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スキーロッジ、2泊3日、労働、21歳

みなさんスキーロッジで働いたことありますか?
わたしはあります。
たった3日でしたが、あります。

「俺の高校時代の友人が妙高高原でスキーロッジをはじめたから、ハヤカワくん、今度の連休にでも冷やかしにいかないか?」

会社の先輩デザイナーからの誘い文句に一も二もなく飛びついたぼく。先輩と先輩の彼女、そしてもうひとりコピーライターの同僚の4人で2泊3日、タダで泊まらせてくれるとのこと。

そんなうまい話、必ず裏が…といまなら普通に疑うわけですが当時はおめでたいほど世間知らず。そのスキーロッジがどれぐらいの規模でどんな営業形態なのかわかりませんが、どう考えてもハイシーズンの連休をなんとか乗り切るための人足確保目的で呼ばれたわけです。

真夜中な東京から5時間ほどかけて着いた雪国で最初に待っていたのはゲレンデが溶けるほどの恋でもなんでもなくて、大量の食材と物資、燃料、そしてスノーモビル。

この駐車場から30分かかるロッジまで運べ、ただし何往復になるかはわからん、という仕事の説明を受けることからはじまりました。

まっくろに雪焼けした先輩の友人は言葉少なに作業手順、スノーモビルの操作方法を教えるとさっさと自分のスノーモビルに乗り、後部座席に先輩の彼女を載せてエンジンをかけます。

そして当の先輩はいつの間にかスキー板を履いて、友人のスノーモビルにつないだ牽引ロープを使って水上スキーの要領でサクッとロッジに向かおうとしているじゃありませんか。

「じゃね~!先行ってるよ~」

ポツン、と取り残されたぼくと同僚。
先が思いやられるとはこのことでした。

その名は「ウッドペッカー」

結局同僚と交替で3往復して荷物をロッジまで運ぶと、先輩の友人が「ごくろうさん」とポツリ。とりあえず休憩してよさそうな雰囲気だったのでビールでも、と思いましたが、食堂で出されたのは番茶でした。

車内で聞いた話では、先輩の友人はアキヒトさんと言って実家は横浜で写真店を経営しているとのこと。本当はアキヒトさんが高校卒業後に店を継ぐ予定だったのが、何を思い立ったか料理人になる、と渡欧。一年前に帰国して、どこで話をまとめたのか妙高のペンションを居抜きで手に入れ、今シーズンから経営をはじめたんだそうです。

最初は懐疑的というか反対だった両親も一人息子のアキヒトさんを応援すべく土日や連休の度にお店を閉めてわざわざ手伝いに来るように。

そんな話を聞いてぼくは「思い切りのいい人だなあ」「やりたいことを迷わずできるなんてすごいなあ」とわけもなく感心していたのです。

番茶を飲んでタバコを吸っているとアキヒトさんがヌッとあらわれて「じゃ次は雪かきね」とスコップを渡してくれました。やれやれ、本当に人足扱いじゃねえか。

結局その日は雪かきと、それが終わったら薪割りをひたすら続けて夜になりました。風呂に入ろうとしたとき、スキー滑ってないのに腰がバキバキになっていたのがなんだかおかしかったです。

そのスキーロッジの名前は「ウッドペッカー」。妙高杉ノ原スキー場のゲレンデ中ほどにぽつんと一軒、佇んでいました。

斧の次は包丁

いくら人足だからといって寝床は確保されているだろう、と思っていたら、まあ確保はされているんですがこれが見事な屋根裏部屋。小さな豆電球がひとつ。暖房器具はありません。

ここまでくると逆にレアな体験ができているような気がして、ぼくと同僚は特に不満を覚える間もなく一瞬で深い眠りにつきます。

恐ろしいことに秒で朝がやってきました。

顔を洗っていると同僚が「アキヒトさんが厨房に来るように、だって」とさっそく本日の朝課のお知らせを伝えてくれます。なんだよ厨房で勤行でもあげるのかよ。

厨房では宿泊客への朝食サービスの準備でアキヒトさんとご両親、そしてすでに先輩と先輩の彼女も忙しそうに動き回っています。ぼくはこれはいかんと思い、あわてて挨拶してから何を手伝ったらいいか確認します。

すると先輩が「じゃあハヤカワくんはこのハムを切っておいて」とボンレスハムの太いヤツを渡してくれます。当時のぼくは料理なんかからっきし。包丁もろくに触ったことがありません。

ふと見ると同僚は山のような洗い物と格闘しています。さすがにお湯ですがそれはそれでなかなか大変そう。

まいったな、斧の次は包丁かよ。

でもそんなことも言ってられません。なんとなくイメージだけでハムに包丁を入れていきます。自分ではまっすぐ、うすくスライスしているつもりでも、どうしてもばらつきがでてしまう。でもやるしかありません。

母親に正論で詰められる

ぶきっちょにハムと格闘していたら、いつの間にか後ろにアキヒトさんのお母さんが立っていました。そしてぼくの手をグッと掴むじゃありませんか。ぼくはびっくりして「ひっ!」と叫びます。

「ちょっと!あなたなにやってるの!」

ハムを切っています…

「やめなさい!なんてことをするの!」

いや、ですからハムを

「なんで…こんな分厚く…やめて頂戴ッ!」

え?

「こんな厚く…アキヒトが見たらなんて思うか。これじゃアキヒト泣くわよ。あなた、アキヒトがどんな苦労してこのハムや食材を仕入れているかわかってるの!?」

いや…

「どんな思いでこのハムを…もういいからあなたはでていきなさい!二度と厨房に入ってこないで!」

アキヒトさんのお母さんは肩を震わせながらぼくを叱りつけました。半泣きで。

ぼくは、そんなに悪いことをしてしまったのかなと思いつつ、でもお母さんがあんなに怒るということは、やはり悪いことをしてしまったんだなと理由もなく悲しくなりました。

きっと食材を仕入れるお金の工面が大変だ。にも関わらず食材を台無しにするとは貴様…ということが言いたかったんだと判断しました。

アキヒトさんがちょうどトイレに行っていて、その現場にいなかったことがせめてものなぐさめ?

居場所を失ったぼくは、仕方なく雪かきのスコップをもって屋根に上がるしかありませんでした。

置かれた場所で咲きなさい

半ば腐ってタバコばかり吸って午前中をつぶしていたぼく。帰りたいな、と思いましたが当時のぼくに裸一貫で妙高から東京まで戻る才覚はありません。遭難するのがオチです。

のどが渇いたので番茶でも、と思い、できるだけ厨房から見えないようこっそり食堂に行こうとするとランチ前なのに結構なお客さんの入りです。それもそのはず今日は三連休の中日。そういえばゲレンデも芋洗い状態でした。

ほぼ満卓のテーブルをみると、ほとんどどこにも料理がありません。にも関わらずデシャップにはカレーやスパゲティが溜まっていました。

ぼくはそばにあったエプロンを着けて、それぞれの卓の番号と伝票を見直しながらひとつずつ料理を出していきました。もちろん「おまたせして申しわけございません」と丁寧にお詫びしながら。

そのときホールは先輩の彼女ひとりで、あまりにもいっぺんにオーダーを通してしまったことで厨房がパニックになり、彼女にキッチンに回れという指示が出ていたそうです。つまり誰もサービス係がいなかったんですね。彼女は泣きながらライスを盛り付けていました。

幸い料理と違って接客はお手のもの。実家が手芸店で子どもの頃から店頭に出ていたので客あしらいは得意です。しかも当時は映画『ギャルソン』に感化され、コピーライターでダメだったらブラッセリーやビストロで働こうと思っていたほど。

ぼくはイブ・モンタン演じる主人公アレックスになった気分でキビキビとホールを動き回ります。目くばり、気くばり、心くばりも忘れません。

さらに厨房にテーブルの状況をマメに共有することでキッチンで動くメンバーのストレスも解消。オーダーから着手までのタイムラグもほぼなくなり30分ほどで鎮火しました。

すっかり自信を取り戻したぼくはそのまま怒涛のランチタイムをひとりで捌き、それまで手が回っていなかったディナーやバータイムの予約もその場で取ることで売上に大きく貢献したのでした。

さようなら、ウッドペッカー

結局2泊3日でスキーを滑ったのはその日の夜、ディナータイムも満卓で終えることができて、アキヒトさんから「本当にありがとう」とキリン一番搾りをごちそうになった後のナイター1本だけ。

でもその夜に星降るゲレンデで先輩たちと飲んだ一番搾り(当時はバンシボと呼んでいた)は格別の味わいでした。

翌日、ランチまでお手伝いして夕方にふもとの駐車場までスノーモビルで送ってもらい、いよいよアキヒトさんとお別れというとき。

「みんな、本当にありがとう。助かりました。あとハヤカワくん、うちの母親がごめんって」

悪いのはぼくのほうなので、逆にごめんなさいです、と言いかけたところでアキヒトさんからみんなに封筒が渡されます。中には1万円。これはうちの親から、といいながら。

21歳、スキーロッジ、2泊3日の労働でした。労働の対価は1万円。でも得たものは金額に換算できないほどです。その頃だったか、もう少し後だったか。このコマーシャルが流行ったのは。

(調べたらだいぶ後のことでした・笑)

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