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すごい求人広告営業たち

この連載では比較的ディスり対象になりがちな、求人広告の営業マンたち。まあ、どうしてもコモディティ商品を売る仕事なだけにパワープレイ偏向になったり、あるいは数字至上主義、納品あとからなんとかすっぺ型セールスに走りがち。それは仕方ないこと。

だけど、中にはとんでもなくすごい求人広告営業がいるんです。いわゆる優秀、っていうんじゃなくて、すごい。よく歴史ものを読んだり観たりしていると出てくるけど、乱世というか、逆風が吹けば吹くほど燃え上がる連中。サムライ営業。

今回はぼくがともに仕事をしてきた営業の中から特にリスペクトするサムライたちを紹介したいと思います。なぜかというと、こういう人たちを紹介することってほぼないから、歴史に埋もれるのがもったいない。

■ ■ ■

時は2000年。ぼくはその10年ほど前に少しかじった経験を頼りに、ある求人広告専業ネットベンチャーに入社しました。リクルートの代理店からスピンアウトして生まれた小さな小さな会社。人事も経理もいない、全社員で20人もいない組織。

業界には巨人、リクルートがいます。毎日コミュニケーションズも、学生援護会も、大きな壁となって立ちはだかります。しかも当時はインターネット黎明期から5年が過ぎた頃。ダイジョブドットコムやイーキャリアなど新興ベンチャーも競合としてウヨウヨ溢れ出していました。ある意味、大手の後塵を排す、最後発といってもいい会社だったのです。

メインとなる転職サイトを売る営業は責任者入れて10人。広告の作り手は4人。だけど3人は素人だから実質2.5名分の戦力。求人広告の世界では制作マン一人につき営業四人が標準的な人数配分なので、まあ、ギリ人手不足な感じ。だから徹夜はしょっちゅうでした。

でもそのとき一緒に戦っていた営業は、みんなすごかった。馬力があって、タフで、バカで、おっちょこちょいで、負けず嫌いで、素直で、まっすぐで。そんな奴らの話。

クリエイティブは営業がつくる、という自覚

鷺谷(仮名)は早稲田卒という、その当時その会社ではピッカピカの学歴の持ち主でした。そのせいか若干自分の能力を鼻にかけるタイプ。制作マンに対しても上から目線でした。しかしさすがに言動にブレがない。ヒアリングの細かさやクライアントとの握りはピカイチでした。

ぼくが鷺谷とはじめて組んだ仕事での打ち合わせ。年もキャリアもずっと上のぼくに対してはさしもの鷺谷も平身低頭でした。しかし話を進めていくとどうも噛み合わない。そのうち気づいたのですが、どうやら鷺谷はそれまでまともなクリエイターと仕事をしたことがないようで、広告のコンセプトや方向性など全て営業がつくるもの、と思い込んでいた。

逆にコピーライターは営業が伝えたことを忠実かつわかりやすくリライトするのが仕事、と決め打ちしていたんです。当然ですがぶつかります。初回の打ち合わせで大喧嘩。こっちも入社したばかりですがここで折れたらこの先ずっと言うことを聞かなきゃなりません。

ガチでぶつかった挙げ句、最終的には鷺谷が折れる形で、その日は彼のヒアリング内容を全て聞き、どういうコンセプトで表現するかは任せてもらうようにしました。

当初、彼は憤懣やるかたない表情でした。しかし、翌日ぼくがつくったコピーを見た瞬間、破顔一笑。それ以来、絶大なる信頼を寄せてくれるようになりました。ぼくのほうもそもそも当事者意識から深いヒアリングを行なっていた彼のスキルとキャラをリスペクト。IT企業を中心にたくさんの採用成功をものにしていきました。

ですよね、だからいいんですという無敵の返し

もうひとり紹介させてください。田村(仮名)はもともと親会社である大阪のリクルート代理店で営業マンとして最前線で活躍していました。とにかく口八丁手八丁。タムさんの愛称で誰からも好かれるキャラとして社内でも人気者でした。

そんなタムさんはスピンアウトしたこっちの会社のほうに来たがっていた。そもそも長いものに巻かれるよりも小さく自由な環境でのびのびやりたいタイプ。異動の声がかかってからほどなくして東京のオフィスにスキップしながら現われました。

それ以前から上司や営業責任者から「田村はハヤカワちゃんと相性バツグンやで、きっと」と言われていたこともあり、初対面からいきなり意気投合。タムさんの担当業界が飲食業界で、ぼくは居酒屋店長出身だったこともあり、社内でもピカイチのゴールデンコンビが生まれました。

お互いに論理より感性。まじめよりもふまじめ。ソロバンよりロマンという似た者同士だけに話が早い。打ち合わせはその最たるもので、60分のうち50分は雑談で大笑い。最後の10分で必要なことだけを確認し、おしまいというもの。それを横で聴いていた営業責任者が「さすがにタムとハヤカワちゃん、ええ加減にせえよ」と笑いながら注意するほどでした。

タムさんのすごいのは、お客さんからどんなネガティブなことを言われても受け止めて打ち返すところです。伝家の宝刀たる決め台詞は「…ですよね、だからいいんです」。

いわく「おたく会員数少ないでしょ?」「…ですよね、だからいいんです。御社が求めているのも数ではなく質ですよね?ウチ、会員の質が違いますから」。

いわく「取材とかめんどくさいでしょ」「…ですよね、だからいいんです。めんどうなことをやるからこそ、ええ原稿ができあがります。結果、採用成功の近道なんです」。

いわく「後発のメディアにしては高くない?」「…ですよね、だからいいんです。失礼ですが責任者様が信用できる会社は採用にお金をかける会社ですか?それとも?」。

とにかく見事としかいいようがない、その場で当意即妙な返しを、しかも本質を突いてできるのは後にも先にもタムさんだけでしょう。

上場がかかっていた、達成まであと50万円

最後に誰が、というのではなく、当時の営業部門、いや会社全体を覆っていた空気について書きたいとおもいます。

社員も増え(といっても30人ほど)最大手の競合がやらないことをあえてやっていく方針を立てたところ、奇跡的に業績が右肩上がりに。倍々ゲームでハイ達成が続き、あれよあれよという間に株式公開の話が進んでいきました。

そうなると大変なのが現場です。いかにハードルが低い新興市場とはいえ、直前期には前クオーターの3倍もの売上が必要ということになりました。これには営業も制作もてんやわんや。上場なんて興味のないぼくですら土曜も日曜も出社して、原稿を書いていました。

そうするとパッと電気が消える。ふとみると営業チームがパワポを映して研修やっています。おーい、電気こっちだけ点けてよ。無理だからブース行ってよ。そんなやりとりすら、いまとなってはほほえましい。

そしてQ達成まであと50万円、という最終日。営業がいつもの朝礼もナシにして都内に飛び出していく。1件3万円ぐらいのカテゴリ追加という商品をみんなローラー作戦で既存クライアントに提案にいく。といったって営業は20人もいないわけです。それが1件、また1件と入ってくる。営業事務の女のコのもとに受注報告の電話が入るたびに、内勤のメンバーは拍手喝采。

あと3件で、あと2件で、あと1件で達成。あと3万円で…頼む、誰か。そして最後の最後、三田原という若手ルーキーが渾身の受注を決めます。

締め切り30分前というドラマチックな展開。戻ってきている営業マンも含めて全員の歓声がオフィスに広がる。みんな笑顔で握手、肩を抱き合う営業部長と開発部長。そして営業事務さんの涙。それがみんなに伝播して、気づけば全員目が真っ赤に。

そういう素晴らしい黄金の一日がありました。これこそベンチャーの特権といっても過言ではないでしょう。徹夜のしんどさも、厳しい目標数値をクリアすることも、競合の高い壁を超えるのも、すべてがふっとぶ充実感。生ててる実感が、ベンチャーにはあるんです。

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本当はあと5人ほど紹介したかったのですが、とても紙面が足りません。いくらネットだからといって長すぎるのはよろしくない。残りのメンバーについてはまた、時間をおいてネタが枯れたときにでも書こうかとおもいます。

とにかく、当時のサムライたちに共通していえるのは、強敵すぎる競合に囲まれた最後発のメーカーにも関わらず、負けるかもという恐怖心を一切持たなかったこと。

新規電話で受話器の向こうに金貸しなのかと聞かれたり、なんどもなんども社名を連呼させられた挙げ句ガチャ切りされたり。ブランドもクソもない時代、知名度すら最低以下でしたから当然です。そんな逆風にもめげずにがむしゃらに仕事に打ち込んでいた。

そして、そのときに全力を尽くしたメンバーたちはみな、会社が次のフェーズにステップアップすると次第に精彩を欠いていき、ひとり、またひとりと去っていくのでした。

立ち上げ期、混乱期、乱世で力を発揮する者たちがそのままひとつのところに逗まることが、いかに難しいか。ぼく自身、その当事者として痛感しています。

ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。 淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。 世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。

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