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ファンタジーが読めないシンドローム

恥をしのんで告白します。

ぼく、ファンタジーが読めない症候群です。ファンタジー、つまり幻想的だったり神話のようだったり、そういう空想の世界を理解する能力がゴソッとまるっと欠落しているみたいです。

かなりやばい。

ぼくが本を読むようになったのはかなり遅め。コピーライターという仕事に就いて3年目、2社目の社長の手ほどきがあってようやく読書習慣を身につけることができたというポンコツです。

だいぶやばい。

そしてかなり偏った読書スタイルで、とても読書家とは言い難い。人に言うのも恥ずかしい、変な読み方しかできません。

たとえばその①。たくさんの種類の本を読むのではなく、一冊をなんども繰り返して読む。理解力が足りないので一度読んだだけではよくわからないのと、気に入った本は何度でも読めるからです。当たり前ですかね。でもちょっと自分でも病的だなと思うぐらい繰り返すんです。

たとえばその②。いわゆる古典や名作といわれる本はほとんど読んでいない。恥の上塗りを承知で告白すると太宰も漱石も芥川も読んでいません。「こころ」は途中で挫折したかな。歴史小説もそう。司馬遼太郎も吉川英治もみんな絶賛するけど、1冊も読了できない。

「お前には文学性がない」

これは昔、お世話になったプロダクションのボスが3日に1度の頻度でぼくに向かって吐いていた台詞ですが、あながち間違っていないというか、もっともだなあというか、おっしゃる通りと思って聞いていました。

そして、これらに加えて決定打となるのがファンタジーがまったく頭に入ってこないということ。

そのことをいま、しんけんに悩んでいます。

どういうことか

現実の世界を描いている文章であれば読めます。むしろワシワシと読み進められます。でも、ちょっとでも現実味のない場面が出てくると、とたんに頭に入らなくなる。

絵が浮かばないといったらいいのか。

一生懸命活字を追うのですが、頭にもやがかかってしまうんです。何か脳に欠陥があるのかと真剣に悩んだりもしています。本人は読みたいんですよ。わかりたいんです。なので割と辛い。

おわかりいただけますか?

もうちょい具体的に説明します。

たとえば村上春樹さんの作品。ぼくも大好きです。上京した18歳の秋に上野の丸井で買った『ノルウェイの森』。俺はこれを読むために東京に来たんだと思うほど衝撃を受けました。別に名古屋でも読めるんですけど。

あとちょいちょい映画化される作品が収録されている短編集『女のいない男たち』『東京奇譚集』、長編でも『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』あたりは飽きることなく繰り返し読んでいます。

ところが。

村上作品でもファンタジー要素が濃くなるとまるで受け付けなくなります。たとえば「羊」とか「ジェイ」とかが出てくるともうダメ。物語の舞台が夢の世界なんてのもダメ。双子の女の子と暮らしながらピンボールマシンを…ダメです。とたんにストーリーが頭に入ってこなくなる。

これはいったい…と思い悩む日々です。

しかも筋金入り

このファンタジーが読めない症候群ですが、昨日今日の話ではありません。

中学を卒業するまでに文章が中心の本といえば教科書と見栄講座ぐらいしか読んだことのなかったぼくが最初に手にした小説。16歳にしてはじめて、文字だけの本を読みました。

『テニスボーイの憂鬱』村上龍さんの作品です。

テニスに夢中な土地成金二代目のボンボンが愛人との快楽的な恋愛を通じて人間的成長を果たしていくという、なんともいえないストーリーですがなかなか面白い小説なんです。

この『テニスボーイの憂鬱』、基本的には現代劇であり、昭和50年末期の日本を舞台として話が展開していきます。登場人物や舞台となる街、ホテル、乗り物など全て現実に基づいてバブリーに描かれています。

しかし、ただ一ヶ所だけ、ファンタジーな箇所があるのです。

こんなくだりです。

それはテニスボーイが4歳のとき。自宅裏の小山にひとりで登るという事件を起こします。どうして登ろうとしたかは覚えていませんが、途中で心細くなり引き返そうとすると道化師があらわれます。公民館で田舎芝居や奇術の興業を打っている道化師の一団です。

テニスボーイは道化師一団とともにどんどん山を登っていきます。山の中腹には細い砂利道があり、オート三輪が停まっています。旗が二本立てられていました。旗はオレンジ色の地で絵が描かれています。太鼓と蝶々と蛇の絵です。太鼓にも蝶々にも蛇にも顔がありました。その旗の向こうに太陽が沈もうとしたとき、道化師は全員オート三輪に乗り込みます。

ひとり、置き去りにされたテニスボーイは大声で泣き出しました。泣きながらさらに山の上に向かって歩き出したテニスボーイ。どんどん山道が暮れていきます。眼下にふもとの灯りが見える。テニスボーイはその灯りに向かって叫びました。

「ヤッホー、ヤッホー」

テニスボーイは、山に登ったらそう叫ぶのだと教えられたばかりだったのである。そうなのだ。あの時の気分とまったく同じなのだ。スーツケースに荷物を詰めている女房の背中を見ていてそう思った。誰も俺のことをわかっていない、俺を無視している、俺は暗い山道で、誰にも聞こえないと知ってて叫んでるだけだ。ヤッホー、ヤッホー、ヤッホー。女房の背中にあるコンバースの☆印を見ていると、驚いたことに涙があふれてきて、テニスボーイは慌ててその場を離れた。
『テニスボーイの憂鬱』文庫版上巻 村上龍 P11より

引用したところからは現実の世界での物語なので読めるのですが、そこに至るまでの部分がまったく読めなかった。文字は追えるのですが文章として、物語として頭の中で成立しないんです。

テニスボーイの憂鬱は高校時代に買った唯一の小説で、そのまま一緒に上京し、35年たった今でも書棚に収まっています。今でもことあるごとにページをめくるのですが、常に上記の箇所はもやっと、ぼんやりしていました。

あまりにもやっとすることから途中で飛ばすようになった。

そして飛ばしても物語全体にはあまり大きな影響はないだろうと思っていました。実は道化師のくだり、物語全体のメタファーとなっているらしく(そういう書評を読んだ)決して飛ばし読みしていい箇所ではないのですが。

おそらくですが

ぼくには他人が提示するイメージを汲み取る力がないのかもしれません。あるいは経験や知識のストックが貧弱なせいで、頭の中で絵を立ち上げる力に欠けている。

テニスボーイの例でいえば…

道化師、公民館、田舎芝居、奇術、興業、旗、太鼓と蝶々と蛇の絵、太鼓にも蝶々にも蛇にもある顔、といったファクターですね。このあたりの単語がでてくるとよくわからなくなる。話の輪郭がぼやけるんです。

こういう症状って、ぼくだけなんだろうか。
なにか特別な病気なんじゃないか。
そんなふうに思えて仕方ありません。

やはり

感性を育む上で大事な時期に本を読んでこなかったことが原因ではないでしょうか。脳が若く、柔らかいうちに青い鳥文庫とか児童文学、民話といったものに触れておくべきだったのかもしれません。そうすれば他人が描くイメージを頭の中で映像化、固定化できたんじゃないか。

そういえば。

いまはほとんど興味を失ってしまったのですが、ぼくは子どものころ特撮やアニメが好きでした。しかしその好きというのはストーリーでは決してなく、すべからく出てくる「メカ」や「映像」だった気がします。

なんか地球が大変なことになって、その危機から救うために宇宙にいく。

宇宙戦艦ヤマトも、銀河鉄道999も、機動戦士ガンダムも、だいたいそういう話だと思っています。そしてそんなことはどうでもよくて、波動砲のメカニズムとか、999号の機関室の計器類とか、コアファイターが形態変化する様とか、そういうことにひたすら心奪われていました。

それどころか2001年宇宙の旅もスター・ウォーズも、ターミネーターすらストーリーかよくわかっていない。映像の斬新さとかメカに惹かれているだけだった、といまわかりました。おおこわ。

やはり人生において何か大きな忘れ物をしたままここまできてしまったのかもしれない。

だれか共感できるひといませんか?
これ治療法とかあるのかな。

ああ、ファンタジーが読めるようになりたい。ファンタジーが頭に入るようになれば、もっと本が読めるのに。読みたい本もたくさんあるのに。

小さなお子さんをお持ちのパパ、ママさん。本を読む習慣を、できるだけ早いうちにキッズにつけさせてあげてください。その習慣は間違いなく将来、お子さんの身を助くものになるはずです。

動画時代、映像世代とか言われてますけど、読書習慣がなかったら映像を立ち上げることなんてできないんじゃないかな。そんなことないのか。山ほどYou Tubeを見て成長すると、いいYouTuberになれるのかな。

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