見出し画像

他者の言葉はそれは素敵な乗り物だ

こんばんは、薄明です。色々と、嬉しいことと悲しいことが波状攻撃のように、ここのところ激しくやってくるので、自律神経がおかしくなってしまいそうです。

そんな中、ふと自分に湧いてきたのが下のツイートでした。

140字内におさめるのに削ったような気もしますが、一日経ってみればそれで内容としては十分な気もします。しかし流れて行ってしまって、自分でも見返すのが難しいTwitterから、一応こちらに引き上げてメモして置こうと思った次第です。

ただ、これは他人に向けての言葉ではありません。この人はたまにこんなことを考えているのだな、というくらいに思って読んで下さい。一応写真関係の内容に繋がっていますが、写真つながりの人が果たして私の文章を好んで読むかは疑問です。

一年前や半年前に比べて、単純にフォローしている人も、して下さっている人の数も増えているので、それだけ互いに写真を目にする機会が増えていると思います。実際、いいねも10つけばすごいなあと思っていた頃に比べて倍増しているので、交流が広がったなあと実感しています。リプライなどで言葉にしてほめて下さる方までいらっしゃる。写真もそうですし、noteや詩についても。(逆のことも勿論ありますが)

画像3

そんな風に、気持ちが持ち上げられていくような感覚にある中で、少し気をつけなくてはとも思います。

自分のイメージを、現実世界にセッティングして一枚の写真にするような撮り方や、絶景風景などをきっちりと考えて画にする撮り方などと違って、私の写真の多くは、ぼんやりとしていて、もう一度撮ってみろと言われても自分では再現ができないものが多いです。そういう写真でも褒められると、人間欲も自然とあるものですから、つい狙ってしまいそうになる。肩に力が入ってしまう。すると、今までどうやって撮っていたのかわからなくなってしまう。あったはずのものが見えなくなってしまう。

画像4

画像5

他者の言葉は、褒められる言葉は、それはとても嬉しくて素敵です。誰のためでもない、自分が気持ちよくなるための写真に、共感であったりお褒めの言葉をいただくと、その素敵な言葉という乗り物に乗ってふわりと今までにない視点に気持ちが持ち上がるような気がいたします。

そこで見える人の顔や、聞こえてくる声、感じる色などもありましょうが、安易にそこにいること、その乗り物に腰を落ち着けてしまうと、段々とそのスピードに自分の肺が、目がまだ適応していないことに気づきます。やがて流れていく景色の速さ、今まで静かな自分の心地よい場所がどこにあったかわからなくなる。落ち着いて、ゆっくりと聞きたい聲も、何処に行ったろうか。実際のところ、周りは変わってはいません。自分がただ、その慣れない乗り物に目を回しているのです。自分で自分を焦らせて、息を切らせて、ただ苦しくなっていく。

画像2

私はそこまで持ち上げられることはそうそうないので、自分でその——まるで遊園地の遊具のような——乗り物から降りることができます。なかば自虐的に、「終わりだよ、さあまた自分の足で歩こう、私はいつまでもそんな素敵な乗り物に乗っていていい人間じゃないんだよ」と。自分の肺と目のはやさにあった歩き方で行きたいと思います。またいつか遊具に乗れる順番がくるかもしれない。

その素敵な乗り物は、やはり自分だけでは見られない景色を見せてくれる、自分だけでは感じられないものを感じさせてくれるのです。見てくれた人、そして言葉をくれる人との関わりの中で、はじめて生まれる乗り物だ。あの高揚した気持ち、だから恋しく思う。ああ、それに見合うような人間に、見合うような写真が撮れるように、なりたいと思います。

画像5

気分の調子がいいときは、落ち着いて気持ちのいい写真のことを思い出したい。気分が沈んでいるときは、落ち着いて気持ちのいい写真を撮りたい。気持ちが焦っているときは、落ち着くまで疲れ果ててから、落ち着いて写真を撮りなさいよ、私。

いただいた賞賛の言葉を無下にするという意味ではありません。他者の言葉はありがたく受け取ろう、それは身の内に仕舞い、あるいは食べておこう。けれど私の写真は、私のために、私が気持ちよくなるために撮ろう。それに共感してくださる方がいたら、それはとても稀有で嬉しいことだ(震えるほどに。実際、Twitterで薄明として写真を載せていく上で、これほどにと思うほど支持してくださる方がいて、心の支えになっている)。

画像6

けれどそれは目的ではない。結果よりも、目的に目を向けて撮っていかなくては、と思う。私は安易に乗り物に酔うから。

この記事が参加している募集