『コインロッカー・ベイビーズ』の和代に思いを寄せてしまうのはなぜだろうか

まずはこちらの動画をご覧ください。

ご覧いただけましたか?

笑いあり、笑いありの2時間11分。こちらは今年の2月に開催された、ひろのぶと株式会社の株主優待イベントの模様を収めたものです。

ひろのぶと株式会社についてはいまさら説明不要とも思いますが、世界初(たぶん)の累進印税制度を導入した出版社。「本を書いて、生活できる社会へ。」をスローガンに読み手と書き手のフェアな関係づくりに日々邁進する会社です。

だいたいのところはわかっていただけたと思いますので、再度、今度は27分50秒あたりからご覧ください。

当イベントはひろのぶと株式会社から作家デビューを果たした稲田万里さんと田所敦嗣さんをお招きして、株主からなんでも質問をしちゃおうという同社ならではの企画がメインディッシュ。

そこにわたしが投下したクエスチョンが取り上げられているの図、がこちらです。わたしはおふたりに「好きな作家と作品を教えてください」という非常にピュアな質問を投げかけました。

おふたりの回答はなるほど、そうかそうだろうなあと納得のいくものでしたが、それに先立ちひろのぶさんからわたしに逆質問がなされます。

わたしは一瞬の逡巡ののち、村上龍の『テニスボーイの憂鬱』という作品を口にします。たぶん誰も知らないだろうな、と思っての回答でした。するとすかさずひろのぶさん、作中に登場するメルセデス・ベンツ450SLCについて語りだすではありませんか。

すごい。『憂鬱』を読んでいるだけでもすごいのに、細部までよく覚えていらっしゃる。浪速の博覧強記とはまさにこのことです。おみそれしました。この一瞬でひろのぶさんの信用度は貨幣レベルを超え、もはや天井知らずに。

と、いうことで今回はこの流れで『テニスボーイの憂鬱』の話になるか、とおもいきや、これまたわたしの座右の書として50回以上読んでいる同じく村上龍の作品『コインロッカー・ベイビーズ』について語ります。

コインロッカー・ベイビーズとは

すごい端折って説明すると、コインロッカーに捨てられた赤子(ハシ・キク)が成長し、家出したハシを追って上京したキクにモデル(アネモネ)も加わって神経兵器「ダチュラ」を東京に撒き散らして復讐を果たす、という話。1980年の作品です。詳しくはこちら。

この作品の続編が『愛と幻想のファシズム』で『コインロッカー…』の登場人物である「ハシ・キク・アネモネ」がそのまま「ゼロ・トウジ・フルーツ」に投影されている、とかいないとか。先輩談ですけど。

この2作品にデビュー作の『限りなく透明に近いブルー』を加えて、村上龍の初期三部作とする説もある、とかないとか。先輩談ですが。

なにはともあれ『コインロッカー・ベイビーズ』では主役のハシ(精神的肉体的弱者)とキク(暴力の象徴)とアネモネ(ヒロイン)について語られることが多いです。主役ですから当然。

しかしわたしはここで、声を大にしていいたい。

ハシとキクの養母、和代について誰も声をあげないが果たしてそれでいいのか?

和代の存在に思いを寄せることなくして、コインロッカー・ベイビーズを読んだ気になっていいのだろうかと問題提起したいのであります。

和代とは

ハシとキクの里親。乳児院に双子の兄弟がほしいという申し入れをした西九州の離島に住む中年女性である。夫は桑山修一という背の低い男。ちなみに和代は桑山修一より6歳年上で、登場時既に40歳を少し超えていた。

和代は不器用ながらもハシとキクを実子のごとく大切に育てる。はじめて会った日の夜は機関車の絵の入ったパジャマを与える。翌日には新しい半ズボンとシャツと運動靴を与える。シャツにはヨットのプリントがされている。ハシとキクが島の生活に慣れるころ、和代はリボンの結んである箱をふたりの前に置いた。ランドセルである。

なんでもかんでも買い与えることが正しい子育て、というつもりはありません。しかし『コインロッカー』に時折描写される和代がふたりに買ってあげるものからわたしは言いようのない愛情を感じるのです。

しかも和代は家出したハシを探しに訪れた東京で命を落としてしまいます。その直前にキクとレストランで食事をするシーンではこんなことをつぶやきます。

突然、和代の肩が震えだした。おしぼりで目を押さえ、キクに、恨んでいないか、と絞り出すような声で言った。うちらに貰われて、これまで何かいやなことあったらみな言いなさい、ハシの分まであんたが言いなさい、謝るけん。

コインロッカー・ベイビーズ(上)P96より引用

わたしはこのセリフに、どうしようもなく不器用で、どうしようもなく善人で、どうしようもなく愛情深い、日本の片田舎の標準的な婦人像を見出さずにはいられません。

では和代の人格はどのようにして形成されたのでしょうか。

和代がいちばん輝いた日

和代が西九州の離島に来たのは20代の頃。当時の島は海底炭鉱で賑やかでした。前夫と別れて叔父を頼ってやってきた和代は美容院の見習いをはじめます。島には軽く5,000人を超す炭鉱労働者が住み、大半は独身です。

するとどうなるでしょうか。

MMK。モテてモテて困る、になります。

大柄で目が細く少し鼻が大きすぎる、という顔面偏差値が高いとは言い難い器量の和代でしたが、独身の鉱夫に誘われない日はありませんでした。

和代はあまりに言い寄る男が多すぎて、自分に自信を持ちます。そしてもっといい男がいつか必ず現われると信じるようになります。

男たちはみな口を揃えて和代を美しいと言います。最初は信じられません。生まれてから島に来るまで一度も、美しいなんて言われたことがなかったからです。

和代は毎日のように違った男と遊ぶようになります。そして家に帰り寝るまでの長い時間、鏡を見つめながらその日男が囁いた甘い言葉を繰り返し思い出します。

自分のどこが美しいのかを探す和代。簡単には見つかりません。やがて、唇ではないかと思うようになった、とあります。それと肌の白さと木目細やかなこと。

痺れます。

この和代の輝ける時間ときたら。あまりにも分不相応な扱いをされて舞い上がるバツイチ女の心情描写。ビリビリきます。

和代がはじめて寝た男は鉱夫ではありませんでした。独身でもなかった。寝たことがその男の妻に発覚したとき和代は、そんな顔でよくもうちの人を、と言われて驚きます。そんな顔で、と言われたのは久しぶりで信じられなかったからです。

結局、その男とは18回寝るのですが和代はそのことを憶えています。4回目から男のことをすごく好きになったことも。その男がカカオフィズというカクテルを教えてくれたことも。

美容院を辞め繁華街のバーで働き始めて4日目。ある鉱夫が和代にカカオフィズを奢ってくれました。和代は懐かしさのあまり泣き出し、その鉱夫と島内の旅館で寝ます。その後、和代は毎晩違う男と寝るようになりました。

もうカカオフィズは必要ありませんでした。

なんて悲しいんだ、和代

わたしはどうしてこんなに、服役中脇役中の脇役である和代に惹かれるのでしょうか。同情?憐憫?それとも…

和代の輝ける日は突然幕を閉じます。炭鉱が閉山になるのです。バーに飲みにくる男はいなくなり、若い男は消えて人口は10分の1に減りました。

30になったばかりの和代は場所を新居浜に変えて再びバーで働きはじめますが、そこには和代を美しいと言ってくれる男はいませんでした。ある晩、和代は白くなめらかだった肌に染みを見つけます。続いて乾ききった唇、皺や肉のたるみを発見します。

現実といううすのろが和代の未来に濃い靄をかけていきます。

和代は新居浜を出て大阪で2年、福岡で1年働いた後に島に戻ります。島で一軒だけ残った旅館で仲居をしているうちに、後の亭主となる桑山と出会うことになります。

トタン屋根の小屋に連れていかれた和代はその夜、唇を震わせて美しいと言った桑山と一緒に住むことにしました。桑山がプレス機械一台ではじめた事業は軌道にのり、借金して和代のために美容院を買います。借金の返済が半額終わった時、夫婦は養子を探し始めるのでした。

そしてハシとキクを迎え入れ、9年間わが子のように愛情を注ぎ、それでも出奔したハシを探しにいった東京で転倒し、打ちどころが悪かったのかそのまま死んでしまうのです。

なんて悲しいんだ。

わたしが和代に思いをよせる理由

もともと村上龍の作品は描写が現実を想起しやすいという特徴があります。同じ村上でも春樹は幻想的でファンタジックな世界を描きます。

ファンタジーを理解する知性を持ち合わせていないわたしが春樹よりも龍の作品に惹かれるのはそういうことなんですね。

それはさておき、わたしが『コインロッカー・ベイビーズ』の登場人物の中でも特に和代に思いを寄せてしまうのはいったいどういうことなのでしょうか。

和代が島に来て、人生最高に輝く時間を経て落ちぶれ、桑山と一緒になるまでの人生は本編ではわずか2ページ半に凝縮されています。このわずかな文字数で、昭和の女の人生の浮き沈みと、その後のあまりにも儚い幕引きへの引き金までが描かれている。

『コインロッカー・ベイビーズ』について佐野元春は出版当時、こんなふうに評しています。

ドラマトゥルギーよりも、むしろ一行二行三行四行という短い時間の中で ポエトリーを爆発させようとしていて、僕はそこにパッションを感じる(「RyuBook」1990年 思潮社より)

rou kodama『EMA THE FROG』より引用

なにかこう、このときに元春が感じたものとおなじようなパッションを、和代を表現する単語や短いセンテンスから受け取るからでしょうか。

そうじゃないかもしれませんが、もうすぐ4,000字を超えてしまうので、今日のところはそういうことにしたいとおもいます。

たった一人のバイプレイヤーの話だけでここまで語らせる力がある作品。やはり初期の村上龍はただならぬ才能の持ち主だったと言えるでしょう。

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