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跳べ、ウラヌス!史実紀行 #1「”西とウラヌス”前夜~今村とソンネボーイ~」

バ術競技全盛期の20世紀はじめ、イタリアのピネロロ騎兵学校にいる孤独なウマ娘「ウラヌス」は、日本のバ術家「西 竹一」に出会う。

まだまだ小さなこのウマ娘とトレーナーは、バ術の全盛期である20世紀はじめという時代で、前を向いて進み続ける。

これは、ウマ娘とトレーナーたちの”絆”の物語。

『ウマ娘Prequel -跳べ、ウラヌス!-』
pixiv

ハーメルン

競馬ではなく「馬術競技」を元に、ウマ娘の世界で活躍するウマ娘とトレーナーのコンビたちを描く「跳べ、ウラヌス!」。
「跳べ、ウラヌス!史実紀行」では、「跳べ、ウラヌス!」の主人公の元になった馬術家「西 竹一」とその愛馬「ウラヌス」を中心に、作品に沿って史実を紹介していきたいと思います。

今回は、西とウラヌスの出会い……その前日譚について解説していきます。


1. 馬術家「今村 安」

知る人ぞ知るバロン西こと「西竹一」とその愛馬「ウラヌス」。
「跳べ、ウラヌス」の主人公の元となったこの人馬は、のちの1932年ロサンゼルスオリンピック、そして太平洋戦争を通じて伝説となり、今も語り続けられている存在です。
では、彼らの出会いはどのようなものだったか。

物語の始まりは、西とウラヌスとは全く別の人物です。

時は1929年。紀行前回の#0「馬術競技と日本」でも解説しましたが、日本は習志野の陸軍騎兵学校を中心に馬術競技の世界へと挑むため、1928年アムステルダムオリンピックの馬術競技に参加しました。しかし結果は惨敗。遊佐幸平など陸軍騎兵学校の馬術家たちは次の1932年ロサンゼルスオリンピックに向け、欧州の進んだ馬術の吸収に乗り出します。
そこで陸軍騎兵学校は、カプリッリが生み出したイタリア式馬術(自然馬術)で世界の障害飛越競技会を席巻していたイタリア……その名門であるピネロロ騎兵学校に優秀な馬術家を送り留学させることにしました。
留学の主な目的は3つ。

・最先端の馬術(主にイタリアの自然馬術)の吸収
・ヨーロッパ各国で開催される国際競技会への出場
・1932年ロサンゼルスオリンピックに向けた競技馬の調達

特に重要なのは競技馬の調達で、国際的な馬術競技で立派な成績を上げるには、騎手自身の上達はもちろんですが、それ以上に”名馬”を探し出して馬術を仕込むことが重要でした。つまりヨーロッパで学んだ馬術を調達した馬の調教で実践し、その成果を国際競技会への参加で確認するのです。
留学でこれらの目的を達成するには、勤勉で馬への調教が誰よりも上手い馬術家を送り出さなければいけません。
そこで白羽の矢が立ったのが、陸軍騎兵学校の教官「今村 安(いまむら やすし)」大尉(当時)です。

今村安(写真は1932年ロサンゼルスオリンピック時のもの。当時少佐)

今村大尉は、のちにラバウルの将軍として有名になる陸軍大将・今村均の弟です。1923年から陸軍騎兵学校の教官として活躍し、1920年に『障害飛越ノ研究』という障害飛越競技に関する研究論文を出すなど熱心に障害飛越の研究をしていました。更に今村大尉は馬の調教が騎兵学校の中で誰よりも上手く、癖のある馬でも最終的には優秀な馬術馬に仕上げてしまうと評判でした。ピネロロ騎兵学校への留学にこれほど適任な人はいません。
1929年4月、今村大尉はヨーロッパに旅立ちます。
ピネロロ騎兵学校留学に先立って今村大尉はヨーロッパを見て回りますが、その道中のイギリスで、今村大尉は運命的な出会いをします。
それが、ハンター種・栗毛のセン馬「ソンネボーイ」です。

2. 名馬「ソンネボーイ」

ソンネボーイ(写真は1932年時9歳のもの)

ソンネボーイは当時競技馬としてはまだ若い、1929年当時6歳の馬で、今村大尉がヨーロッパ滞在中の自分の愛馬として購入しました。詳しい情報は残されていませんが、相当な選馬眼を持つ今村大尉が、当時名実ともに世界一の馬産国だったイギリスにいる馬の中で”これだ”と選んだ馬です。相当な馬格を持つ優れた馬だったと推察できます。
購入金額について具体的な記録は今のところ手元にありませんが、当時のヨーロッパは第一次世界大戦の疲弊から立ち直っているとは言えず、日本の通貨がかなり強かったようで、日本がヨーロッパの競技馬を購入するには金銭的にも有利な時代でした。また、競技馬は陸軍騎兵学校購入以外だと民間オーナーが馬主となって出資してもらい調教などを請け負う形式が取られていて、ソンネボーイものちに代議士となる「島村一郎」が馬主となりました。

さて、そんなソンネボーイを相棒にピネロロ騎兵学校に留学した今村大尉は早速イタリアの自然馬術を学び、それをソンネボーイの調教で形としていきました。
結果としては、ソンネボーイの調教は大成功でした。今村氏の門下生である岩坪氏が後年本人に伺った話によると、ソンネボーイは「飛越が巧みな上に歩度増減、回転等が非常に軽快、流暢で、言わばイタリア人好みのする馬だった」とのことで、つまり優秀な競技馬に成長したということです。それは元々の馬格もありますが、適切な調教の成果でもあるのは間違いありません。
1930年に入り本国から騎兵少佐への昇進が通達され、今村”少佐”となるころには、今村少佐とソンネボーイはピネロロ騎兵学校でも評判となっていました。

当時のイタリアは、馬の自由な運動を尊重し、適切な調教を行うことで飛越馬を完成させる「自然馬術」が主流でした。イタリアは当時の国際競技会ではこの自然馬術で馬術界を圧倒していたのですが、馬に関してはある面白い特徴がありました。当時は障害飛越に適していると言われていた(ソンネボーイのような)ハンター種の馬が主流でしたが、イタリアは一見競技に耐えられなさそうな小型サラブレッドを好みました。サラブレッドは調教が難しいですがそのヒステリック性や智能、眼の鋭さなどがイタリアの馬術家には好まれていました。更に小型ですとハンター種にもあった「重さ」を克服できます。つまり適切な調教さえできればこれほど心強い馬はないわけですが、馬格で言えば貧弱に見える馬が多かったのです。
一方、今村少佐のソンネボーイはイギリスで購入された馬格も最高なハンター種。小型サラブレッドが多かったピネロロ騎兵学校では嫌でも目立ったでしょう。更にソンネボーイは「飛越が巧みな上に歩度増減、回転等が非常に軽快、流暢で、言わばイタリア人好みのする馬だった」とのことで、調教の出来栄えも非常に良かったことが分かります。

そんなソンネボーイに、イタリアで有名だったある騎兵将校も魅せられていました。伯爵「ラニエリ・ディ・カンペッロ・デッラ・スピナ」中尉です。

3.ウラヌスとの邂逅

ラニエリ・ディ・カンペッロ(Ranieri di Campello)

当時ピネロロ騎兵学校にいたカンペッロ中尉は、今村少佐にある提案をします。その提案が「ソンネボーイを売ってくれないか」というものでした。素晴らしい馬格を持ち調教も優れたソンネボーイ。それはイタリアの名騎手も喉から手が出るほど欲しがったほどだったのです。しかし、オリンピック用馬として購入し今や相棒となったソンネボーイを今村少佐が売るはずもなく、この提案を断ります。それならオリンピック用馬として代わりにこの馬はどうかと、今村少佐にある馬を見せました。その馬こそが血統書のない巨大なアングロ・ノルマン種の「ウラヌス」だったのです。

よく「バロン西しか乗りこなせなかった」と言われるウラヌスですが、実はウラヌスはこの時点で国際競技会で活躍していた馬でした。カンペッロ中尉によれば、ウラヌスは既にリスボンの競技会で190cmの大障害を飛越し優勝した経験があり、また、3mの濠なら信地(その場で)飛越して跳び越えられるほどの力があったと言います。馬格は体高が181cmもある「駱駝の怪物」のような馬でしたが、ウラヌスが持つ力は今村少佐にとっても魅力的に見えました。今村少佐の目的の一つは「オリンピック用馬の調達」です。
今村少佐はソンネボーイを手放さず、逆にカンペッロ中尉にウラヌスを売るように頼み込みます。カンペッロ中尉は今度は逆にウラヌスを売るつもりはないと渋りますが、今村少佐の説得に最後は折れて了承します。どのような言葉で折れたのかは不明ですが、カンペッロ中尉のように軽い馬を好んでいたイタリア騎兵にとっては、ウラヌスについてよく語られるように「乗りこなすのが難しかった」というのもあるのかもしれません。

何はともあれ、今村少佐はウラヌス購入の約束をとりつけました。とはいえ購入するにはお金がいります。ソンネボーイの馬主になってもらった島村一郎のように、民間か騎兵学校に出資してもらわなければいけません。
今村少佐は本国に3通の手紙と電報を送ります。1通はソンネボーイの馬主である島村一郎、もう1通は陸軍騎兵学校を含む陸軍の軍馬の育成・購買を管理する軍馬補充部に送られました。そして最後の1通が、イタリアに留学する際に「良い馬がいたら教えてほしい」と頼まれていた、教え子の「西 竹一」中尉(当時)でした。
そうです。今村少佐とソンネボーイを経てヨーロッパから送られた3つの手紙・電報うちの1通を受け取ったこの時こそが、西とウラヌスの出会いの始まりだったのです。

手紙を受け取った西中尉はまだ見ぬ名馬・ウラヌスに惹かれていきます。
次回はついに、西とウラヌスの出会いをお送りいたします。


※参考資料※


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