ニューバランスにおける履き心地格差について
商売人の子として生まれたこともあり、昔から「靴だけはきれいなものを履け」と厳しく躾けられてきました。
いまでも覚えているのが小学校の入学式で履かされた、ピカピカの革靴。ふだんは鼻水を垂らした薄汚い小僧だったので、その靴を履いて出かけると行く先々で「お、官房長官のお出ましか」と冷やかされました。
その後もズックが汚れていると新しいものを買い与えてくれたり、靴底がすり減ったのを見咎めては買い替えるようお金をくれたり、靴に対する執着心が強い親のおかげで足元だけはピカピカの少年時代を過ごせました。
その反動か、東京でひとり暮らしをはじめてからは全く靴にお金をかけなくなってしまいました。
今回はそんなわたしがいかにしてニューバランスと出会ったか。そしてその中でも『996』と『574』の履き心地格差が大きすぎる問題に直面したことについてお話したいと思います。そんな話は聞きたくないわ、というあなたはここでさようならです。またお会いしましょう。
東京に来てから数年、わたしの下駄箱には3足の靴とサンダルしか入っていなかった。
親父の靴箱からかすめてきたスエードのハッシュパピー。弟からかっぱらったナイキのコートビジョン。そしてリーガルのコインローファー。
アルバイトの面接も、就職活動も、入社式も、取材もすべてこの3足で賄ってきた。これだけあれば充分だった。これ以外何も必要としなかった。
しかし1992年の10月19日。その日はわたしの24回目の誕生日であり、偶然にも同時に『When You Gonna Learn』でJamiroquaiがデビューした日でもあった。
Jamiroquaiのフロントマン、ジェイ・ケイを雑誌で目にしたその瞬間、わたしは3足の靴を燃えるゴミとして捨てた。燃えるゴミでよかったのかどうかはいまだにわからない。しかしそれ以来「靴はアディダス一択」という人生を歩みはじめることだけは確かである。
ジェイ・ケイがおかしなサイズ感の帽子を被り、インディアン柄のポンチョを身にまといなら踊る。その足元を飾るのがアディダスだったのだ。
なんてカッコいいんだ、ジェイ・ケイ。そしてなんてクールなんだ、アディダス。しかも当時月給11万円しか貰えていなかった最底辺コピーライターのわたしでも彼女に借金をお願いすれば買える金額である。
わたしは「スーパースター」を皮切りに「キャンパス」「ガゼル」「スタンスミス」と何足も何足もアディダスを履き続けた。コピーライターという職を捨てた夜も、居酒屋の店長に昇格した朝も、東京生命のOLだったキヨミちゃんにこっぴどく振られた昼も、アディダスを履いていた。
時が流れ、2018年。
もうすぐ50歳になろうというわたしの足元は相変わらずアディダスだった。わたしは渋谷の小さな、若いベンチャー企業でWebメディアの編集長をやっていた。
ある日、マーケターのオオノさんとライターのチー坊がこんな話をしていた。
やっぱスニーカーって履き心地だよね。ニューバランスなんかさ、一回996履いたらもうそれ以下のモデルなんて履けないもん。アディダスとかも足が痛くなるからダメだよね。
おい、ちょっと待て、いまなんつった?
わたしは二人の会話に割って入った。
「アディダスって足が痛くなるの?」
「はい、痛くなる子がいっぱいいます」
「チー坊も?」
「わたしも痛くてダメです」
「そうなんだ…」
「ハヤカワさん大丈夫なんですか?」
いわれてみると思い当たる節がないではなかった。モデルによっては足の両端が圧迫されたり、長時間履いていると痺れてくることもあった。
「ニューバランスって痛くならないの?」
そんな子供のようなわたしの問いに、チー坊もオオノさんもニヤニヤしながらそりゃぜんぜん違いますよ、という。
わたしは(そんなもんか…)と(まさかな…)の間を行ったり来たりしていた。
確かニューバランスを意識したのは10年ぐらい前から。教授こと坂本龍一さんがコマーシャルに出ていたことで認知するようになった。教授の足元はグレーのニューバランスだった。
それを見たときの感想は、似合ってるのかな?だったが、渋谷ではニューバランスをよく見かけることもあってか、実はあれカッコよかったのか、と思い直すようにもなっていた。
そしてそのときジェイ・ケイは49歳であり、もうあまりアディダスを履いてステージに立つことはなかった。というよりステージそのものがほとんどなくなっていた。
わたしもステージを降りる日が近いのかな、と思った。
わたしは手始めに渋谷センター街のスニーカーショップでいちばん安いニューバランスを手に入れた。青ベースに黄色の『N』のロゴ。カラーリングが気に入ったがそれ以上に値段に惹かれた。タンには「574」の数字が。
さっそく家に持ち帰り、防水防汚スプレーをかけて一晩寝かせた。そして翌朝、足を入れて一歩踏み出してみると。
(な、なんだこりゃ…)
もちろんショップでサイズは合わせたのだが実際に歩くのははじめてだった。わたしはその軽さ、滑らかさに舌を巻いた。明らかにアディダスとは違う履きやすさ、そして歩きやすさ。自然と足が前に向かっていくのだ。もちろん足が痛い、なんてことは一切ない。
(なんじゃこりゃー!!!)
遅ればせながら、というには遅すぎるほどのニューバランスデビューであった。あわてて色違いで3足揃えた。そこからニューバランス一択の生活がはじまったのだった。
アディダス、アディオス!
そして2023年の冬。すっかりニューバランスしか履かない人生を歩んでいたのだが、ある日突然、本当に唐突にあることを思い出した。
そう、前述のオオノさんとチー坊の会話である。
(ニューバランスなんかさ、一回996履いたらもうそれ以下のモデルなんて履けないもん)
ちょっと待てよ、俺って574しか履いたことないよな。これより上のモデルを履いたら、もう574が履けなくなるのか?そんなに履き心地がいいのか?ええのか?ええのんか?
人間の欲望に際限はない。エスカレートしはじめたら止まらない。
幸い、コロナ禍のおかげで飲みの場が激減し、小銭に不自由しなくなった。以前より若干だが懐は温かい。
買うか。買ってみるか。
調べると996というモデルが上位にある。さっそく996に照準をあわせてスニーカーショップを訪れた。するとお目当てのネイビーはサイズがない。だか2日待てば自宅に届けてくれるという。
仕方なくブラックでサイズを試す。
これは…間違いない。足を入れただけで感触が違う。違いすぎるのである。574はアディダスよりも履きやすいが、996に比べると雑だ。
996の履き心地はなんと表現したらいいのか、まずフィット感が違う。足全体を優しく包んでくれる。そして一歩ふみだすと自然にもう一歩が出てくる。靴底になにか仕込まれているかのような、ウエハースのような踏み心地。気持ちいい。
わたしは速攻で996のネイビーを注文した。値段はさすがにちょっと高め。しかし履けばわかる。ぜんぜん高くない。お値段以上とはニトリの専売特許かと思っていたがそんなことはない。996こそお値段以上の価値があるのだ。
いま、わが家の靴箱には4足の574と1足の996がある。いうまでもないが996はとっておきの日に履く。とっておき、といってもまあ、金曜日とか、夜にちょっといい感じの飲み屋に行く日とかぐらいだが。
果たしてニューバランスはどう考えているのだろうか。この同一ブランド内での履き心地格差を。確かに574はお手頃だ。よくショップの店頭でお値打ち価格で売られている。手は出しやすい。
しかしだ、一度996を履くともうダメだ。戻れない。996には中毒性の履きやすさがある。靴を買う時の一つの基準が15,000円以上になってしまうほどの魔力を持っている。
もし最初に996を手に入れていたら…いまごろ下駄箱の中はすべて996だったろう。この先わたしは996以外のニューバランスを買うことはないと断言できる。
そう考えると遠回りしたね、損したね、と言われるかもしれない。しかし、わたしはそうは思わない。先に574を履きたおしたからこそ、996のすばらしさを身をもって味わえているからだ。
つまり、ニューバランスにおける履き心地格差は息の長いファンづくり、そしてLTVの最大化を狙っているということがいえるだろう。
ブランディングというとついアドバタイジングやロゴ、タグラインを想起する人は少なくないだろうが、実は商品開発こそがイメージの発射台を担っているのだ。
すみません、最後なんか偉そうな、壮大な話になってしまいましたが、何がいいたいかというと、ニューバランス996ってちょっと高いけど履きやすくて最高だよ、ってことでした。
え?そんなのみんな知ってる?常識だって?
(チッ、っせーな)反省してまーす。
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