「頭が良い人,悪い人」 ―どうでもいいから,そんなこと
はじめに
研修医として1ヶ月過ごしました.
いろいろ思うところはありますが,総じて無難に過ごせています.
時折訪れる「書きたい!!!」という衝動的な欲求が湧きました.
その気持ちが済むまで筆を走らせてみたいと思います.
ネットの海を彷徨っていて,
ふと,こんな記事を見つけました.
まあ,言いたいことは分からなくもありません.
ですけど,納得できない点も多いです.
コメント欄に書こうとも思ったんですけど,あまりも長くなりすぎます.
というわけで,この記事とコメントを読んで思ったことを綴っていきます.
世の中にいる人「こんなひとたち」
世の中にいる「頭がいい」「頭が悪い」を語る人って大きく3つに分かれます.
学問として研究している人
純粋に興味がある人
商売に活用したい人
1については割愛します.2についても問題ないと思います.その人の中で「へぇ」という感覚が満たされたらそれでいいんです.
問題は3ですね.
「頭がいい人/悪い人は●●している/いない」という謳い文句で読者を惹きつけます.もちろん,わたしも惹きつけられました.だからこそいまこうやって記事を書いているんです.
しっかり見たことがないので断言はしませんけど,某大型掲示板の創始者とか,某心理学の論文紹介者とかがこの部類に入るんだと思います.
意外なことに,この3について考察・批判しているひとって少ないんです.
そういうわけで,今回の記事は3.について徹底的に見ていきたいと思います.
頭がいい人は●●!! 商法
ひとって,自分にとって都合がいい情報が集まりやすいようにできています.
それから,なりたい自分と今の自分を混同することがあります.さらに,多数派の意見がまともに見えてしまいます.
自分にとって都合がいい情報ばかり集まってしまうことを,確証バイアスと言ったりします.多数派の意見がまともに見えてしまうのはバンドワゴン効果の一種で,これがメディアで利用されるとアナウンスメント効果と呼ばれたりしています.
そんなことはどうでもよくて,頭がいいと思えていない「いま」の自分が深層心理に存在しているんです.簡単のためにそういう自分のことを「頭がわるい自分」と表現します.
そういう人は,自分にとって頭がいいと思える理想の他人を見ると「あの人みたいになりたい」と考えます.簡単のために,「あの人みたいな自分」のことを「頭がいい自分」と表現します.
さて,この状態のときに
「頭がいい人は●●」という情報を見たとしましょう.そうしたら次のような状態が起こります
自分が「頭のわるい自分」であることを否定する
自分が「頭のいい自分」であることを確信し,優越感に浸る
「頭のいい自分」が価値観の中心になり,ものごとの判断基準となる
異なる価値観に触れたときに拒絶反応が起こる
「頭のわるい他人」を攻撃する
さっきのサイトのコメントを見てみたら分かると思います.
特に「陰謀論」のくだりに注意して読んでみて下さい.
私もこのサイトの人と同じことを考えていた!!
このサイトの人は頭がいいんだよね!!
だから私も頭がいいんだ!!
こんな感じの思考であんな感じのコメントが生まれていると思いませんか?
そしてこれは,こうなります
(反対意見を見て)この人,このサイトの人と全然違うコメント書いてる
このサイトの人は頭がいいんだから,コメント書いた人は頭がわるい!!
もちろん,この逆もあります.簡単に書くと
私は頭がいいんだ!!
このサイトの人は私と違うことを言っている!!
だから,このサイトの人は頭が悪い!!
ですね.
正直なところ,どちらであっても一緒です.
「頭がいい人」「頭が悪い人」という物差しに固執しているのは同じです.
この商法のカラクリは,一言で言うと「優越感」です.
人間である前に動物として,生存本能で自分を優位に保ちたいという欲求があります.そして,その欲求が満たされているときに食欲や性欲にも匹敵するほどの快楽を感じることができるわけです.
頭がいい人は●●商法からの脱却
さっき書いたように,この商法は優越感を利用して行われています.
なので,
優越感を感じなければOKなのです.
人間が優越感を感じてしまうのは何故でしょうか?
そうです.他の人と自分を比較するからなんですね.
つまり,そもそも
他の人と自分を比較することを無意味
だと断じてしまうことこそが一番の対策になります.
当然ですけど,比較することが悪いのではありません.他人と比べるからこそ出てくるモチベーションもあるでしょうし,他人を比べたからこそ出てくるアイデアだってあるでしょう.
ですから,比較するときにはそれが健全な目的かどうかを考えたらいいと思います.それが単なる承認欲求だったらときには切り捨ててみるという提案です.
正解はありません
人間として生きていて「間違い」ってなんでしょうか.
実は人生に「間違い」って存在しないんです.
だってそうですよね?
人生に「正解」って存在しますか?
しませんよね?
正解が存在しないんだったら,そもそも問題として成立していないので「間違い」も起こりえません.「間違い」とは「正解ではないこと」ですから.
気づいた方もいるでしょうけど,話は繋がっています.
人と比べることって,正解を求めることなんですね.
間違いはあります
言っていることが違います!! 一体どういうことでしょうか?
人間は社会の中で生きます.
社会が動くためにはルールが必要です.
仮に社会のルールに従って動くことを正解と設定するのであれば.
社会のルールに従わないことが間違い
,となります.
極端なことを言います.
犯罪を犯すことは間違いですか?
犯罪を犯さないことは正解なのでしょうか?
それは誰が決めたのでしょうか?
わたしは日本に生まれて日本で生きています.
必然的に日本のルールに従って生きているわけです.
そもそも名前がある段階で,出生届が出されて戸籍に登録されている.
戸籍は戸籍法だったと思いますけど,それは日本の法律に従っています.
生まれた時点で日本の法律に従っているということなんですね.
よく,北海道とかでクマさんが人を襲う事件があります.
同じことをヒトがやったら殺人あるいは暴行・殺人未遂ですよね.
じゃあクマさん(犯熊!?)を書類送検しますか?しませんよね?
山におとなしく戻っていれば,お咎めないですよね?
人それぞれの正解/間違い
正解や間違いって究極的にはさっきから書いてるように存在しません.
ちょっと意味不明なことを言います.無視して下さい.
「頭の良い人」(A)から見たら「頭の悪い人」(not A)は頭が悪いですね.
ですけど,「頭の良い人」じゃない人(but A)が「頭の悪い人」(not A)だと断言できますか?
そもそも「頭の良い人」がAとも限らないし,AだったとしてもBやCでもいいかもしれないですよね.
そしてBやCという観点で見ればnot Aは望ましいということさえありえますよね.
そうなると,not AがAじゃないという理由だけで「頭が悪い人」と判断していること自体が
「頭が悪い」と言うことになりませんか?
さらに言ってしまえば,そもそもAを定義できないのであればnot Aだって定義できません.
ですけど,そんなことばかりも言っていられませんね.
なので,それぞれが設定します.
正解も採点基準も人それぞれです.
わたしの中での正解を,いくつかの分野でまとめてみます.
かなり脱線するので別の記事にまとめました.
本当に読みたいひとだけ読んでください.
普通に読み飛ばしてもらってOKだと思います.
結局どうすればいいのか
結論から言うと,どう向き合おうがいいんです.
だけど,自分が不幸にならないことだけは重要です.
「自分」の定義はヒトによって違うことを補足しておきます.
不幸の定義は人それぞれなので,事象だけを眺めたら結局のところどう向き合ったって正解と言うことになります.
ここでは大きく分けて3つ取り上げてみます.
無視:これは簡単ですね.その話題そのものを無視します.
俯瞰:双方の意見を集めて,比べてみます.これをしているつもりでも,できていないという人が多いです.わたしもその一人だと思います.
偏移:俯瞰とは逆に,頑なに立場をゆずらないことです.対立する相手にケンカを売る必要はありません.心の中で自分の考えを曲げないということでもOKです.
注意したいのが,
これらはつねにめまぐるしく変化しています.
別で書いた記事は,現在の私が「偏移」したり「無視」したりしているトピックです.ですが,今後の人生経験の中で「偏移」していたことを無視したり,「俯瞰」から偏移したり,あるいは「無視」していたことを俯瞰したりするのです.
自分にとって重要でない話題は無視しておけばいいですけど,やがてそれが必要になるときもあるでしょう.そういうときは俯瞰してみます.俯瞰した結果偏移すればそれもいいと思います.俯瞰したけどやっぱり自分には早かった.無視しようということもあるはずです.
まとめ
今までの内容をまとめます.
1.頭がいい人,について語る人のなかには商売目的の人がいる
2.商売が成立するのは,ヒトの優越感を刺激しているから
3.優越感も劣等感も感じなければ,そういう商法には引っかからない
4.ヒトと比べない.あなたの正しさとわたしの正しさは違います
ここまでお読みいただきありがとうございました.
思ったことを色々書いたり,研修医生活の中で学んだことを綴ったりしています.もしよろしければ今後ともお付き合いいただければ幸いです.
2022/04/29:初版
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