見出し画像

新井白石 『古史通』 読法2 西暦284年 漢字の伝来と偽情報

*昭和44年発行の中央公論社 日本の名著シリーズの第15巻 新井白石(桑原武夫編集)より、『古史通(こしつう)』(上田正昭訳)を、私個人の主観的な意見を極力排除しながらスロー・リーディングで読んでいます。 

本日ピックアップする範囲には、漢字の伝来について書かれています。

人皇第十六代の応神天皇十五年秋、百済王の使節として、阿直岐という人が、わが国土へ渡ってきた。(日本の名著 新井白石 p253)

人皇:神代(かみよ)と区別した語で、神武天皇以後の天皇。 

白石は応神天皇を人皇第十六代としていますが、現在の宮内庁の天皇系図には十五代となっています。神功皇后を、天皇として数えるか数えないかの違いからくるものであるようです。白石の生きた時代(生誕 1657年3月24日ー死没 1725年6月29日)の人々は、明らかに、神功皇后を天皇の一人として認識していたことがうかがえます。

ウィキペディアには以下のように書かれてあります。

明治時代までは一部史書で第15代天皇、初の女帝(女性天皇)とされていたが、大正15(1926)年の皇統譜令(大正15年皇室令第6号)に基づく皇統譜より正式に歴代天皇から外された。摂政69年目に崩御。(神功皇后
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

ウィキペディアの[上古天皇の在位年と西暦対照表]によると、応神天皇十五年は西暦284年になります。 

応神天皇の皇子が、百済から渡来してきた阿直岐(あちき)という経書(中国、儒教の経典)や典籍(書物)を読むことに優れた人物を師として学んだことが、日本に漢字が伝わった初めといわれている、としています。

だが、その時代に文字がひろくおこなわれたのではない。
(日本の名著 新井白石 p253)

西暦284年に伝来した漢字が、日本で使われるようになったのは、伝来から119年後の履中天皇四年(西暦403年)、諸国に国史(ふみひと)といわれる書記官を置き、国内の情勢を報告させたことからなのだそうです。国史(ふみひと)については、そのほとんどが「中国系及び朝鮮半島系の渡来人によって担われた。」というのが通説です。

漢字伝来から119年も経っていますので、日本人の中にも漢字の読み書きを学習し、使いこなせる人材(今でいう知識人)が育っていたのではないかと想像しますが、 通説通り、諸国の情勢を記録・報告するという日本史上初の重要な役割のほとんどを、移民(中国系及び朝鮮半島系の渡来人)が担っていたということになると、文字を駆使する自国の文化に誇りを持つ移民達、または、彼らから文字を学習し、彼らの文化に驚愕し、過度に影響されてしまった日本人の知識人達によって、意図的であったか、なかったかにかかわらず、結果的にその後の天武天皇、元明天皇の頭を悩ますことになる虚偽の情報の入り込む余地を与えることになってしまったのではないでしょうか。

冒頭の写真は、漢字の伝来から1735年後の2019年、東京で撮ったものです。現在の日本人が使用している文字・言語の多様性をあらわしているのではないかと思います。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?