16ヵ国で刊行!『WEIRD「現代人」の奇妙な心理』の試し読み
12月19日刊行予定『WEIRD「現代人」の奇妙な心理――経済的繁栄、民主制、個人主義の起源』から、第1章の冒頭部分をお届けいたします!『文化がヒトを進化させた――人類の繁栄と〈文化-遺伝子革命〉』から4年、ジョセフ・ヘンリックの待望の最新作です。
本書の「はじめに」で明かされますが、『文化がヒトを進化させた』はもともとは『WEIRD「現代人」の奇妙な心理』の第一部となる予定のものだったそうです。書き始めるとボリュームが膨らみすぎたために2冊に分けた、ということですが、読みどころ満載の註を含め、前著が527ページ、最新作が769ページですから、分けてもらってよかったぁ、と担当編集者としてしみじみ思います。
前著『文化がヒトを進化させた』は、文化に備わる遺伝的進化を駆動する力に主眼を置いていて、歴史以前にフォーカスした人類史の側面の色濃い本でした。一方、本編にあたる『WEIRD「現代人」の奇妙な心理』は、文化の力によって世界の人々に心理学的差異が生まれることを確認し、中世ヨーロッパの人々に生まれたある特殊な心理が、現代世界を生み出す究極の要因になったことを明らかにするという内容で、歴史の要素が多い本です。西洋から社会制度や民主主義から、現代科学、個人主義など様々な文化をどん欲に取り入れてきた日本人にとっても発見の多い内容で、読めば世界の見え方が変わってしまうこと請けい合いの一冊です。
『文化がヒトを進化させた』を楽しんでいただけた方は本書も楽しめること間違いなしですが、前著を簡潔にまとめた復習の章が用意されていますので、『文化がヒトを進化させた』を読んでいない方、忘れてしまった方も安心して読んでいただけます。
それでは、第1章の冒頭をお楽しみください。
第1章 WEIRDな心理
あなたは誰だろう?
ひょっとしたら、西洋の(Western)、教育水準の高い(Educated)、工業化された(Industrialized)、裕福な(Rich)、民主主義の(Democratic)社会で生まれ育ったWEIRDではないだろうか。だとしたら、心理的にかなり風変わりである可能性が高い。われわれWEIRD人は、現代世界に生きている大勢の人々や、過去に生きていた大多数の人々とは違い、極めて個人主義的で、自己に注目するとともに、自制を重んじ、集団への同調傾向が低く、分析的思考に長たけている。人間関係や社会的役割よりも、自分自身を──つまり自分の本来の性質や、業績、目標を──重視する。周囲の状況にかかわらず「自分自身」であろうとし、他者に矛盾した言動が見られると、それを柔軟性とは捉えずに、偽善と見なす。誰しもそうであるように、仲間や権威者とうまくやっていきたいと思ってはいるが、それが自分自身の信念や意見や好みと食い違う場合には、敢えて他者に合わせようとはしない。自分を唯一無二の存在だと思っており、まさか、空間をまたぎ、過去にまでさかのぼる社会的ネットワークの単なる結節点だとは思っていない。行動する際には、コントロール感〔物事や自分自身をコントロールしているという感覚〕や、自分自身で選択したのだという思いを好む。
推論するとき、WEIRDな人々は、世界を体系化する普遍的カテゴリーやルールを見つけようとし、また、パターンを読み取って傾向を予測するために、回帰直線を思い浮かべる傾向がある。複雑な現象を理解しようとするときには、それを別個の要素に分解した上で、それぞれの構成要素に特性や抽象的カテゴリー(粒子、病原体、パーソナリティなど)を割り当てることによって、複雑な現象を単純化する。それゆえ、部分同士の関連性や、カテゴリーにうまく収まらない現象同士の類似点を見逃してしまうことが少なくない。つまり、個々の樹についてはよく理解できても、しばしば森を見逃してしまうのだ。
WEIRDな人々はまた、極めて忍耐強く、たいてい勤勉である。現在の不快感や不安感の見返りとして得られる満足──金銭的報酬、快楽、安心といった満足──を、強い自己制御力によってずっと将来まで先延ばしすることができる。それどころか、WEIRDな人々は、辛い労働に喜びを見出し、それによって身が浄められたとさえ感じることがある。
矛盾しているようではあるが、WEIRDな人々は個人主義的傾向が強く、自分に目が向いているにもかかわらず、公平なルールや原則を忠実に守る傾向があり、見ず知らずの相手や匿名の他者を心から信頼し、誠実かつ公正に扱って協力することができる。実際、われわれWEIRDな人間は、大多数の人々に比べて、友人、家族、自民族、地元コミュニティを、他集団よりも偏重することが比較的少ない。身内びいきは悪しきことと考えており、背景事情、実際面、人間関係、便宜的措置よりも、抽象的な原則を盲目的に重んじる。
感情面について言えば、WEIRDな人々は、文化によって吹き込まれ、自分で自分に課している基準や理想に従った行動ができないと、罪の意識に苛まれることが多い。ほとんどの非WEIRDな社会では、罪感情ではなく、恥感情が人々の生活を支配している。自分自身や自分の身内、あるいは友人が、共同体から課されている基準に従った行動ができないと、恥ずかしいと感じるのだ。非WEIRDな人々の場合には、たとえば、自分の娘が社会的ネットワーク外の誰かと駆け落ちしたら、世間の批判的な目にさらされて「面目を失った」と感じるだろう。一方、WEIRDな人々は、ジムに行かずに昼寝をしてしまうと、それが義務ではなくても、また誰も見ていなくても、罪悪感に苛まれるかもしれない。罪の意識は、自分の基準や自己評価を拠り所にしているのに対し、恥の意識は、社会の基準や世間の判断を拠り所にしているのだ。
このような違いはほんの一例で、先ほど述べた心理の氷山の一角にすぎない。この氷山の本体には、知覚、記憶、注意、推論、動機、意思決定、道徳判断といったさまざまな側面が含まれている。それはともかく、私が本書で答えを見つけたいのは、次のような問いだ。WEIRDな人々は、どのような過程を経て、これほど特異な心理をもつようになったのか? なぜ、他の人々とこれほど違っているのか?
この謎を追って古代末期までさかのぼると、見えてくるのは、キリスト教の一宗派が、ヨーロッパの一部地域で幾世紀にもわたって、ある特殊な社会規範と信念のパッケージの普及を促したという事実である。そのパッケージは、婚姻や家族の形態や、相続や所有のあり方を劇的に変えてしまうものだった。こうした民衆の生活に起きた変容をきっかけに、人々の心理に一連の変化が生じ、その変化が、新たな形の都市化を促進し、非人格的な商業の発達に拍車をかけた。と同時に、商人ギルド、憲章都市、大学、地域横断的修道会など、個人主義的色彩の強い新たな規範や法律によって統制される、自発的な団体の急増を促したのである。WEIRDな心理が形成されるに至った理由を説明する中で、なぜWEIRDな宗教、婚姻、家族の風変わりな性質にも光を投じるのかが見えてくるだろう。もし、私たちの宗教、婚姻、家族が極めて奇妙であることに気づいていなかったとしたら、気を引き締めてかかろう。
ヨーロッパの一部の集団が、中世後期までに特異な心理をもつに至った経緯と理由を理解することで、もう一つの大きな謎も解き明かされる。それは「西洋の台頭」である。一五〇〇年頃以降、西ヨーロッパ社会が世界の広範囲を征服したのはなぜなのか? 一八世紀後半に、やはりこの地域から、技術革新や産業革命を動力源とする経済成長が始まり、今日もなお世界の市場を席捲しているグローバル化の波を生み出したのはなぜなのか?
もし、西暦一〇〇一年に、異星人の人類学者チームが地球周回軌道から人類を調査したとしたら、その千年紀の後半にヨーロッパの集団が地球を支配するようになるとは決して思わなかっただろう。西暦一二〇〇年でもまだそうだったかもしれない。むしろ、中国かイスラム世界が支配するようになるに違いないと予測しただろう。
高所から地球を観察するこれらの異星人たちが見逃していたのは、中世期にヨーロッパの一部地域で静かに醸成されていた、これまでにない新しい心理だった。このプロトWEIRD心理〔WEIRD心理の原型となる心理〕が、非人格的市場、都市化、立憲政治、民主政治、個人主義的宗教、各種学術団体、飽くなきイノベーションが出現するための基礎を少しずつ築いていった。つまり、このような心理的変化が、現代世界の種子をまくための土壌を準備したのである。したがって、現代社会のルーツを理解するためには、社会を構成する最も基本的な単位である家庭に、ヒトの心理がどのように文化的に適応し、これと共進化していくかを詳しく探る必要がある。
まず、氷山をさらに詳しく吟味することから始めよう。
本当のところ、あなたは誰なのか?
次の文を一〇通りに完成させてみてほしい。
もしあなたがWEIRDであれば、「好奇心旺盛」「情熱的」、あるいは「科学者」「外科医」「カヤック選手」といった言葉を入れたことだろう。「ジョシュの父親」「マヤの母親」のような言葉を入れようとは思わなかったのではないだろうか。それも真実であって、それが自分の生活の中心だったとしても、である。このように、親族関係や、先祖から受け継いだ社会的役割、自分の属する共同体よりも、個人の属性や業績、そして抽象的・理念的な社会集団の一員であることを重視するのが、WEIRD心理の確固たる特徴だ。そして、これこそがまさに、グローバルな視点から見た場合に私たちがかなり奇妙に見える原因なのである。
図1・1〔図は本書でご確認ください〕に、アフリカや南太平洋地域の人々が、「私は誰か?」「私は( )だ」という問いにどのように答えたかが示してある(前者は図1・1A、後者は図1・1B)。図1・1Aでは、得られたデータから、個人の属性、目標、業績に言及する個人主義的な回答の割合と、社会的役割や親族関係に言及する回答の割合を算出してある。分布の一方の端に位置するアメリカ人大学生は、もっぱら個人の属性、目標、業績に焦点を当てている。
分布の反対側の端に位置するのが、ケニアの先住民のマーサイ族とサンブル族である。ケニアの田舎では、これら二つの部族集団が父系氏族制〔第3章で詳述〕のもとで伝統的な遊牧生活を営んでいる。彼らの回答の少なくとも八〇%は、自分の役割や親族関係に関することであり、個人の属性や業績を取り上げた回答は稀だった(一〇%以下にとどまった)。
この分布の真ん中に、活気溢れるケニアの首都、ナイロビの二つの集団が位置する。さまざまな部族集団の出身者からなるナイロビの労働者の集団では、自分の役割や親族関係に関する回答が高い割合を占めたが、それでもマーサイ族やサンブル族に比べるとその割合は低かった。一方、すっかり都会風になっているナイロビ大学(ヨーロッパスタイルの大学)の学生は、アメリカの大学生とよく似ており、その回答のほとんどが個人の属性や業績に関することだった。
図1・1Bを見ると、地球の反対側でもやはり同じような状況であることがわかる。ニュージーランドとクック諸島の間には、政治的・社会的に緊密なつながりがあるので、WEIRDなニュージーランド人との接触度合いがそれぞれ異なる、クック諸島民の集団同士を比較することができる。ケニアの場合とは違って、ここで得られたデータでは、社会的役割や親族関係に関する回答と、その他の回答とを分けることしかできなかった。
まず、今もなお伝統的な世襲制の生活を営んでいる、離島の一つの農村では、社会的関係に関する回答の平均割合が六〇%近くに及んだ。首都がある島で、人気の観光地でもあるラロトンガ島になると、社会的関係に関する回答の割合は二七%にまで落ちる。ニュージーランドにやってきた移民第二世代の間では、そのような回答の割合はさらに二〇%にまで落ちる。これは、ヨーロッパ系ニュージーランド人の平均値である一七%に近い。ニュージーランド人の高校生はもっと低くて、一二%だ。それに対して、アメリカの大学生は、これと同程度か、それを下回るのが普通で、社会的関係にかかわる回答が皆無だった大学生もいる。
この研究を補完してくれる、多数の類似する心理学的研究を用いて、アメリカ人、カナダ人、イギリス人、オーストラリア人、スウェーデン人と、日本人、マレーシア人、中国人、韓国人など、さまざまなアジア人とを比較することができる。結論として言えるのは、WEIRDな人々は概して、分布の端のほうに位置しており、自分の役割、責任、親族関係よりも、個人としての属性、業績、目標、性格に強い関心を向けるということだ。アメリカの大学生は、他のWEIRDな集団と比べても特に、自分に強い関心を向けているようだ 。
自分の役割や親族関係よりも、個人的な属性や業績に関心を向けることこそが、ある心理特性パッケージの主要素なのだが、この諸々の心理特性をひとまとめにして、個人主義観念複合体、または単に個人主義と呼ぶことにする。個人主義とは、知覚、注意、判断、感情を修正することによって、WEIRDな社会的世界をうまく渡っていかれるようにする、一群の心理特性と考えるのが一番よい。どんな集団も、その社会の制度、技術、環境、言語に「ぴったり合う」心理特性パッケージを示して当然だが、これから見ていくように、WEIRDパッケージはとりわけ奇妙である。
個人主義コンプレックスの地図
個人主義とは何かを理解するために、分布のもう一方の端から考えてみよう。人類史を通してほぼずっと、人々は、遠縁の親族や姻族をもつなぐ、緊密な一族のネットワークの中で育ってきた。このような親族関係に統制された世界においては、人々の生存も、アイデンティティも、安全も、結婚も、成功も、親族ベースのネットワークの安定と繁栄にかかっており、それらはたいてい、氏族〔共通祖先をもつ血縁集団。氏族については第3章で詳述〕、リネージ〔成員が互いの系譜関係や祖先との系譜関係を把握している血縁集団〕、家、部族といった別個の単位を形成していた。これが、マーサイ族、サンブル族、クック諸島民の世界である。
このような永続的なネットワーク内では、一人一人が、密に張り巡らされた社会の網の目の中で、他者との関係において、実にさまざまな義務、責任、特権を先祖代々受け継いで与えられている。たとえば、男性には、またいとこ(父方の曾祖父の子孫)が殺害されたら仇討ちをする”義務”があり、母親の兄弟の娘と結婚する”特権”が与えられているが、よそ者と結婚するのはタブーであり、また、祖先を崇める豪勢な儀式を執り行なう“責任“を負っており、それを怠れば自分の血筋全体に災厄が降りかかる。行動は、状況により、また関与する人間関係のタイプにより、ひどく制約されている。
このような親族関係の秩序を維持する社会規範の集合体を、私は親族ベース制度と呼んでいるが、こうした諸々の規範があるゆえに、人々は広い範囲から友人やビジネスパートナーや配偶者を探すことができない。人々はむしろ、外部世界とは一線を画する世襲的な内集団に投資するようになる。多くの親族ベース制度は、相続慣行や新婚夫婦の居住地に影響を及ぼすだけでない。財産を共同で所有する(たとえば土地を氏族で共有する)こともあれば、犯罪行為が成員の連帯責任とされる(たとえば息子が犯した罪のために父親が投獄される)こともある。
このような社会的な相互依存によって、情緒的な相互依存が引き起こされ、その結果として、内集団との強い一体感が生まれ、社会的つながりに基づいて内集団と外集団をはっきり区別するようになる。実際には、はるか遠縁のイトコや部族メンバーの中には、面識のない人々もいるかもしれないが、それでもこの世界では、一族の絆を通して自分とつながっている限り、内集団成員であることに変わりはない。その一方で、顔見知りであっても、緊密で永続性のある社会的つながりがなければ、結局は、よそ者でしかない。
この世界で成功を摑み、人々の尊敬を勝ち得るかどうかは、こうした親族ベース制度の世界を巧みに渡っていかれるかどうかで決まる。となると当然、次のようになる。①内集団の仲間に合わせる、②年長者や賢人などの権威に従う、③(よそ者よりもむしろ)自分に近しい人々の行動を監視する、④内集団をそれ以外からはっきりと区別する、⑤機会があれば必ず、身内ネットワーク全体としての成功を後押しする。また、しきたりによって非常に多くの義務、責任、制約を課せられているので、人々の動機が、新たな人間関係を求め、よそ者と知り合いになろうとする「接近志向」型ではなくなってくる。人々はむしろ「回避志向」型になり、規範から逸脱していると思われたり、全体の調和を乱したり、自分や他者の体面を損なったりする可能性を最小にとどめようとする。
これが一方の極である。では、それとは正反対の極にある個人主義について考えてみよう。代々受け継がれてきた絆がほとんどなく、成功を摑んで尊敬を勝ち得るには、次のような方法に頼るしかない世界を渡っていくのに必要とされる心理を想像してほしい。①自分独自の特殊な属性を磨く、②独自の属性をもつ友人、仲間、ビジネスパートナーを惹きつける、③相互に利益をもたらす限り、その人間関係を維持する。この世界では、誰もがよりよい人間関係を探して回るが、その関係が続くこともあれば、続かないこともある。人々を結びつける永続的な絆はほとんどないかわりに、一時的な関係の友人、同僚、知人を多数持っている。
この世界に心理的に適応していくうちに、人々は、自分のことも他者のことも、独特または特殊な一連の才能(たとえば文才)、興味(キルティング)、目標(弁護士になる)、美徳(公正)、方針(「何人も法に従う」)によって輪郭が定まる、独立した主体と見るようになる。同じような人々の集団に加わると、その特徴がますます顕著になったり、強調されたりすることもある。他人の評判や自己評価を決めるのは、もっぱら自分自身の個人的な属性や業績であって、親族関係に則った複雑な社会規範に支配される先祖譲りの永続的なネットワークを大切にしたからといって、評判や評価が高まるわけではない。
グローバルな心理的多様性を垣間見るために、まずは、個人主義コンプレックスを一次元に平坦化してみよう。図1・2〔図は本書でご確認ください〕に、よく知られた多項目評定尺度に基づいて調査した、個人主義の世界地図を示してある。この多項目評定尺度はもともと、オランダの心理学者、ヘールト・ホフステードが、世界各国のIBM社員を対象に行なった調査に基づいて開発したものだ。質問を通して、自分自身、自分の家族、個人の業績、個人の目標への関心の度合いが測定される。たとえば、「自分のスキルや能力を十分に活かして仕事することは、あなたにとってどれくらい重要ですか?」という質問もあれば、「やりがいのある仕事──個人的な達成感が得られる仕事──に就くことは、あなたにとってどれくらい重要ですか?」という質問もある。個人主義的傾向の強い人ほど、自分のスキルを十分に活かしたいと望んでおり、そのような仕事から大きな達成感を得る。この尺度の強みは、心理の一断面に照準を合わせるのではなく、むしろ個人主義パッケージに含まれるいくつかの要素をまとめて測定できる点にある。
この尺度で最も高いスコアを得たのは、予想に違わず、アメリカ人(九一点)、オーストラリア人(九〇点)、そしてイギリス人(八九点)──明らかに世界で最もWEIRDな人々──である。その次にくる、世界でもとりわけ個人主義的傾向が強いのはほぼすべて、ヨーロッパの国々(特に北欧や西欧)か、カナダ(八〇点)やニュージーランド(七九点)のようなイギリスからの移民の社会である。注目すべき点として、図1・2は私たちの無知を露呈している。心理学的に言えば、アフリカや中央アジア一帯は、ほとんど未知なる大地のままなのだ 。 この個人主義の多項目評定尺度は、他の大規模な世界的調査から得られた証拠とも驚くほど一致する。たとえば、個人主義的傾向の強い国の人々ほど、一族の絆が弱く、身内びいきをしない。つまり、会社社長や経営者や政治家が、親類縁者を採用したり、昇進させたりということが少ないのだ。さらに、個人主義的傾向の強い国ほど、内集団と外集団をあまり区別せず、移民の支援をいとわず、伝統やしきたりにも固執しない。
個人主義的傾向が強い国ほど、裕福で、イノベーションが生まれやすく、経済的な生産活動も盛んだ。より効果的な統治機構を備えており、道路、学校、電気、水道のような、公共サービスやインフラを整備する能力に長けている。
さて、心理面の個人主義的傾向と、国富の量や統治機構の有効性との間に見られる強い正の相関関係は、経済的繁栄やリベラルな政治制度が個人主義的傾向を強めるという、一方向の因果プロセスを反映していると一般には考えられている。確かに、人々の心理のいくつかの側面については、実際、この方向に因果関係が働いており、今日、世界の多くの地域の経済発展や都市化の過程で生じていることの大半は、おそらくこの方向のプロセスなのだろう。たとえば、すでに見てきたように、都市部に移住したことが、クック諸島民やナイロビの労働者の自己概念に影響を及ぼした可能性が高い(図1・1)。
しかし、因果関係が逆の方向”にも”働いている可能性はないのだろうか? もし、まだ経済も成長しておらず、効果的な統治機構もないときに、何か別の要因によって、個人主義的傾向の強い心理が生まれたとしたら、こうした心理的変化が刺激となって、都市化が進み、商業市場が拡大して、経済が繁栄し、イノベーションが起こって、新たな統治形態が誕生する、という可能性はないだろうか? 私の答えは、一も二もなくイエスだ。
どうしてこうしたことが起こり得るのかを理解するために、まず、歴史の過程で個人主義コンプレックスとより合わさった、もっと大きな心理特性パッケージについて検討しよう。その主要な構成要素がわかれば、それらの変化がどうして、人類の経済、宗教、政治の歴史にこれほど大きな効果を及ぼし得たのかがもっと明らかになるはずだ。
目次(上巻)
著訳者紹介
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