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跳べ、ウラヌス!史実紀行 #0「馬術競技と日本」

バ術競技全盛期だった20世紀はじめ、イタリアのピネロロ騎兵学校に、あるウマ娘がいた。彼女の名前は「ウラヌス」。彼女は誰よりも強いウマ娘になるために、たった一人で走り続けていた。
そんな中、彼女の下に一人の男が東洋から訪れる。男の名前は「西 竹一」。
日本のバ術家である彼は、世界の舞台に立つための相棒となるウマ娘を探していた。

まだまだ小さなこのウマ娘とトレーナーは、バ術の全盛期である20世紀はじめという時代で、前を向いて進み続ける。

これは、ウマ娘とトレーナーたちの”絆”の物語。

『ウマ娘Prequel -跳べ、ウラヌス!-』
pixiv

ハーメルン


競馬ではなく「馬術競技」を元に、ウマ娘の世界で活躍するウマ娘とトレーナーのコンビたちを描く「跳べ、ウラヌス!」。

本記事では、「跳べ、ウラヌス!」の主人公の元になった馬術家・軍人「西 竹一」とその愛馬「ウラヌス」を中心に、作品に沿って史実を紹介していきたいと思います。
大河ドラマの紀行のような形でお楽しみください。

今回は”西とウラヌス”の前に、馬術競技と日本について解説します。


1.「馬術競技」

まず、はじめに「跳べ、ウラヌス!」のテーマの一つでもある「馬術競技」とは何か。
馬術とは、本来は馬を乗りこます術全般を指し、主に馬を御する……つまり馬を思い通りに動かす技術のことを指します。馬術競技はこうした馬術の正確さ、活発さ、美しさを競うスポーツです。
マイナーなものを抜くと、現代までオリンピックでも行われている馬術競技は主に3つに分けられます。

「馬場馬術(Dressage)」
”馬のフィギュアスケート”と言って差支えはないと思います。馬の様々な歩き方(歩様)やステップを組み合わせて、馬に乗って長方形の馬場の中をダンスを踊るように演技を行うもの。決められた演技を行う”規定演技”と、音楽をつけて自由に舞う”自由演技”があります。複数の審査員が点数をつけ、その点数を満点で割ることで得点が出ますが、芸術点等があることもフィギュアスケートに似ているかもしれません。

「障害飛越(Jumping)」
その名の通り、馬場に設置された様々な障害物を、決められた順番で、時間内に跳び越えていく競技です。障害飛越の中にも様々な種目がありますが、最も一般的な標準障害飛越競技は、障害物を確実に飛越し時間内にゴールすることが求められるスポーティーな競技です。減点方式の競技で、ハードル等の障害物を落としたら4失点、一度障害物の前で馬が止まってしまったり(拒止)したら4失点、制限時間を超えると超えた分だけ失点、更には落馬したりすると失権(競技終了)と、かなりシビア。失点が最も少ない人が上位となります。
たまに競馬の障害競走と間違われますが、障害競走は長いコースを走り純粋なゴールの着順のみを競うのに対し、障害飛越競技は主に四角形の競技アリーナの中で行われ確実な飛越が求められます。

「総合馬術(Eventing)」
馬場馬術、障害飛越に加え、クロスカントリー競技の3種目を同一人馬で、3日間かけて行う競技です。すべて減点方式で行われ、3種目の減点が最も少ない人馬が上位となります。
馬場馬術と障害飛越は上記の通りですが、特にクロスカントリー競技は過酷な競技です。数kmに及ぶ自然の中に作られたコースに柵、生垣、水濠などの大掛かりな障害物が置かれていて、これらの障害物を飛越しながら時速30kmを超えるスピードでコースを駆け抜ける競技です。失点や失権のルールは障害飛越に似ていますが、障害に対する拒止等の減点数が大きくよりシビアです。
3種目を3日かけて行うことから、期間中はずっと馬のコンディションを保たなければならず、一つ一つの競技を確実にこなさなければいけないことからかなり難しく緊張感のある競技となっています。

詳しいルール等は日本馬術連盟 様などのHPをご覧ください。
また、youtube等で動画を見ていただくとイメージしやすいと思います。

これらの競技に共通して言えることは、馬を制御する騎手の技術のみならず、馬の調教が重要だということです。ある馬術家は「どんな名人の騎手であっても、適切な調教がされていない馬では上手い馬術はできない」と述べています。いかに従順に活気をもって競技ができる馬を育てられるかが、馬術の勝敗を決めるのです。そのためには長い期間、騎手と馬がお互いを理解しなければいけません。
そのため馬術競技は何年もかけて騎手が馬を調教師、また馬が騎手を成長させ始めて形となる、まさに「人馬一体」を目指す競技と言えるのです。

2.20世紀初頭の馬術

馬術自体の歴史は古く様々な競技が行われてきましたが、上で述べた3競技を主とした馬術競技が発展したのは以外にも19世紀後半から20世紀前半の間と最近です。そしてその発展は、常に馬に乗る軍人……騎兵と共にありました。当時馬に乗り調教・訓練できる環境があるのは、ほとんどが軍人だったからです。
20世紀初頭といえば、1896年の第一回ギリシャオリンピックから始まる近代オリンピックの黎明期。馬術競技は、近代オリンピックと共に発展してきたと言っても過言ではありません。とりわけ「障害飛越」は、20世紀前半に最も盛り上がりを見せた競技でした。

1900年パリオリンピックでは、まだ馬術が完全に近代スポーツの競技として定まっていなかった頃でしたが、馬術競技が初めてオリンピックに取り入れられました。競技参加者は軍人に限定され、軍服姿の馬術家たちが活躍する馬術競技はオリンピックのトリを飾り話題となり、その中でも今まで競技として洗練されていなかった障害飛越は人々を魅了し、以降馬術のスポーツ化が進みました。
その中で進んだのが馬の調教法と騎乗法の競技への適合化です。特にこうした流れに大きな影響を与えたのは、イタリアの馬術家「フェデリコ・カプリリ」でしょう。

フェデリコ・カプリッリ

それまでの馬術といえば、王侯貴族が人に見せるためにステップを踏んでいた馬場馬術のような動きが主で、競技化した後も馬場馬術に合った騎乗・調教法が主流でした。所謂「人為馬術」です。
しかし、競技化が進み障害飛越やクロスカントリーといった競技が出てくると、それまでの機械のように人の思い通りに制御する馬術のみでは通用しなくなってきます。当時の人為馬術は馬に不自然な体勢を強いる必要があり、疲労がたまりやすく、スポーツ性が高い障害飛越やクロスカントリーには向かなかったのです。
そこで、カプリッリが生み出したのが「イタリア式(自然馬術)」と呼ばれる馬術で、馬を不必要に縛らずに自然な運動体勢を尊重し、騎手がそれに合わせるというものでした。現在でも乗馬クラブで主に行われている前方騎座(ツーポイント。競馬のジョッキーがするモンキー乗りのような騎乗方法)がその一例です。

こうした馬術のスポーツ化に合わせて調教法や騎乗法が洗練されてくると、馬術競技はヨーロッパを中心に一気に世界に広がりました。
1900年パリオリンピック以降途切れていた馬術競技は1912年ストックホルムオリンピックから復活し、この時初めて馬術競技が馬場馬術・障害飛越・総合馬術の3種目で統一されました。
オリンピック以外でもヨーロッパを中心に世界中で馬術競技会が行われるようになり、1909年からは大規模な国別対抗の国際競技会であるネーションズカップが毎年開催されるようになります。
1921年には国際馬術連盟(FEI)が設立され、こうして馬術競技は世界に広がっていったのです。

3.日本と馬術競技

馬術競技の広がりは、ヨーロッパから遠く離れた日本にも訪れます。
日露戦争前後からフランスのソミュール騎兵学校等に騎兵を派遣してきた日本は、常にヨーロッパの後をついていき馬術を学んでいました。
1888年3月には陸軍馬術学校設立、1898年10月には馬術学校を前身に陸軍騎兵実施学校が目黒に設立され、騎兵教育の環境が整備されていき、競技ではないにせよ馬術を騎兵将校に普及させる環境は整っていました。

そして1900年代はじめにヨーロッパに馬術競技が広まると、日本もこれに注目します。
当時、強い馬を継続的に生産・調教し、維持できる環境にあるのはほとんどが軍人でした。そのため馬術競技は当時「軍人の競技」で、オリンピックの馬術競技も男性の軍人にしか参加権はありませんでした。すると、オリンピックを含む馬術競技には純粋なスポーツ以外のもう一つの面が生まれます。それは「騎兵の力量」を世界に示す場であるということです。
日露戦争や第一次世界大戦で騎兵の活躍の場は減ったとはいえ、当時、騎兵は依然として各国軍隊の戦力として数えられていました。ある国が馬術で強いということは、すなわちその国の騎兵が強いということになります。それもあり、各国軍隊は馬術競技に参加する馬術家を熱心に育成していました。

当然、日本も例外ではありません。
1916年、陸軍騎兵実施学校が習志野に移転。1917年に陸軍騎兵学校に改名されました。そこで馬術を学ぶ学生は「乙種学生」と呼ばれ、馬術競技の訓練も取り入れられるようになります。
1912年ストックホルムオリンピックで三島弥彦・金栗四三の2名が日本人として初めてオリンピックに参加してからオリンピック競技が日本でも知られるようになると、日本は馬術競技への参加にも意欲を示し始めます。
1921年に国際馬術連盟(FEI)が設立されると、ベルギー、デンマーク、アメリカ、フランス、イタリア、ノルウェー、スウェーデンと共に創設メンバーとして名を連ね、国内では1922年に日本乗馬協会(現在の日本馬術連盟)が設立されます。

その中で最も大きな影響を与えたのが、立派なカイゼル髭をたくわえた「遊佐幸平」という馬術家です。
彼は1909年から陸軍騎兵実施学校の教官となり、1914年にはフランス・ソミュール騎兵学校に留学。ヨーロッパの馬術を吸収し、「遊佐馬術」という馬術書を出すなどして日本軍騎兵に馬術競技を普及させました。騎兵学校の学生たちにも慕われていて、教官室の前を通る学生たちは遊佐の苗字をもじって「遊びさゆくべえ」と大声で言っていたと言います。そんな人柄、そして卓越した馬術から「馬の神様」と呼ばれていました。

そんな人物の助けもあり、1928年アムステルダムオリンピックで、ついに日本は4人馬の馬術競技代表を送り出します。

1928年アムステルダムオリンピック馬術競技 日本代表
(左から)遊佐幸平、城戸俊三、岡田小七、吉田重友

馬場馬術
・遊佐幸平:魅 号 ・岡田小七:涿秋 号
障害飛越
・吉田重友:久山 号
総合馬術
・城戸俊三:久軍 号

結果は……惨敗でした。
馬術競技のための騎乗法も調教法も定まっていない日本は、馬術競技に慣れたヨーロッパ勢相手にかないませんでした。
馬場馬術では29名中、遊佐中佐が28位、岡田少佐が20位。
障害飛越では吉田大尉が失権。
総合馬術では46名中、なんとか半分以上に食い込む21位。
とてもではありませんが、優勝を狙える立場にありませんでした。

というのも、アムステルダムにおいては日本は準備委員会を設けることもなく、また、騎兵学校内に馬術専用の養成班もありませんでした。更には慣れないヨーロッパへの移動に人馬ともに疲弊しており、全力を発揮することができていませんでした。

これを重く見た遊佐ら日本の馬術家たちは、日本の馬術改革のために動き出します。
こうして1928年アムステルダムオリンピックをきっかけに、日本は馬術強国となるため努力を続けていくのでした。

次回は、いよいよ「跳べ、ウラヌス!」本編にも出てくるお話。1930年ごろからの日本と馬術、そして主人公・ウラヌスとバロン西の出会いについてお送りします。

※参考資料※


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