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数年ぶりに展示されている国宝太刀「粟田口久国」@トーハク 〜後鳥羽上皇と刀工の話〜

すっかり新型●〇●を、気にする人も少なくなりました。特別展『国宝 東京国立博物館トーハクのすべて』が始まってからは、特に週末のトーハクは、とても混んでいます。

特別展『国宝 東京国立博物館のすべて』では、トーハクが所蔵する計89件の国宝が展示されます。ただし、トーハクの平常展で時々展示されている国宝の中には、特別展で展示されないものもあることに、気が付きました。

過去のnoteで紹介した(現在も展示されている)『白糸威の鎧しろいとおどしのよろい』もだし、現在、本館の13室に展示されている鎌倉時代の『太刀 粟田口久国あわたぐちひさくに 銘 久国(花押)』もそうですね。

『太刀 粟田口久国あわたぐちひさくに 銘 久国(花押)』鎌倉時代・13世紀(文化庁)

粟田口久国は、鎌倉時代の人。粟田口派の祖、粟田口國家の6人兄弟の次男坊です。詳しいことはWikipediaほかにも載っていません。ただ、後鳥羽上皇に御番鍛冶として召されたそうです。そして師範格の「師徳鍛冶」というのを拝命したそうですが、「師徳鍛冶」というのが、どの程度のランクなのかイメージできませんね。大隅権守おおすみごんのかみという受領名を授かった最初の刀工だそうです。

『太刀 粟田口久国あわたぐちひさくに 銘 久国(花押)』鎌倉時代・13世紀(文化庁)

ただ、後鳥羽上皇と言えば、NHKの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、尾上松也(2代目)が怪演していますね。源頼朝が鎌倉に幕府を開いてからは、政治の実権が鎌倉に移ってしまいました。後鳥羽天皇=上皇からすれば、平家とは異なり、遠くの鎌倉に拠点を置いて、そこから全国に政令を発している源氏を、憎たらしく感じていたとしても不思議ではありません。

さらに源頼朝、その息子の頼家や実朝など……いわば天皇家から枝分かれた家の者が取り仕切っているならまだしも、政治の実権は、北条家という(天皇家からすれば)陪臣(ばいしん・またもの)が握っているらしいじゃないですか。いわばどこの骨のものかも分からず、遠くの鎌倉に居て、ろくに挨拶にも来ないような北条家が、好き勝手に政治をしているのが許せなくなったのでしょう。

『太刀 粟田口久国あわたぐちひさくに 銘 久国(花押)』鎌倉時代・13世紀(文化庁)

特に後鳥羽上皇は、マルチな才能を備えた人。和歌も詠めて書も記し、さらに武芸にも秀出ていたそうです。

そういう優秀な人というのは、「オレならやれる」って思ってしまうんでしょうね。確かに北条義時や泰時(義時の息子)との一騎打ちであれば、勝てるかもしれませんが、戦争とは総力戦です。リーダー一人の武力が強くても、なんのタシにもならないものです。

結局、後鳥羽上皇は鎌倉幕府に対向して承久じょうきゅうの乱を興します。まぁ、執権の北条義時などの鎌倉方から挑発されて、立たざるを得なくさせられたということでしょう。おそらく、執権の北条家からすれば「しめた! これで京へ攻め込んで、一気に権力を鎌倉に集中できるぞ!」という感じだったでしょう。

『太刀 粟田口久国あわたぐちひさくに 銘 久国(花押)』鎌倉時代・13世紀(文化庁)

その承久じょうきゅうの乱を起こすまでに、後鳥羽上皇は、天皇家の近衛隊ともいえる北面の武士に加えて、西面の武士を新設するなど、軍事力を整えようとします。

一環として整備したのが、「御番鍛冶ごばんかじ」の制度です。|水無瀬《みなせ》という所にある離宮に、上皇の権威が及んでいる土地から、刀工を呼び寄せて、月番で作刀させたそうです。

御番鍛冶として、一文字派や粟田口派などの面々が集められます。その中で、粟田口久国と備前一文字延房の二人が「師徳(師匠)」に任命され、おそらく、それぞれの派を統括していったのでしょう。

さらに想像ですが、トンカントンカンと鍛冶師たちが作刀しているのを覗き見ていた後鳥羽上皇は、「ちんにも出来そうだなぁ」と思ったかもしれません。だって、この方は何でも上手にできちゃう超絶器用な人だったからです(朕は天皇の一人称なので、上皇が使ったかは不明です)。とにかく「オレもやりたい」となったのは想像に難くありませんし、実際に自身で鍛えた(作った)とされる「菊御作」の太刀も残っています。

『太刀 菊御作』トーハク蔵

ただし、後鳥羽上皇ですからね、それほど簡単に下々のものに直接お会いになれるわけがありません。

『太刀 菊御作』トーハク蔵
撮った写真では確認できませんでしたが、上皇作の太刀のなかごには、菊紋が刻まれました。それで『菊御作』とも言われるようになりました。(写真は東京国立博物館より)

そこで思いついたのが「あやつらに、わしと話せるくらいの官位を授ければ良い」ということだったのでしょう。粟田口久国は大隅権守おおすみごんのかみ、備前信房は長原権守などに任じられます。そして後鳥羽上皇以降は、刀工が官位を授けられる事例が、珍しくなくなるんですね(とはいえ、そうとう技術に長けた刀工しか、もらえなかったでしょうけどね)。

『太刀 菊御作』トーハク蔵
『太刀 菊御作』トーハク蔵

なお、天皇家の私有である「御物」2口のほか、複数の菊御作が現在まで伝わっています。トーハクの菊御作は、関東管領の上杉家から(上杉謙信の養子の)上杉景勝、米沢の上杉家に伝わったものです。そして大正時代に摂政宮だった昭和天皇に献上されました。

その作風を、解説パネルは「備前一文字派の作風に似た華やかな小丁子こちょうじの刃文を焼き入れています」と記しています。

■粟田口吉光

蛇足です。

粟田口と言えば、トーハクには粟田口久国のほかにも、同じく国宝で言えば粟田口吉光作『短刀 銘 吉光(名物 厚藤四郎)』や、同じく吉光の『短刀(名物 岩切長束藤四郎)』、粟田口国安の太刀などが所蔵されています。

粟田口吉光作『短刀 銘 吉光(名物 厚藤四郎)』国宝






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