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甲冑好き集まれ! @トーハク

前回note『国宝の太刀あります @トーハク』で記した刀剣を見て回ったのと同じタイミング、2023年5月26日現在に東京国立博物館(トーハク)に展示されていた、甲冑や具足を紹介していきます。刀剣と同じように、甲冑もトーハク本館(日本館)の1階と2階に分けられています。

ただし1階には、1領の江戸や明治時代に復元された1領の大鎧が展示されているだけです。ほか多くは2階の奥の方に収められています。

その本館2階の「5」か「6」室の正面にデンッ! と展示されている大鎧からして、ちょっとオーラがすごいです。ただしその鎧は、撮影禁止のため、あまり近づかないようにしました。カメラを持ったわたしが近づくと、監視の方が緊張するのが分かるんですよね……「コイツ、撮るんじゃないか?」って。

その代わりにじっくりと拝見したのが、2領の具足……《紺糸威六枚胴具足》と《白糸威二枚胴具足》です。

左《紺糸威六枚胴具足》、右《白糸威二枚胴具足》
左《紺糸威六枚胴具足》江戸時代 18世紀・澤木昌子氏寄贈

■藤原金久さんが作った《紺糸威六枚胴具足》

紺糸威こんいとおどし六枚胴具足どうぐそく》は、おそらく寄贈者の江戸時代の先祖・澤木氏正(?)さんが発注して、筑前の住藤原金久さんという方に作らせたもののようです。澤木氏正さんというのをググってみましたが、そうした人の名は見つけられませんでした。

一方で「藤原金久」をネット検索してみると、江戸時代初期の山城国の甲冑師と記したサイトがありました。今回の甲冑は「筑前(福岡県)住」とあるので別人なのか、もしくは師匠と弟子の関係にあるのかもしれません……が、いずれにしても、この人! という方は見つけられませんでした。

兜は、西洋甲冑の影響を受けた桃形兜ももなりかぶと。兜や胴の表面を錆地にして、なんだか百戦錬磨な雰囲気ですが、江戸時代の作ということで、実際には使われずに終わったことでしょう(断定は出来ませんが…)。

■サザエの変わり兜

もう一つが、サザエ(栄螺)の形をした兜が注目される《白糸威しろいとおどし二枚胴具足》です。なぜサザエ? とも思うのですが、これは「丈夫な殻が堅い守りに通じることから」戦国武将から、縁起物とされていたそうです。

《白糸威二枚胴具足》江戸時代・17世紀

そのサザエの兜を背後から見ると、その形が『おしりたんてい』のキャラクター、怪盗Uの頭にしか見えませんでしたw。

胴は、西洋の甲冑を模した「南蛮胴」のような形です。素材は、まさか鉄ではないでしょうけど。

■楠木正成の重臣・恩智左近(所用と伝わる)腹巻

さらに「おぉ〜、これは!」と思ったのが、楠正成の重臣の恩智左近が用いたと伝わる《熏韋包腹巻(ふすべがわづつみのはらまき)》です。難読漢字ですね。

《熏韋包腹巻(ふすべがわづつみのはらまき)》

近づいてみるとボロボロなのですが、ボロボロだからこそ、この14〜15世紀の鎧が、素材の革の質感がケース越しでもよく分かります。

解説パネルには「胴と草摺の札を熏韋(ふすべがわ)で包み込んで、 浅葱色の木綿の組紐を用いて菱綴(ひしとじ)しています」とあります。なにを言っているのかわかりませんが……w なんとなくは分かりますね。

「本作は、楠正成の重臣の恩地左近が用いたと伝わり、肩上や押付板に刀傷が残っています」とありましたが、どのあたりにあるのかは、確認できませんでした……どこだろ……。

それにしても、背中がバサァ〜っと左右に開いているのは、革が縮んでしまったからなのか、それとも元々こうしたものなのか。背中を刺されたらおしまいですね。

■《紺糸威烏帽子形兜(こんいとおどし えぼしなりのかぶと)》

その他にも《紺糸威烏帽子形兜(こんいとおどし えぼしなりのかぶと)》などの兜がいくつか展示されていました。こちらは江戸時代・18世紀に作られたもの。

《紺糸威烏帽子形兜(こんいとおどし えぼしなりのかぶと)》江戸時代・18世紀

「烏帽子の中で最も格が高い立烏帽子を模した変わり兜」だとあります。さらに「鉄製の本体に革でつくった立烏帽子を被せ」ているそうなので、頭に装着したら重たそうですね。

色合いが豪華なのは「表面に粗い麻布を貼って漆で塗り固め、金箔押で飾ってい」るからです。後頭部から首にかけてを守る 𩊱(しころ)や、面具の垂も金箔押としています。いったい誰の兜なんでしょうか。

■恩地左近のこと(メモ)

恩智左近と言えば、南北朝時代の楠木正成に従った8人の家臣(八臣)の一人として名が知られているそうです。ただし資料が少なく、実際にどんな人だったのか、不明な部分が多いです。

そんな中で見つけたのが、四條畷楠正行の会が発行したプリントPDFです(四條畷=しじょうなわて)。そこにも資料は少ないとしながらも、知識ゼロのわたしからすると、詳細が記されていました。

それによれば、恩智左近とは一般的に恩智左近満一のことを差します。現在の大阪市八尾市(やおし)のあたりの豪族で、恩智神社の社家・恩智貞吉の子孫と言われています。つまり平時は神主であり、戦時には武将として戦ったということ……なかなか忙しいですが、個人的な推測としては、この頃の武将は、いずれかの神社の神主であった……または兄弟などを支配地の有力神社の神主にしていたのではないかと考えています。そのため、恩地左近についても、彼が直接神主だったというよりも、親族の誰かを神主としていたのではないかなと。

この恩智という地は、東に信貴山があり、その登り口にあたる場所です。信貴山の麓には、恩智神社があり、現在は八尾市恩智中町の街中には、恩智左近満一が築いたとされる恩智城の跡が残っています。

1333年(元弘3年、正慶2年)の楠木正成が千早城に籠城した際には、一緒に立てこもり、敵陣を夜襲するなどの活躍を遂げたそうです。翌年の建武元年には、飯盛城を攻撃。1336年(延元元年)の湊川の戦いで楠木正成が戦死すると、その息子の楠木正行に従い、1348年(正平3年)には四條畷しじょうなわてに出陣し、正月5日に戦死したと伝えられるそうです。

ただし、恩智左近満一の伝墓には、「不幸にして 延元二年(一三三七)六月熱病のため急死した」と記されているそうで、真相はこちらなのではとも思いますが、随分と年月が異なりますね。

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