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酔っ払いに手を焼くタクシー運転手

酔っ払いに手を焼くタクシー運転手を助けたことがある人は、果たして世の中にどれぐらいいるんだろうか。

その夜、仕事場でかなりの量の日本酒を呑んでご機嫌で自宅アパートに帰還する寸前。家の前の公園に一台のタクシーが横付けされていた。ハザードが焚かれている。

三業地の名残りある繁華街で水商売に身を投じていればある程度ヤバい匂いが察知できるようになる。タクシーからはそれが感じられた。こういうときはしばらく様子を伺うに限る。

すると運転手の動きがどうも妙だ。後部座席に誰もいなさそうなのにさかんに後ろを向いてなにか叫んでいる。時計を見ると午前2時前。

酒の勢いもあり、思わず声をかけた。

「どうしました?」
「あ、いや、もうメーター倒して帰るとこだったんだけどこのお客さんに捕まっちゃってね」

見るとバックシートに斜めにもたれかかって半分寝ぼけている酔客がいた。なるほどこれでは遠目ではわからないわけだ。

「警察は?交番この先の路地にありますよ」
「いやあ、めんどくさいんだよね、もう帰るつもりだったし。長引くのしんどくて」

中年を少し超えたぐらいの運転手はこの手のトラブルによく巻き込まれるのか、警察沙汰にしたあとの面倒くささを言外に滲ませる。

ふとメーターをみると2,800円。一瞬考えてからここは立て替えるからこの客を降ろすの手伝ってくれ、あとのことはなんとかするから、というと運転手は喜んだ。

酔っ払いは確かに酔ってはいるが意識はある。千鳥足だが歩くこともできそうだ。中肉中背で白のコッパンに赤いアロハ。薄い白髪の感じから50代か、60代か。手ぶらであった。 

軽くビンタしながら聞いてみた。

「おう、状況わかってる?お前さんがベロベロでタクシーの運転手さん困ってんだ。わかるか?ちょっと跳んでみろ」

酔っ払いは言われるがままにぴょんぴょん跳躍する。なんの音もしない。どうやらポケットの中に金は入ってなさそうだ。

「行き先は小竹向原って言うんでぐるっと回してきたけど、どこも違うって言うんで困っちゃってさ。兄さん、すまないね。なんかあったらこっちまで連絡して」

そう言ってタクシー会社のカードを渡した運転手は逃げるように走り去って行った。


住所がわからないことにははじまらない。とりあえず交番まで歩くことにした。酔っ払いはフラフラしつつもなんとかあとをついてくる。幸いなのが初期高齢者にしてはこざっぱりしていて清潔感がある。酒臭いのを除けば大きな問題はない。

どちらかというと居酒屋で隣り合わせたら仲良く乾杯しそうな雰囲気のおっさんである。

5分ほどで千川通り沿いの交番に着く。夜間パトロールから帰ったばかり、といった感じの警官が対応してくれる。ここまでのいきさつを話すと、しょうがないなあといった感じで酔っ払いに大きな声で話かける。

「ご主人、わかりますか?ここ交番ですよ!この人に迷惑かけてるんだけど、ここから家まで帰れそうですか?」

酔っ払いに代わって帰れないとどうなるかと聞くと、パトカーで練馬署まで連れていき一晩お泊りコースになるとのこと。それは税金の無駄遣いですよね、というと警官は笑った。

「それでもそれがおまわりさんの仕事だからね」

見た感じ同い年ぐらいの男に向かって自分の職業を「おまわりさん」という言い方で表現する少し腹の出た警官が、なんだかいいなと思った。

警官は酔っ払いから住所を聞き取ることに成功した。それによるとここからほど近い団地の2階に住んでいるとのこと。地図を眺めながらここだねここ、と指さす。近いですよ、とも。

「ここまできたら乗りかかった船だから、俺、家まで送っていきますよ」

警官はそうか、申し訳ないですね、と最後だけ丁寧な口調で、それでも頭を下げることはなく、鋭い目で酔っ払いを見つめていた。

「一応確認しておきたいんだけど、この人のタクシー代を立て替えたんだけど、それはこの人から直接返してもらっていいんですよね?」

「もちろんですが、くれぐれも手荒な真似はしないでね。ちゃんと本人の同意のもとで返却してもらってくださいよ」

さあ、もう大丈夫だから家まで帰るよ、と声をかけたら酔っ払いは寝ていた。あわてて起こして肩を貸して交番をあとにした。


目指す団地まではすぐだった。3階建て低層の鉄筋コンクリートが何棟も並ぶ。真夜中なので間違わないように慎重に、警官から教えてもらったメモを頼りに酔っ払いの部屋を探す。

ここに来るまでの酔っ払いとの会話で、どうも区の教育関係の仕事をしているらしいことがわかった。そしてここまでのお礼をなんどもなんども繰り返す。きっとあなたは立派な聖職者に違いない、などと口走るのでめんどくさくなってそうだ自分は教員だ、と嘘をついた。

「北園高校で数学教師をやっている鬼塚だ」

ちょうどマガジンでGTOの連載がはじまった頃だったし、アルバイトのひとりが北園高校卒業生だという話を聞いたばかりだったので、どうせバレやしないと思って適当に捏造した。

すると酔っぱらいはやはり我が目に狂いはない、といわんがばかりの口調で鬼塚せんせえ、オニヅカしぇんしぇ~と繰り返すようになった。

「オニヅカしぇんしぇ、どうぞわが家はこの2階ですぅ」

さすがに自宅近くまで来て酔っ払いも我を取り戻したのか、ごきげんな口調で部屋へと案内してくれる。

家人がいたら面倒くさいな、と思いつつ、そのほうが立て替えた現金が戻ってくるかとも思った。念のため確認すると酔っぱらいは「家族なんかとっくにいましぇん」最初から一人暮らしなのかあるいは。どっちにしてもどうでもよかった。

部屋に着くなり驚いた。玄関に鍵がかかっていなかったのだ。しかも部屋の灯りもクーラーもつけっぱなし。テレビからはサッカーの試合が流れていた。

いったいこいつはどういう事情あるいはシチュエーションで池袋に飲みに出たんだろう。

酔っ払いは台所に行くと缶ビールを持って戻ってきた。なんだこいつまだ飲むのか。きたじょのにょ〜おにじゅかしぇんしぇいとぉ〜とかいいながら乾杯してくる。

してきたかと思ったら、目が虚ろでうとうとしだした。散らかっているテーブルや鍵置き場になっている電話台などを物色しているうち、テレビが置かれているカラーボックスの上に一万円札が何枚か重なっているのが見えた。

傍にはいまにも寝込みそうな酔っ払い。自分の素性は一切知られていない。さっき寄った交番のお巡りも、酔っ払いのヨタ話をまともに取り合うとは思えない。

むくむくと湧く黒い想いを、なんとか必死に抑え込む。

「あのさ、さっき立て替えたタクシー代と、ここまで連れてきた迷惑料、返してほしいんだけど」
「いやあもうしぇんしぇいにはお世話にねりっぱにしでしから、どうじょどじょ」
「ちょっとここにあるお金、いただいていくよ」
「どうじょどうじょ、あるだけ持ってっちゃってくだしゃい」

えっ?いいの?という黒い心をこれまたぐっと抑えて、じゃあお言葉にあまえて、と万札を一枚だけ取った。

しぇんしぇ、そんなもっと、まだありますから金なんて、とわめく酔っ払いには目もくれず、じゃあね、不用心だから出かけるときは戸締りしろよな、と吐き捨てて部屋を出た。

東のほうからそらが茜色に染まりつつあった。東かどうかはわからなかったが、こういうときは子どもの頃に覚えた『天才バカボン』の主題歌を思い出すことにしていた。

「西から登ったおひさまが 東に沈む」

そういえばタバコをずいぶん吸っていないと気づいて火をつけて、ゆっくり煙を吐いたあと、つぶやいた。

「これでいいのだ」

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