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【フィールドワーク】上野の寛永寺の通常非公開エリアに入らせていただきました

先日、上野の東叡山寛永寺に参拝してきました。東叡山寛永寺と言っても、東京の人ですら「知らないなぁ……どこにあるの?」という人がほとんどだと思います。寛永寺の現在の中心地……根本中堂があるのは、上野の山……東京国立博物館(トーハク)の西側であり、東京藝術大学の北側に位置します。

東叡山寛永寺の根本中堂

東叡山寛永寺は、名前に「東の叡山」とあるとおり、京都御所を守護する滋賀の比叡山にならって、江戸城を守護するために寛永年間に作られました。比叡山延暦寺が京都御所の北東……鬼門にあるのと同様に、東叡山寛永寺も江戸城の鬼門にあります。

作ったのは、徳川家康の親友の天海僧正で、比叡山と同じく天台宗です。現在は天台宗の別格大本山という格ですが、江戸時代には上野の東叡山と、比叡山と日光山を管掌する、輪王寺宮が座していた寺になります。ちなみに途中からは、浅草の浅草寺も、寛永寺の管理下に入っていましたし、芝の増上寺や日光の輪王寺とともに徳川家の菩提寺でもありました。

境内や建物のあちこちに徳川家の三つ葉葵の紋が見られます

現在の東叡山寛永寺の根本中堂を見ると、「比叡山にならって作られたにしては、随分と小さな」という印象を受けると思いますが、江戸時代には現在の上野公園の全体が、寛永寺の境内(というのか?)でした。つまり、現在の東京国立博物館や国立科学博物館、国立西洋美術館や東京都美術館、東京文化会館や上野の森美術館、国立子ども図書館、東京藝術大学、2校の区立中学校と都立上野高校、上野動物園をはじめ、細かく言えば野球場や不忍池なども東叡山寛永寺の境内でした。その中には子院も多く、上野の山から浅草に至る広い範囲には末寺がありましたから、そうとう大きな寺だったと言えるでしょう。

ですが、明治維新の時に薩長を中心とした西軍が、上野の山に立てこもった幕府方の彰義隊と戦ったことで、東叡山寛永寺の堂宇のほとんどが焼失してしまいました。その後、東叡山寛永寺は大幅に縮小されて……そのうえ関東大震災や第二次大戦の被害が重なり、現在は上野の山の中にぽつりぽつりと、その名残が見られるだけになりました。

一立斎広重『東都名所 上野東叡山全図』,蔦屋吉蔵. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1302538
上野の山にぽつりぽつりと残る寛永寺の関連堂宇

そんな東叡山寛永寺には、通常は公開されていない非公開エリアがあります。なぜ非公開なのかと言えば、現在の寛永寺は狭いうえに、当然ですが現役の寺なので、法事やらなんやらで実際に使われているからです。そこに観光客が入っていくと、まぁ管理しきれないでしょう……ということが、行ってみて分かりました。

ということで、年に数回だけ非公開エリアを特別参拝できる機会が設けられています。ただし……応募者が多いので、抽選となり、なかなか当たりません。わたしもここ数年で4回くらい応募しましたが、落選しつづけました。そんなある日……台東区の小学生を対象としたイベントで、寛永寺の非公開エリアを見学できることになりました。「息子よ、父は寛永寺という寺に行ってみたい。そのために一緒に行ってほしい」とお願いして、ようやく了解を得て行くことになりました。

根本中堂
写真は春に行った時のもの

午前中に根本中堂の本堂前に集合。普段は本堂の中にも入れたと思いますが、現在はリニューアル工事中ということで秋頃まで入れないようです。そのためか、ボランティアガイドによる寛永寺の歴史解説を、木陰に入って聞きました。

それから本堂の裏にあるお坊の中に入っていきます。日曜日ということもあり、いくつかの家族が法事を執り行っていました。檀家の人たち以外には公開されていない建物であり、幕末の大政を奉還して、鳥羽伏見の戦いで敗れた徳川慶喜公が江戸に逃げ帰って、謹慎した場所……を復元した部屋がある場所です。

本堂裏にある建物……の名称は分かりませんが、徳川慶喜公が謹慎した葵の間があります

少しややこしいのですが……東叡山寛永寺の根本中堂は、元禄十一年(1698)に、現在の上野公園の大噴水のある場所に建てられました。ただし徳川慶喜公が、鳥羽伏見の戦いの後に江戸に帰ってきて、謹慎する場所として選んだのは、当時の根本中堂ではなく、子院である大慈院でした。そして「大慈院で謹慎されている徳川慶喜公を我らが守る!」ということで、寛永寺に集まった……主に幕臣たちによって結成されたのが彰義隊です。察するに徳川慶喜公にとっては、とても迷惑な話だったように思いますが「こりゃまずい……このままでは戦争になる」ということで、徳川慶喜公は、この大慈院も脱出して謹慎の場所を水戸(茨城県)へと移します。それでも戦いは回避できず、西郷隆盛らの指揮する西軍との戦いが始まり(上野戦争)、上野の山……寛永寺の多くの堂宇が失われることになりました。

この上野戦争の開戦前に、渋沢栄一の養子が上野の山から逃れますが、途中の残党狩りで命を落とすことになった経緯は、数年前の大河ドラマで描かれていました。

その後、ほとんどの堂宇が焼失した寛永寺は、境内地を没収されたのでしょう。輪王寺宮という、寛永寺を権威付けしていた宮様もいなくなりましたし、しばらく根本中堂も再建されませんでした。そんな中で渋沢栄一が中心となって……と、わたしは聞いた気がしますが間違っているかもしれません……旧幕臣により根本中堂を再建しようという機運が高まります。明治十二年には、徳川慶喜公が謹慎されていた大慈院に、川越の喜多院にあった本地堂を移築。現在の根本中堂になっています。

本堂裏にある葵の間のある建物……これも喜多院からの移築でしょうか……少し新しい建物のような気もしますが……不明です

さて、喜多院から移築された本堂の裏手にある建物に、初めて入りました。古い建物のような……新しい建物のような……建物に関する詳細な解説はなかったかと思いますが……わたしも聞き忘れてしまいました。

とにかく廊下を進むと、エアコンのギンギンに効いた涼しい部屋に通されました……そこが、徳川慶喜公が謹慎されたという葵の間です。二間で十数畳ほどの広いとは言えない部屋でした。ただし、間取りも含めて、徳川慶喜公が謹慎された往時を、忠実に再現したわけではなさそうな説明でした。実際はもう少し広かったようなことを言っていた気がします。

非公開エリアの撮影は禁止だったので、写真は撮っていません。とはいえ上記サイトにキレイな写真が掲載されています。感想としては、なんで忠実に再現しなかったの? という感じですが、部屋自体よりも部屋にあった徳川慶喜公の遺品の方がはるかに価値が高いように思いました。

最も「ほほぉぅ」と思ったのが、徳川慶喜公が書いた「徳川家康公御遺訓」です。この前の大河ドラマ『青天を衝け』や『どうする家康』でも、この御遺訓について語られていたかと思います。そのほか、浅田次郎の『五郎治殿御始末』でも触れられているんじゃないかなぁと。「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくが如し 急ぐべからず」で始まる、とても有名な文章ですね。

寛永寺根本中堂チラシより

人の一生は重荷を負いて遠き道をゆくが如し
いそぐべからず
不自由を常とおもへば不足なし
こころに望(のぞみ)おこらば
困窮したる時を思ひ出すべし
堪忍は無事長久の基(もとい)
いかりは敵とおもへ
勝つ事ばかり知りて まくる事をしらざれば
害その身みにいたる
おのれを責せめて人をせむるな
及ばざるは過すぎたるよりまされり

本当に徳川家康公が書いたのか分かりませんが、この年になって改めて読んでみると、心に沁みる言葉です……。

徳川慶喜公は、幼い頃から英明で知られる人だったといいます。そんな彼が、時代の流れに鈍感だったわけもありません。自身が将軍職を継ぐことになった時には、この先は幕府が成り立たないことも分かっていたでしょう。それでも30歳前後で征夷大将軍を拝命。翌年には、西郷などの薩長を出し抜き大政を朝廷に奉還し、徳川幕府を終焉させます。そんな徳川慶喜公を逃さじと鳥羽伏見の戦いが勃発。徳川慶喜公は会津、桑名の藩主兄弟を連れて大坂城から船で脱出し、江戸へ逃れ、その足で寛永寺の大慈院にて謹慎することになりました。その時だったのでしょうか……先祖である徳川家康公が遺した訓示を書き記しました。31歳前後の慶喜公が、どんな気持ちで「人の一生は重荷を負いて遠き道をゆくが如し……」としたためていったのか。

この葵の間で興味深かったのは、壁紙に双葉葵……名称は忘れましたが、三つ葉ではなく二つ葉の葵が描かれていることです。この双葉葵の柄は、もともと描かれていたわけではないそうです。

慶喜公が部屋を去った、ずーっと後の昭和11年(1936)に、鏑木清方さんが《慶喜恭順》という作品を描きました。葵の間で謹慎する慶喜公の姿を、想像して描いたという同作品の壁紙には、なぜか双葉葵の柄が描かれていました。この絵をもとにして、さらに後年に、葵の間を復元する際に、双葉葵の柄を採用したそうです←つまり、復元ではないような……。

さて、広くはない二間の部屋に謹慎していた徳川慶喜公に思いを馳せた後は、建物を出て、徳川将軍家の霊廟へ向かいます。こちらは普段は完全に人が立ち入れない場所になっています。ただ、霊廟の入り口とも言える門……勅額門は、いつでも誰でも敷地外から見られます。今は常時門が閉じられていて、公開時にも門を通ることはできません。おそらく将軍が墓参する際にしか開かない門だったのではないでしょうか。

徳川綱吉霊廟勅額門
重要文化財
徳川綱吉霊廟勅額門
重要文化財

この立派な石垣と門で囲まれた非公開エリアには、脇の小さな門から入っていきました。中は撮影禁止です。理由は分かりませんが、この霊廟は、現在も続く徳川宗家や寛永寺の私有地だからでしょう。ただ、メディアなどではよく取材されていて、中の様子が撮影されているので、少しググれば、どんな場所なのかを知ることができます。

中は、スギやモミジが植えられた森のような雰囲気です。小石が敷き詰められた小道をザッ……ザッ……ザッ……と進んで行き、最初に案内されたのが生類憐みの令で著名な徳川綱吉……常憲院殿が埋葬されている銅製の宝塔でした。先程の勅額門よりは小ぶりな門の先に、その宝塔が立っています。門の中には入れませんが、その宝塔の中に、綱吉公が座ったままで埋葬されたと言われているそうです。

また道を戻り、別の道を歩いていきます。次に案内されたのが、わたしたちの世代では「暴れん坊将軍」として有名な徳川吉宗公の宝塔です。こちらは、綱吉公のとは異なり石で作られています。説明によれば、当初、吉宗公は、自身の霊廟を作ることなく、綱吉公の宝塔の中に埋葬するように命じた(?)のだそうです。その後、後代の将軍が吉宗公専用の宝塔を建てたと言われます。

ちなみに、「墓」と「御霊廟(ごれいびょう)」とは異なるものなのか? と、寛永寺の執事の方にうかがったところ、「お墓のようなものだけれど、通常のお墓とは異なり、埋葬されている宝塔だけでなく、今はなくなってしまったけれど、周囲に作られた建物群と合わせたものです」といったようなことをおっしゃっていた気がします(わたしが、どれだけ正確に聞き取れたかは自信がありません)。

参拝者チラシにあったご霊廟の見取り図
現存しているのは「勅額門」と各「宝塔」、それに宝塔の前にある「中門」のみ
常憲院=五代・綱吉公
有徳院=八代・吉宗公
温恭院=十三代・家定公
天璋院=十三代・家定公の妻・篤姫
ちなみに孝恭院=十代・家治公の嫡男……だが、早逝のため将軍位を継いでいない

続けて「そのご霊廟というのは、天台宗の何かにのっとって作られたものなのか、それとも神道などの形式で作られたものなのか?」と尋ねたところ、「いや、むしろゴリゴリの天台宗の形式で作られています」とのことでした。「では日光の東照宮とはまた異なる? 綱吉公などと同じような作りのご霊廟は、ほかにもあるんでしょうか?」……増上寺は天台宗ではなく浄土宗なので違いますよね……と聞くと、「う〜ん……むしろ日光にある三代将軍の家光公のご霊廟、大猷院(たいゆういん)が同じ形式です」と、おっしゃっていた気がします。「全く同じ」とおっしゃったのか、「似た形式」というニュアンスでおっしゃったのかは分かりません。

三代将軍・家光公のご霊廟、大猷院(たいゆういん)と同じ形式ということで……たしかに大猷院(たいゆういん)は、天台宗である輪王寺にあるのですが……パッと見た感じは「相の間造り」という、わたしには権現造りと見分けのつかない神道の神社のような……中門を入ると拝殿があり、拝殿と本殿とを渡り廊下のような相の間で繋げた造り。江戸初期の天海僧正なのか、その直弟子なのかが考えた神仏習合の形式なのかもしれません。というのも、それが江戸当時にあっても伝統的と言える天台宗の形式であるというなら、徳川家以前のご霊廟にも採用されているはずだと思うんですよね(でも例示されなかった)。

ということで、常憲院=五代・綱吉公のあとに、有徳院=八代・吉宗公のご宝塔を見て、最後に温恭院=十三代・家定公と天璋院=十三代・家定公の妻・篤姫の並んで建つ御宝塔に手を合わせて終わりました。

ちなみに少し離れた場所には、厳有院=四代・家綱公と浚明院=十代家治公、それに分恭院=十一代・家斉公の御霊廟もありますが、こちらは完全に非公開のエリアということで行っていません。

参拝チラシより
江戸時代の御霊廟周辺の地図。上が南で、下が北。
今回行ったのは、「大慈院(現・根本中堂)」や、「二之御霊屋」と記されているエリア。地図左側にある家綱公などを祀る「一之御霊屋」のエリアは、大半が墓地になっていますが、各将軍の宝塔だけは残されていて、こんもりと森になっています。
上の地図で家綱公などを祀るエリアの入り口である門。寛永寺の本坊があった、東京国立博物館の真裏に位置します。右の塀から見られるこんもりとした林の中に家綱公などの御宝塔があると思われます。

ということで、今回はこれにて終了です。上野戦争や関東大震災、それに太平洋戦争と、様々な災禍によって元のほとんどの建築群を焼失してしまっていますが、一度は見てみたいと思っていたエリアが見られて良かったです。

来年は、東叡山寛永寺の創建400周年にあたるそうです。それに合わせて根本中堂の本堂には、東京藝術大学名誉教授・福井県立美術館特別館長である、日本画家の手塚雄二さんの《叡嶽双龍(えいがくそうりゅう)》が、天井画として奉納されるそうです。次は、この絵を見に行けたらと思います。

手塚雄二《叡嶽双龍(えいがくそうりゅう)》
手塚雄二《叡嶽双龍(えいがくそうりゅう)》部分

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