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ヒトラーやナチスと出会って私は教会を捨てた

ヒトラーやナチスと再会してから、私はたくさんのものを得ましたし、反対に失ったものもありました。失ったもの、いや捨てたものの一つは教会でした。今回は私が教会を捨てるまでの過程とその理由について書いていこうと思います。

私はキリスト教徒だった

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私はキリスト教徒でした。過去、無知だった私は自分の意思でキリスト教徒になったのです。振り返れば、2019年くらいまではきちんとしたキリスト教徒だった気がします。他のキリスト教徒と同じように教会に行き、聖書を読み、賛美歌を歌う。私はキリスト教についてブログ記事を書いて、キリスト教徒になるべきか迷っている10代、20代の若い人たちへアドバイスもしたりしていました。教会では、明るい気持ちの良い人ばかりの集まりで、昔から知っている人も若い人もたくさんいました。自分にとっては居心地の良い空間で、第二の家のようでした。

キリスト教徒でいることにモヤモヤし始めた

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私は、将来ドイツに移住したいと思うようになってから、日本のこと、特に神道や神社について知りたいと強く思うようになりました。しかし、他のキリスト教徒たちは口には出しませんが、心の中ではきっと私を軽蔑していただろうと思います。しかし、だからなんでしょう?これは日本人であれば当然のように、通る道だと思います。私はキリスト教徒ですが、それ以前に日本人です。そうして私はキリスト教徒なのに神社によく足を運ぶ変わった人になりました。神社は良いところでした。山の中など人気が少なく、水の音がよく聞こえるくらい静かな環境で、私は自分、神と向き合う時間が持てました。様々な神々がいること、それも自分にとって興味深いことでした。そして神とは自分の中にいる、神と自分は一体なのだということも感じました。「神が共におられる」とキリスト教ではよく言いますが、少しニュアンスが違います。これはキリスト教では決して考えられないことです。(ちなみに神道もユダヤ教と共産主義的だと知ってからは、神社にも行かなくなりました)

神との関係というものはおおっぴろげにすることではないと私は思っています。教会では牧師の一方的な説教で、キリスト教徒たちの交わりはかなりプライベートなところまで深く、言ってみれば騒がしく、何をしに教会に行くのか?と目的を見失っている気がしました。彼らは神と自分の関係について赤裸々に語り、いかに自分が恵まれているのかそれを自慢しているように聞こえます。そういったモヤモヤを感じでいた時に、とある元ドイツ軍人が言っていた言葉に触れ、私は彼の言葉に非常に共感を覚えました。それは以下です。

私には、皮膚の色や宗教は問題ではありません。大事なことは、人間が倫理を信じる、すなわち善と、われわれのうえに君臨する神性の存在を信ずることです。いや、それ以上に、善と神性とにしたがって行動することです!当の人間自身が悪者であるとしたら、百万言のけっこうな文句も、公衆の面前での祈りも、なんの役にたつというのでしょうか!毎日、教会へゆくことだけがたいせつだというなら、私はむしろ"異教徒で反キリスト者"でありたいと思います。"人びとは各自の神と、善への信仰"とを自分自身の心のなかにしまっておくべきであり、外にだして見せびらかすものではない、と私は思います。
『現代ドイツ(篠原正瑛)』とあるドイツ軍人の手紙より

この方は第二次世界大戦の中で6度も大きな怪我を負い、何とか生還されました。私は彼の言葉のように、人はこう在るべきだと思います。

私は学生時代、ドイツ語の教授から影響を度々受けましたが、彼は反キリスト教であるのを包み隠さず話していたので、そういった人の意見も知っていました。とは言え、私は2019年まではまだきちんとしたキリスト教徒でしたし、イエス・キリストを信じていました。

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