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写真の余白、内と外(2)

こんばんは、薄明です。前回「写真の余白、内と外」のつづきです。

前回もそうなのですが、今回は特に写真の中身に言及するので、ともすればまるで写真技術論のように見えてしまうかもしれません。ですが、折々に申し上げているように、これは一般的な写真論や技術論ではなくて、あくまで私一個人の感覚ですので、これに従えばいい写真がとれるわけでもなければ、その逆でもないです。とかく他者からの評価が気になると、極端な二元論になってしまったり、あるいはそういった評価そのものを叩きがちですが、ビジネスとしての写真から遠い位置にいる私は、ただ静かに内省的な写真を撮っていくばかりです。

本題に入る前に、前回の記事に対して、イタリーさとうさん(@italysato)がアンサー記事(リアクション記事?)のようなものを書いてくださいました。朝みてビックリして眠気が飛びました。ありがとうございます。

イタリーさとうさんは余白というものを能楽の世界になぞらえて、鑑賞者と写真そのものとをつなぐ橋のようなものと述べられています。私も自分が鑑賞したいスタイルとして、3つ目に挙げた「写真集のように見たい」という余白の付け方は、額縁をつけるのと似ていて、現実世界の目を写真との区切りを明確にすることで(つまり橋を架けることで)鑑賞者が写真内の世界へと渡りやすくする、という意味合いもありまして、近しいものを感じました。

私の感覚や感性の内側を暴くと言われ、大袈裟だなあとは思ったのですが、確かに書いてみると自分の感覚の言語化なわけですから、その通りかもしれません。しかし自分の心の動きは最終的には自分自身が看取らねばならない部分なのですが、それを言語化するということは昔から難しく感じているものです。この投稿に関しては特に、自分がどのように世界を切り出しているかという領分に踏み込むようなものですので、前回以上に書き尽くせないものだと思います。

では本題へ。前置きが長い。本題は出来るだけ短く行きたいと思います。今日私が書ける部分を書きますが、これが全てではないです。(写真を添えてありますが、多くは本題と関係ありません)

内の余白

さて、前回の投稿で挙げた3つの理由はいずれも写真の外の余白でしたが、写真自体の内側にも「余白」というものが存在します。私は余白を大きめにとった写真が好きなようで、自然とそういうものを多く撮っているようです。

余白の大きな写真というと、おそらく皆さんの頭にもある程度イメージは湧くと思います。いわゆるミニマルフォトと言われる分野です。大胆な構図と大きな余白、一般的に点景で構成された、主題の一点集中(多くは周囲のパースによる集中効果を必要としない)とカラーバランスが特徴で、空間の広がりが感じられることが多い分野です。私も撮ろうとはしてみましたが、中々難しい分野だと思います。個人的には6x6写真などで撮っていきたいものです。

そういったミニマルなものに限らず、余白を感じられる写真はあります。私は内の余白というのは主題以外の空間と認識しています。どの写真もそうだとは思うのですが、これ(主題)をこういう撮り方で強調したい、ということで撮りますと、主題以外はいわばわき役であったり、背景になることが多いと思います。主題の写し方はそれこそ見せたいという強い思いでもって決定されると思いますが、それ以外の余白部分をどう構成するかで、見る人に与える印象も変わるんだなと思っています。

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私の定義だと余白は「主題以外のもので、余白と認識するもの」ですので、完全な空や描写のない部分でなくともいいということになっています。自分自身がそれら「主題以外」から「余白」を感じるか。そしてそれらが心地よくなっているかです。そういうことで、主題以外の描写を徹底的に排除する方法をとらないがゆえに、私の写真はミニマルフォトにはならないのだなあとも思います。

心地よさが大事です。雑音にならないよう、がやがやしないよう、見る人(基本私自身)の心がざわざわそわそわしないような写真が好きです。そういう写真を撮りたいと思う。強烈なインパクトの写真は私には撮れないだろうし、ずっと見ていたい写真かどうかはわからないので。

私が撮る写真の分野を説明するときは、なんでも適当に、ぱちぱちと撮っていますと申し上げることが多いのですが、風景写真にせよ何々フォトにせよ、分野として定義されたものを撮ることが難しいので、名前を挙げることはあまりしません。既存の作法のようなものを知らずに外れてしまって、糾弾されることを怖れて楽しくなくなってしまうからです。ミニマルフォトにしても同じで、私がそうだと言ったところで、人から見たら違うものもあるわけです。

このことは、人にかけた言葉ではありますが、やはり自分に対しても向いている言葉なので改めて書きますと、「私の写真に対する、私の評価は、私が決める。私の写真に対する、あなたの評価は、あなたが決める。あなたの写真に対する、あなたの評価は、第三者が決めるものではない。」ということです。意味が通じるか、わかりませんが。

自分が他の人の写真や絵画、芸術作品などを見るときには、できる限りは誰がどういう意図で作ったかということは一切捨てて、頭を空っぽにして見たいと思っています。私にとっては自分が気に入るかどうかが大事なので。ただ、例えばテーマ展だとか、作家研究の場合は除きます。そういう場合は作品に付随する、もしくは作品の発生源である情報などが鑑賞時に必要だからです。

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話を戻しますが、私の写真はすべてではないにせよ、「余白が大きい印象がある」と言われることがあります。それは私がそういう見方が好きだということが写真にも表れているということなのですが、なかなか撮っている最中は余白のバランス、コントロールまで細かに計算はしていられません。事前に考えて撮れるようになれば、今のような時々自分の感性にヒットするものも多くなるとは思うのですが。

しかしミニマルではないのに余白を感じるとはどういうことなのか、ということを考えた時に、先述の主題以外のものに余白を感じるという自分の感覚に行き当たりました。

本当は自分の写真を挙げながら、この写真はこういうところが余白で、とか説明したかったのですが、見返しているとどれも段々適切な写真ではない気がしてきて、そもそもこの記事自体で書いていること自体があまりに的外れというか、自分を見誤っているのでは…という気持ちになってきてしまったので、やめておきます。確かに好きな写真などはあるのですが、この余白を感じるということを明確に説明できるものを挙げよ、と言われると途端に自信がなくなります。こういうところが私のわるいところです。

しかし他者の美術評論や写真論から離れて、自分の感覚を言語化するというのは楽しめることです。なにより、自分自身の感覚と向き合ってから、作品とまた相対してもいいし、他人の感覚に触れて、また二度おいしい思いができます。しかし実際のところ、言語化は難しい。自分が感じているということは、自分が思っている以上に非言語的なものなのです。

余白部分を言葉で説明すると、説明できる以上それは対象もしくは背景として描写されているわけで、余白としてとらえているのか?と言われると、私はそうなのですが…となってしまう感じです。なぜでしょう。多分、この余白の部分をきちんと説明しようと思うと、その写真の構図というものを解剖して説明するということになるからだと思います。前に書いたように、私はまだ構図の部分は特に、ブラックボックスに手を突っ込んで引き出す、という繰り返しが多いため説明が難しいのです。いいなと思う構図をとらえる力は、大多数の人は非言語的な感覚なのだと思います。

そういう感覚を、『美的感覚』の有無という言葉で表現するとややこしいことになります。私は『美的感覚』を持っています。しかしそれは人によっては持っている持っていないとか優れている優れていないとかいうものではないと考えています。『美的感覚』というのは、「自分が美しいと感じるセンサーを”持っていること”を自覚している」かどうかというポイントだと思っています。なので、この『美的感覚』という言葉に対して一般性を持ち込んだり、逆に外の一般的な尺度のひとつとして持ち出したりすると、意味のギャップが生じます。私もあなたも『美的感覚』を持っている。しかしそれを互いに比べて優劣をつけることはできません。見せ合って、感じ合うことはできる。

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この椿の写真は花の点景、椿の葉っぱは艶々して好きなので主題はこの二点(ほぼ一点の塊)、他は余白。こうして見ると/こういう形で二分割になっている。右下は完全な空白ではなく、背景のぼけた線でバランスをとっている…とぼんやり分解はできるのですが、これは余白が気持ちいい写真なのかと言われると。いや気持ちいいな、なんでだろう。背景のじぐざぐ(階段?)の線が、余白の中にも線形の流れをつくっているから?流れというより、構造かしら。主題に比べると気が行くのは1/10以下だけど、無理やりじっくり見るとそんな風に感じる。結果的に、私はこの写真がなんとなくバランスよく感じている。自分にとって。

点景が最も余白を生み出しやすいのは明らかなのですが、では線景写真はどうだろうと考えてみます。線景というのは線(ライン)状によって形状もしくはパターンが描写されるもの、もしくは境界が描写されるもの、と認識しています。かつそれが主題であること、か。線景なんて言葉は勝手に作りました。

線景が主題であるものの多くは、広角的な撮り方をした、つまり建築物などのパースなどを活かした写真が多いように感じます。

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これなんかはモノクロなので、よりその形状、つまり線景であることが顕著です。これに余白はあるのかというと、あまり余白を感じません。主題の描写面積が広いからでしょうか。空間そのものを線景としてとらえているからかもしれません。対象としての線景ならまた余白が生まれたりするかもしれない。

ここまででも結構自分としては長々と書いてしまいましたが、それでも語りつくせません。というよりとらえきれない、といった方が正しいかもしれません。

願わくは、私のアップしている写真をみて、なんとなく感じてもらえればと思います。写真は自己の感応を見つめる作業とそれ自体を表現として習慣的に行っておりますので、最終的には自己満足なのですが、もし一枚でも何か気に入ってくだされば、それはそれでとても嬉しいです。私と感応する部分が似ているということですから。

言葉足らずに書きたいことを書き連ねたら、段落ごとの繫がりがだいぶあやうい感じになってしまいました。ちゃんとした文章を読み書きしていないことがよくわかります。しかしまた、これらの件については言葉にできそうなときに書き足したり、書き直したり、あらたに書き出したりしてみたいと思います。

それでは、よき写真生活を。

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