老人願望。
30歳の頃から、いずれ自分はホームレスになるだろう、という強迫観念に駆られている。理由はわからない。当時、勤めていた西新宿の超高層オフィスを下から眺めたとき不意にその想像が訪れ、以来ずっと頭の隅に棲み続けている。
ちょうどその頃、ナポレオン・ヒルの『思考は現実化する』という本を手にした。読みながら、自分はホームレスになる、という思考が現実のものとなってしまわないか本気で心配した。
いまでもちょっと心配である。
ある日、ずいぶん前に書いたnoteに、知らない方が「スキ」してくれました。
もう2年も前のエントリーなのにこういうこともあるんだなあ、と不思議に思い、コメントもせずエックスに投稿。
すると立て続けに25人もの方が「スキ」を押してくださって、なんと100スキの大台まであとわずかというところまできました。
ううむ、やっぱり面白いことが起きるなあインターネッツは、などと思いながらあらためて記事を読み返すと鈴木紗理奈や漫画『SS』を引用するなど芸の細かさはあるものの、全体を通して何いってんだか、という内容でした。
「スキ」を押してくれたみなさん、ごめんなさい。そしてありがとうございます。力不足を恥じるとともに一層の精進に励みます。
さて、この記事の最後に、こんな事が書いてありました。
思いついたので、書くことにします。
老害にならないために、と考えてあれこれ施策を考えたのが2年前。50代前半だったぼくはあっけなく50代後半に突入した。
人生100年時代とかなんとか言われているが、まあ普通に考えて残りの時間はせいぜい30年あればいいほうだろ。
その30年のうち、現場で現役として仕事ができるのは長く見積もって10年ぐらい。自分としてはいつまでもいまの仕事を続けていたいのだがおそらく需要が極端に減っていくはずだ。
あの嵐山光三郎先生や椎名誠先生ですら、こうである。名もなく貧しく腕もないぼくなど赤子の手をひねるぐらい簡単に商業文章業界から抹殺されるだろう。
なんとかがんばってしがみついていくとしても65歳まで。どう考えても世間の企業が70歳のじじいに採用広報のコンテンツを書いてほしいと思うわけがない。もし発注があればギネスブックに載るだろう。いや待てよ65歳もあやういぞ。せいぜいあと5年?やばいやばい。いまのうちに年齢に関わらず需要がある分野を開拓しておかないと。
と、いうことでちょっと考えてみた。
60過ぎてもニーズが尽きない商業文章ってなんだろうか。やはり作家でもなければ文章で生計を立てることは難しいのか。
とりあえずChatGPTに聞いてみよう。
「60歳を過ぎても需要がある商業文章はあるのだろうか。あるとしたらどのような分野か。具体的に教えてください。」
質問が質問だけに最後はいつもの居丈高な感じではなく、丁寧な言葉づかいです。
おお、これだけあればなんとなくなんとかなるような気がしてきた。すっごくカンタンに言われているような気もしないでもないが、もしかするとなんとかなるんじゃないか?
ありがとうChatGPT。ChatGPTは嘘が多いとか間違いを犯すとかいろいろ言われているしおれもそう言いまくってきたけど、なんかここんとこ精度あがってんじゃないのと思いたいわ。
こうなったらしめたものだ。いたずらにビビることなく大きく構えて生きていこう。
(それで食える、とは書いていないのだが、今日のところは安心してオフトンに入らせてください。あとのことは本人の努力次第ということで)
仕事の目処が立ったところで、もうひとつ。どんな老人になるか、という問題がある。
これは明らかに目指す姿がありまして、かねてから「無」でありたい、と思っているのですね。
「無」とは「我」がない状態。どんな状況、どんな環境におかれても変幻自在に形を変えていける存在。たとえていえば水のような。あるいはバビル二世のロデムのような。
「無」であれば何も恐れることはない。焦ることも慌てることもない。不用意に力む必要もない。そういう存在になりたいと思っているんです。
それこそ、仕事がなくなる!あわわあわわ、みたいなみっともない姿を晒すこともないような「無」の境地こそ、ぼくが考えるかっこいい老人なんですよね。
だけど、まだまだ、ぜんぜん「我」が消えないんだよなあ。
修行が足りない。
精進が足りないのである。
がんばります。
あ、また肩にチカラが入っちゃった。
がんばらないようがんばります。
あ、また。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?