっちゃう」とか「元カレとヨリを戻したいけど、その元カレは難しい恋の方を選んで自分のことは見向きもしてくれない」とか 「告白された側がなあなあな態度のまま(気持ちがないまま)で結婚前提のお付き合い&同棲までしちゃう」とか 「自分に対して気持ちが向いてないことは分かってるけどそれでもいいと思って気付かないふりをして結婚式までしてしまう(しようとする)」とか。(まだまだいっぱい起こる)
あれれ。これって異性愛者同士の恋愛にだってあることじゃん??特に最初の「同じ人を好きになっちゃう」。当たり前のように起こることじゃん。

信じられないと思うけど、これと同じようなことが映画でも起きている。むしろ、もっとシンプルなことが起きている。シンプルな出来事があって、それをシンプルに解決している。



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これより下には、映画のネタバレが多数あります。
映画未鑑賞の方は特にお気をつけください。自衛してくださいね。

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映画で起きたことといえば、「仕事が乗りに乗ってるから結婚恋愛どころではない(もしくは仕事に逃げているとも捉えられる)彼氏と遠距離恋愛が終わってそろそろ結婚について考えたい彼氏が喧嘩した」である。爆発があったり拉致があったり記憶喪失があったりサウナで取っ組み合いがあったりするから混乱しているけど、結局起きたことはそれだけである。そして、その解決方法はいたってシンプル。「想い人には自分の思いを伝えられるときに伝える」である。人間が誕生して以来、ずっとしてきたこと。「伝える」ということ。言葉でも、文字でも、なんでもいい。黙っていたままで、誤解していたままでは家族にはなれないのだ。

ドラマの時点では春田と牧くんは「伝える」力は皆無に等しいと思っている。牧くんは一生『俺といると春田さんは幸せになれない』しか言わないし、春田はぜんぜん牧くんに気持ちを伝えない。最後の最後になってやっと、『ずっと一緒にいたい』『結婚して欲しい』と伝えるのだ。それで許されるのは恋人までである。

本当の意味での家族になるためには何が必要か。めちゃくちゃ極論で言えば『結婚しましょう(家族になりましょう)』『いいですよ』でなれるような気もしてくる。それで、籍入れて、結婚式して、一緒に暮らせば家族

本当にそれでいい??

劇場版「おっさんずラブ」の春田と牧はその3つのうちの1つもやらないまま(もしかしたらしたのかもしれないけど)で映画を終える。
今の時代の日本では、たとえおっさんずラブ世界であっても、同性同士の結婚(戸籍上でフウフになること)は認められていない(春田の発言より)。結婚式はもしかしたらしたのかもしれないけど、直接結婚式を開催した描写はない(指輪は交換している様子)。そして、つい先日まで春田が上海に行っていたのに今度は牧くんがシンガポールに行ってしまう。ほとんど一緒に暮らす期間はなかった。

それでも、彼らは「思いを伝える」ことを覚え、家族になる決心をし、家族になった。

つまり「家族になる」というのは、籍を入れることや結婚式をすることや同棲をすることではないのだと。 「想い人には自分の思いを伝えられるときに伝える」ことを忘れない、そしてお互いを「想う」ことが家族になる一歩だと。

春田と牧が以前と変わったんだと思わせてくれるシーンが一つだけある。某エンドロール後の、2人がそれぞれの方向に向かって歩いていくシーンである。映画中盤でも2人が反対方向に歩いて帰るシーンがある。そのときはお互いと離れることが寂しいのか、見惚れているのか知らないけど、2人とも振り返ってまた目を合わせる。(単純にめちゃくちゃ可愛いしいいぞもっとやれ感)でも、最後のシーンでは、2人は背を向け合ったまま一瞬立ち止まる、が、振り返らずにそれぞれの道を進む。それで思うのだ。あぁこの2人はもう映画が始まる前の2人とは違う。ちゃんと変わることができてよかったね、と。


この映画に一つ今文句を言うとすれば、それは、「見ている人に委ねすぎ」ということである。

全てを描写しろなんていう趣のないことは言わない。想像させる余地を与えられているのも映画を楽しめるポイントであることは確かである。でも、上映時間をあと1分伸ばしてでも春田と牧が前と変わったことを明確に示すような日常会話があれば(エンドロール前に)。ただそれだけで、この映画はもっともっと評価されただろうに。

「おっさんずラブ」はただの愛の話だった。それが意味しているのは、つまり、この世に生きている人すべてに当てはめることができる愛の話であるということだ。別に恋愛だけに限った話でも、仕事の話でもない。だから、家族とでも恋人とでも友人とでも1人でも、男だろうと女だろうとどちらでなくても、子供でも大人でも、若者でも年寄りでも 観ることができる映画である。おっさんずラブが目指したのは、これだろう。誰もが楽しく愛について考えられるような映画。ただそれだけだ。1回だけ観る人にとっては楽しくスペクタクルな映画を、何度も何度も観てくれる人には深く想像できるような伏線とスキマのある映画を。

この夏、一度でいいから観て欲しい。すべての人に。


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