見出し画像

別れの切れ端

最近小さな別れが続いている。お店も人も。

別れに立ち会ったときに生まれてくるものを、みんなどう処理しているんだろう。別れと一口に言っても色んな種類や大きさがあって、いま私の世界で生まれているものは、すごい早さで流れてくる雲を眺めているときに感じるものに似ている。

別れるとその対象とはそれ以後の時間を共有できなくなる。そのため対象を介して生まれていた情緒は、嬉しいことも悲しいことも色んなこと含めて、そのときの状態で切断される。

別れのあと、例えば対象の情報を新たに得たとしても、情緒の切れ端は表面的な色味くらいしか変わらない。互いに時間を共有しないと、切れ端自体はもう成長しない。時間が経てば、また変わっていくけど。

別れの場面では軽々しい言葉は言えなくて、かといって大事な言葉も出てこなくて、棒立ちで空しく笑うくらいしかできない。そんなことを繰り返しているうちに、見送る側だったはずの自分の場所がいつの間にか変わってしまっていることに気がつく。

別れといえば漫画「ベルサイユのばら」に出てくるロザリーを思い出す。ロザリーは色んな事情からオスカルの家に住むことになってオスカルに可愛がられ、また色んな事情があって家を去ってしまう。別れの場面でオスカルはロザリーのことを「私の春風」と例えて見送る。

別れがぜんぶ、春風だったらいいのに。もしそうなら今日の真夏みたいな日差しも、感傷に浸るだけのいい材料になったのに。現実はいろんな色の切れ端でがんじがらめになって日に焼かれている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?