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国宝『聖徳太子絵伝』……蘇我氏(仏教推進派) vs 物部氏(排仏派)の壮絶な闘い(中編)

東京国立博物館トーハクにある、法隆寺宝物館には、明治時代に法隆寺から皇室に献納された、約300件の宝物(法隆寺献納宝物)が収められています。

そんな法隆寺宝物館に、新たな常設展示室「デジタル法隆寺宝物館」が、2023年1月31日に開室しました。展示期間がかなり限定されてしまい、なかなか見られない貴重な絵画作品の、複製品を展示するためのスペースです。

さっそく、現在展示されている『国宝 聖徳太子絵伝』の原寸の複製品を、観覧してきました。その中編です。

■聖徳太子の逸話が5面にバラバラに描かれている

『聖徳太子絵伝』の三組目から見ていきます。同絵伝は、聖徳太子の誕生から薨去こうきょまでを、障壁画に描いたものです。現在は5組10面に分割されていますが、元あった場所である、法隆寺の絵殿にあった時には、どんな風に設置されていたんでしょう。おそらく、現在のように分割されていなかったのでしょうね。

前回記した通り、トーハク版の『聖徳太子絵伝』は、5組10面に、聖徳太子の逸話がばらっばらに描かれています。

一番右側の一組目の右上から左側に向かって、聖徳太子が歳を重ねるように描かれているわけじゃないんです。例えば、日本…大和朝廷と、百済との関わりを記した逸話だけを書き出すと、下記の通りになります。

二組目 数え6歲(576年)「大別王が、経典や僧尼を百済国よりもたらす」
五組目 数え12歲(583年)「難波館において百済国より米朝した僧の日羅に会う」
二組目 数え13歳(584年)「蘇我馬子が百済国からもたらされた弥動菩薩像を安置する」
三組目 数え17歳(590年)「百済国より公舎利が献上され、各種の工人が来朝する」
五組目 数え22歳(595年)「四天王寺を建立する」
三組目 数え25歳(598年)「法興寺が落慶」
一組目 数え26歲(599年)「百済国王の使者阿佐王子が来朝する」
三組目 数え28歳(601年)「百済国、駱駝・驢馬・¥・白遅を献ずる」
五組目 薨後2年(623年)「新羅・任那国の使いや中国僧が来朝」

このように、一見して、脈絡が煩雑な絵伝となっています。ただしそれは「絵伝とは、右から左へと編年で描かれる」とか「テーマごとにまとめて描かれるもの」いう、現代的な常識で見ているから、そう感じるだけかもしれません。描いた、またはプロデュースした当時の人からすると、これが、しっくりとくる描きかたなのでしょう。

■仏教の普及と、排仏派の一掃を描く三組目

三組目…5面と6面

三組目は聖徳太子が数え17歳の時(591年)に「百済国より公舎利が献上され、各種の工人が来朝する」という話から始まります(我々の常識で考えると…ということです。以下同)。

聖徳太子が…というよりも、仏教推進派で、聖徳太子の叔父にあたる蘇我馬子そがのうまこなどが、本格的な寺院建設を前に、百済くだらの工人などを呼び寄せたのでしょう。

その後、五組目では四天王寺、同じ三組目では法興寺が建立されることになります。

百済くだらの工人が来朝
百済くだらの工人や僧侶が来朝

少し強面の僧侶が数名、並んでいるのが印象的です。工人…は、よくわかりませんがでしたが、日本で言えば、大工さんほかということでしょうか。絵師や仏師なども居たのかもしれません。

そして下の数え25歳の時(598年)には、3年前の四天王寺に続いて、法興寺(現:飛鳥寺)が落慶。「無遮大会(布施の儀式)」が開かれたと解説にはあります。

コトバンクでは「 蘇我馬子が創立した日本最初の本格的な寺院で,百済から招いた工人らが参画して,596年(推古4)ほぼ造営を終えた」としています。官立ではなく、あくまで蘇我馬子が開山したようですが……となると、なぜ『聖徳太子絵伝』に記されているのか謎ですよね。

もし同絵伝が聖徳太子の偉業を伝えるために作られたなら、607年に建立されたとされる法隆寺(当時:斑鳩寺)を描けば良さそうなものです。(※法隆寺は、四組目…第7面に斑鳩宮や広隆寺として登場します)

法興寺

上が法興寺です。門を入ると、まずは塔があり、その一直線上に本堂が配置されています。後年の寺院よりも、伽藍のなかでの塔が重視されていたことが分かります。

法興寺

今まさに法興寺の門をくぐろうとしている、青い服を来た少年の顔が、なんだか楽しそうです。また塀のそばでは将棋のようなもので遊んでいる人たちや、門前で喧嘩している人たちもいて……まぁなんか賑わっているなという感じです。

法興寺の右
法興寺の門前

そして法隆寺(当時:斑鳩寺)が造営された数え28歳の時(601年)には、百済くだら国から、駱駝らくだ驢馬ろば、羊や白いきじが献上されました。絵伝はあくまで絵伝でしかないのか…それとも、実際に百済国から「献上」されるような関係だったのかは不明ですが、前年には新羅征討の軍が派遣されています。

百済国からの使者

その時に征新羅大将軍に任命されたのが、聖徳太子の実弟です。ただし、送り出されて九州に着いた後に病死。朝鮮半島に渡ることはありませんでした。

そして今回の、百済国からの駱駝や驢馬の献上です。

それが関係したかは分かりませんが、602年にも、聖徳太子は別の弟を征新羅大将軍に任命して送り出しています……なのですが、こちらの弟は、播磨国の明石あたりまで行ったところで引き返したようです。

百済国から駱駝らくだ驢馬ろばが献じられる

おそらく上の写真が「駱駝らくだ驢馬ろば」なのですが、驢馬は良いとして、駱駝が……青系の毛なのか肌の馬のようです。

でも、献上されたということは、当時の朝鮮半島には、駱駝や驢馬が居たということでしょうか。それとも、輸入していたのでしょうかね。

いずれにしても、駱駝も驢馬も、その後の朝鮮半島や日本では定着しなかったということ。気候が合わなかったのか、あまり役に立つと思われなかったのでしょうか。中国由来の水墨画には、驢馬がよく描かれていますが…。

十七条憲法

数え33歳の時には、聖徳太子の逸話の中でも最も有名と言っていい「十七条憲法」が、制定されたと絵伝には記されているようです。

ここで気がついたのですが、『日本書紀』によれば十七条憲法が制定されたのは、聖徳太子が数え31歳の604年とされています。これ以外にも『日本書紀』との違いがよく見られます。

いずれにしても当時は推古天皇の時代であり、摂政の聖徳太子は、蘇我馬子とともに、推古天皇を補佐していました。十七条憲法の制定に、聖徳太子が、どれだけの役割を果たしたのか、気になるところです。

ちなみに、「憲法十七條」は「いつくしきのりとをあまりななをち」と読んだようです。なんだか神社の祝詞のりとのような読み方ですね。

小野妹子を随の衝山こうざんへ派遣

数え36歳の時(609年)には、小野妹子を随の衝山こうざんに派遣したと、絵伝には記されているようです。当時の中国は、後漢のあとの随だったんですね。いわゆる遣隋使と言われているものが、派遣されたということ。

ただし遣隋使も定説では、一度目が607年で、二度目が608年となっています。絵伝に記されている小野妹子の衝山こうざんへの派遣は、また別の話なのか……ということはないはずで、当然、衝山こうざんへ行ったのなら、随の都である洛陽らくようへも行ったはずです。

さて、派遣された衝山こうざんは、どんなところなのでしょうか。Wikipediaによれば「道教のみならず、仏教や民間信仰の聖地でもある。周囲にはお寺や廟・庵などが200以上あり」とされています。もちろん小野妹子は、日本での仏教推進を念頭にして派遣されたのでしょう。ただし、当時の中国でも、どれだけ仏教と道教や民間信仰とが、分離されていたでしょうか。おそらく、のちの日本でおこる神仏習合のようなことが行われていたでしょう。

衝山から持ち帰った手紙を火で燃やす(絵の右側)

この小野妹子を随の衝山こうざんへの派遣が、遣隋使とするなら、この時に小野妹子は「日出処の天子から 日没する処の天子へ」という手紙を、随の煬帝ようだいへ送った時になります。

小野妹子は、煬帝ようだいの使者・裴世清はいせいせいを伴って帰国します。ただし……煬帝ようだいからの返書を、百済(朝鮮半島)でなくしてしまうという大失態をしています。なのに、小野妹子が罰せられたという事実はなさそうです。

そして『日本書紀』によると、裴世清はいせいせいが持ってきた書には「皇帝問倭皇」……「(随の)皇帝が倭皇に問ふ」と記されていたそうです。「」とは、言うまでもなく日本というか日本列島の蔑称ですが、随の皇帝が「倭“皇”」と書くはずがないので、実際には「倭王」と記してあったと思われています。

一方、『聖徳太子絵伝』では、数え37歳の時に「小野妹子が衝山から持ち帰った手紙を読み、火に投じる」と解説されています。ん……『日本書紀』では、煬帝ようだいからの返書を百済でなくしたとある一方で『聖徳太子絵伝』では、衝山からの返書を、聖徳太子が燃やしてしまったようです。実際にはどうだったでしょうね。

随と対等に付き合おうと「日出処の天子から 日没する処の天子へ」と送った聖徳太子は、その随からの返書に「皇帝が倭王に問ふ」と、随が上だということを誇示してきたのが許せなかったのでしょうか。そして翌年に改めて小野妹子を随に派遣しますが、その時には「東天皇敬白西皇帝」……「東の天皇が西の皇帝に敬まひて白す」と送ったそうです。あくまで対等なお付き合いをしましょうと、念押しした形になります。

この当時の日中関係については、『聖徳太子が中国の皇帝に「日没する処の天子」としたためた理由』という、小学校の授業を取材したサイトが、わかりやすかったです。

百済国の味摩之みましが、伎楽ぎがくを日本に伝える

数え41歳の時には、百済国の味摩之みましが、伎楽ぎがくを日本に伝えたそうです。解説には続けて「桜井村で、童子に習わせる」とあります。補足すると、聖徳太子が桜井村に日本初の伎楽教習所(国立劇場)を作ったということです。

この桜井村がどこだったか? について、李応寿さんという韓国ソウルの世宗大学校の先生が、『伎楽の「桜井」考』(PDF)という論文で考察されていました。

太平洋戦争後に、この伎楽教習所……国立劇場は、奈良県桜井市の桜井小学校付近にあったと唱える方がいました。そして顕彰碑が建てられ、同市などは「芸能発祥の地」としています。それに対して、李先生は次のように記しています。

「もし私が、有史以来の韓国と日本の最初の演劇交流である味摩之(みまし)の伎楽伝来を記念する顕彰碑を建てるなら、それは、昔の桜井寺、すなわち現在の向原寺こうげんじの境内に建ててみたい。」

向原寺(こうげんじ/広厳寺とも)は、奈良県高市郡明日香村にあり、当時の都である豊浦宮の跡とされる遺跡が残っています。また蘇我稲目の住居である「向原(むくはら)家」とも言われ、もとは桜井寺と呼ばれていました。さらに『日本書紀』には「552年10月に、百済の聖王(聖明王)から献上された仏像を、蘇我稲目が小墾田の家に安置し、その後向原の家を浄(きよ)め捨(から)ひて寺とした」と記されているそうです。

また、その後に国内に疫病が流行したため、排仏派の物部尾輿(物部守屋の父)と中臣鎌子はこれを外国の神である仏像を祀ったことに対する日本の神の怒りであるとして、仏像を難波 (なにわ) の堀江に捨て、伽藍を焼き払ってしまったと、Wikipediaにはあります。さらにWikipediaの別ページでは、次のように記されています。

敏達天皇14年(585年)、病になった大臣・蘇我馬子は敏達天皇に奏上して仏法を信奉する許可を求めた。天皇はこれを許可したが、この頃から疫病が流行しだした。物部守屋と中臣勝海は蕃神(異国の神)を信奉したために疫病が起きたと奏上し、仏教の禁止を求めた敏達天皇は仏法を止めるよう詔した物部守屋は自ら寺に赴き、胡床に座り、仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に投げ込ませ、蘇我馬子や司馬達等ら仏法信者を面罵した上で、司馬達等の娘の善信尼、およびその弟子の恵善尼・禅蔵尼ら3人の尼を捕らえ、衣を剥ぎとって全裸にして、海石榴市(つばいち/現在の奈良県桜井市)の駅舎へ連行し、群衆の目前で鞭打った。

Wikipediaより
百済国の味摩之みましが、伎楽ぎがくを日本に伝える

ちょっとメモ書きが増えてしまったので、史実とされることと、『聖徳太子絵伝』に記されていることを、合わせて整理すると……

聖徳太子が数え41歳の時に作ったという伎楽教習所(国立劇場)。その場所として『日本書紀』に記されている桜井村というのが、明日香村の「向原寺」だったと仮定します。

その地は、もともと蘇我馬子の父親である蘇我稲目が、住居を構えた場所……もしくは近隣の場所でした。推古天皇が都と定めた豊浦宮や小墾田宮とも深い関係にある場所です。聖徳太子が数え13歳の時に、蘇我氏はその場所に仏像(弥勒菩薩像)を祀り、桜井寺……もしくは向原寺……という名前の寺院を建立した。だけれど、数え14歳の時に物部守屋などに焼き討ちされてしまう。この時に善信尼など3人の尼僧が引きずり出されて、海石榴市(つばいち)で全裸にされて鞭打たれた(法衣を剥ぎ取られただけかも)。なぜ海石榴市(“つば”という名前のいち)という商店街で鞭打ったかと言えば、ここが難波津(大阪湾)から大和川を舟でやってきた外国使節が、上陸する場所だったからかもしれません。栄えている上に「大和朝廷は仏教を信奉しない」という宣言にもなる。そこから情勢は一変して、排仏派の敏達天皇が崩御し、父の(おそらく蘇我氏と親しい)用明天皇が即位。数え16歳の時に、蘇我馬子とともに(敏達天皇崩御により)勢力が弱まった物部守屋などの排仏派を撃破。ただし同年には、父の用明天皇が崩御。続く崇峻天皇は蘇我馬子によって暗殺される。そして、ついに数え19歳で、蘇我馬子と聖徳太子仏教信奉派の推古天皇を戴冠させる。その後は四天王寺や法興寺などを建立するなど、仏教の布教を推進していく。そして、数え41歳の時に、かつて排仏活動で焼き討ちされた桜井寺(現:向原寺)を復興させて、童子に伎楽を学ばせたということになります。

そして唐突な気がしたのですが、数え43歳の時には、「犬と鹿の争いを見て、輪廻の苦しみや宿業しゅくごうの深さを悟る」と解説パネルにはあります。なんのこっちゃ? なのですが、ネットを検索してみると、平安時代に成立した『聖徳太子伝暦でんりゃく』に、詳細が記されているといいます。

大略、次のようなことだったそうです(出典ブログ:『真相は夢が教えてくれる』)。

「聖徳太子が家来を連れて、ある場所を通ったところに、鹿がいました。連れていた家臣の犬が、その鹿に噛み付いて足を折ってしまった。聖徳太子は鹿を治療して、放してあげます。後日、また同じ場所で鹿と出くわすと、また犬が鹿に襲いかかり、今度は鹿が死んでしまいました。聖徳太子は心を痛めつつ、これは何かの暗示ではないかと、夢殿にこもります。すると夢の中に僧が現れて、犬と鹿の一件についての説明を始めたそうです。

あれは過去の行いの現れで、鹿は正妻で犬は側女なのです。その正妻がまずは、側女の子供の足を折り、側女は999回生まれ変わっても恨みに思い、1,000回目の今回、やっと恨みを晴らしたのです」

絵伝の解説にあった「輪廻の苦しみや宿業しゅくごうの深さを悟る」とは、「嫉妬からきた深い恨み」についてだったということ。

ここで、韓国の元大統領の朴槿恵さんが、対日外交に言及した際に、「加害者と被害者という歴史的立場は千年の歴史が流れても変わらない」と言っていたことを思い出しました。この時に、なんで千年なんだろうなと思ったのですが、こうした仏教(または道教など)の逸話が、ほかにもあるのでしょうね。

天に赤い色の雲が現れる。5面と6面の境の線の左側に、眉形の赤い雲が表されています

そして数え49歳の時に「天に赤い色の雲が現れて、聖徳太子や大臣が、これを怪しむ」とあります。

これを表現した記述が『日本書紀』にあります。

十二月の庚寅の朔に、天に赤気有り。長さ一丈余なり。形雉尾に似れり

『日本書紀』推古天皇二十八年(620年)

この一文について、国立極地研究所と国文学研究資料館が共同研究をしています。そして2020年3月16日に、研究成果としてプレスリリースを配信しています。そのプレスリリースには、上記『日本書紀』の一文が「日本最古の天文記録」としています。『日本書紀』における「赤気」が、『聖徳太子絵伝』における「赤い色の雲」なのですが、プレスリリースでは、この赤気が扇形オーロラだっただろうとしています。同時に、扇形オーロラが、どんな形状だったかも示しています。(プレスリリースはコチラ

その形状を見ると、『聖徳太子絵伝』にあるようなシュッと眉のような形の赤い雲では、なかったかもしれません。

■『絵伝』を描いた鎌倉期の絵師が伝えたかったこととは?

三組目(5面と6面)を振り返るだけで、また長い文章になってしまいました。もっとサクッと振り返るはずだったのですが……。どうにも、調べて知ったことを全て記載しておきたくなってしまいます。

『聖徳太子絵伝』を三組目(5面と6面)まで振り返ると、じょじょに絵が伝えようとしていることが分かってきたような気がします。正確には絵が伝えていることの裏にあることですね。

『聖徳太子絵伝』は、日本の仏教の黎明期を伝えるとともに、聖徳太子の偉業を顕彰するために描かれたはずです。描かれた場所が、聖徳太子の住居跡とも言われる、法隆寺の夢殿の裏側にある「絵殿えどの」だということからも、明らかでしょう。

日本では、大化の改新や鎌倉、室町、そして江戸幕府の開府と、幕末の戊辰戦争、太平洋戦争後など、社会がガラッと変わったエポックがいくつかあります。それらと同じかそれ以上の革新が、この仏教伝来から聖徳太子……というよりも蘇我馬子の時代におこったのでしょう。その後の日本を、方向付けた大事なポイントだったということ。

そうした革新は、往々にして痛みを伴うものでしょう。蘇我馬子、そして聖徳太子の時代も、天皇から庶民まで、多くの血が流れたようです。その痛みを何度も何度も乗り越えて、今の日本がある……ということを、庶民には辛い時代だっただろう鎌倉期の絵師は、伝えたかったのかもしれません。

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