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実は長野の小布施の近くにあった、福島正則の終焉地を歩いてきました

福島正則と言えば、戦国史が好きな人であれば誰もが知る武将です。ですが、彼が晩年にどこでどう過ごしたのかを知る人は少ないのではないでしょうか。かくいうわたしも歴史好きを自称して久しいのですが、彼の終焉の地を知ったのは昨年のことでした。

そのきっかけとなったのが、松尾芭蕉です。福島正則と松尾芭蕉という、生きた時代も身分も異なる2人ですが、共通点があったんです。それは2人とも、晩年に信濃国(長野県)高井郡の岩松院に縁があったことです。

松尾芭蕉は、今の長野県小布施おぶせの豪商にたびたび招かれて、この地を訪れました。そこで多くの絵を残しましたのですが、その一つが、岩松院の天井画《八方睨み鳳凰図》です。1847年、北斎が88歳の時に描きました。

その岩松院を、たびたび訪れていたのが、晩年の福島正則です。同院は、彼が晩年に過ごした場所のすぐ近く……というか、その頃の彼の領地内にあったんです。

この冬に葛飾北斎の天井画を見ようと岩松院を訪れました。その時に初めて福島正則の墓があると知り、お寺の方に「ここに福島正則の墓があるんですか?」と思わず確認してしましました。

その時に、岩松院からそれほど遠くない場所に、福島正則が晩年を過ごしたという屋敷跡があると知ったんです。その時には行けませんでしたが、やっと機会が訪れました。ただし、時間が取れたのが早朝の5時過ぎ……。

福島正則が住んでいたのは、現住所でいうと長野県高山村です。跡地には、今は高井山の高井寺こうせいじが建っています。その場所へ着いたのは朝の5時半前後。ちょうど東の空が明るくなってきた頃合いでした。

街のメインストリートをGoogleマップを見ながら下っていきました。道沿いの側溝からは、勢いよく流れる水の音がゴロゴロと聞こえてきました。かつては小川が流れ、その水を引き込んが濠が、福島正則邸の四方を囲んでいたのでしょう。

道の左側に赤い屋根の寺が見えてきました。これが高井寺こうせいじなのだろうと、すぐに分かります。

お寺の小綺麗な看板がある、屋敷の西北の石垣を回って、西側の正門へ向かいました。撮っておいた寺の看板を今確認すると、太平洋戦争中には、東京の足立区の西新井の小学生たちが疎開していた場所のようです。

低いけれど立派な石垣が残っています……とはいえ、これが福島正則が住んでいた頃のものかは分かりません。

屋敷の西側に設けられた正門です。なんとも良い感じに寂れた構えですが、いかにも、老いた福島正則が暮らしていた場所にふさわしいようにも感じます。奥には、先ほど見えた本堂がドンッと建っています。

門をくぐって後ろを振り返ると、こんな感じです。

他の人のブログなどを読んだ限りだと、ここの和尚さんは、フランクな方のようで、いらっしゃればお話を伺いたいなと思っていました。とはいえ、なにせお寺に着いたのが6時前の話……さすがに人影もなく、お坊にいらっしゃるとは思いましたが、まだ朝の支度などをされているかもしれず、とてもピンポンして話をうかがくなんてことはできませんでした。

むしろ「おじゃましまぁ〜す」と心の中でつぶやきながら、境内に入らせていただきました。

本堂も、いい感じで寂れています。

福島正則は、約50万石の広島藩を改易されてから、ここ高井郡と越後国魚沼郡の、それぞれ2万石と2万5000石の、計4万5000石へと減封されてやってきました。1619年……福島正則が58歳前後のことです。移封してすぐに、嫡子の福島忠勝に家督を譲るのですが、翌年にはその忠勝が23歳で死去。Wikipediaによれば「正則は悲しみのあまり、越後国魚沼郡2万5000石を幕府に返上」とありますが、おそらく移封時に、高井の2万石が福島正則の分で、2万5000石が嫡子の分だったのではないでしょうか。

いずれにしても、福島正則は家督を譲った時には、出家して高斎と号していたそうです。たびたび小布施の岩松院へ行っていたそうなので、そこで出家したのかもしれませんね。

境内には大小2つの石碑が建っていました。大きな方には「法名海福寺殿前三品相公月翁正印大居士」と、福島正則の法名(法号?)が刻まれています。これは何かと言えば、Wikipediaには「供養塔」とあります。石碑の裏側を見忘れたことを悔やんでいますが、見たとて誰がいつ建てたのかは分からなかったかもしれません。

ちなみに幕末から明治に描かれたと思われる(←勝手に推測)、長野県立歴史館収蔵の丸山清俊(1821〜1897)資料の「高井郡古跡名勝絵図」には、この石碑と思われる絵が描かれ、「正則之墓」と記されています。

「高井郡古跡名勝絵図」福島城之趾

福島正則は1624年の7月13日に64歳で亡くなります。自刃したという説もありますが、高井寺の解説板には「病死した」と記されていますし、わたしもそうだったろうと思いたいです。

あの天下無双の福島正則が、ここでぐったりと過ごしたとは思えないんですよね……そんなに彼のことを知りませんがね。ただし、同じく解説版には、福島正則がこの地に住んでいたのは数年だけだけれど「領内の検知を行ない、高井野原の用水堰を開き、松川治水の築堤、西条新田の開拓など、民政に尽くした功績が大きい」と記されています。

隠居していた老人が、そんなに精力的に民政に尽くすだろうかと……まぁ部下が頑張ったのかもしれませんけどね。ただ、彼は「正則はかねて本村赤和に海福寺を興して菩提寺としようとした」とも記されています。一本桜や断崖絶壁に建つ観音堂で有名だという近くの赤和のことでしょうね。まぁ誰かに「赤和あたりに寺でも建ててえなぁ〜」って言うのが癖みたいなものだったかもしれませんがね……まぁわたしは、この2万石の領地で、けっこうのびのびと晩年を過ごした……そう思うし、思いたいんですよね。

墓所については「故あって位牌は領内雁田(小布施)の岩松院に収められ、廟所も同寺境内に設けられた」とされています。やはり岩松院に位牌があるんですね。

さて、境内にもう1つ建つ小ぶりな石碑は、小布施の豪商で、葛飾北斎のパトロンであり弟子でもある高井鴻山が建立したものだそうです。ちなみに高井鴻山が店を構えていた小布施も、かつての福島正則の高井野藩の領地であり、葛飾北斎が天井画を描いた岩松院もまた同藩の領地内でした。

その岩松院に、葛飾北斎に天井画を描くよう依頼したのが高井鴻山。小さな石碑を建立した方です。

「筆」と書かれた筆塚だそうです。絵筆の供養? ですかね。

高井鴻山は高井家の11代目ですから、もしかすると、同家を遡ると福島正則と交流があったかもしれませんね。

ちなみに福島正則の死後は、福島家は改易。その翌年には、3,112石の旗本として取り立てられて、高井のあたりを知行地として与えられます……なのですが、継いだ福島正利にも嗣子がないままに没し、また断絶……したのですが、福島忠勝の孫(正則のひ孫?)にあたる福島正勝が改めて2,000石の旗本に取り立てられて(知行地は下総)、そのまま幕末まで存続したそうです(その後は不明)。

上は、お寺の南側から本堂を撮った写真です。ちょうど筆塚の背面が見られます。

上の写真の正面が「堀之内御判屋(高札場)跡」。福島正則屋敷跡は、写真の右側。

高井寺こうせいじの解説板に、「正則はかねて本村赤和に海福寺を興して菩提寺としようとした」と記されていたことは前述しました。いまGoogleマップを眺めていたら、この道を登っていくと、その「赤和」というエリアへ至ります。そして、そこに鎌倉時代の城跡があり……そこに「馬陰山・海福寺」という寺が建っていました。なんでしょうね……この寺は。福島正則にあやかって建てたのか……元々この地に建っていたのか……。機会があれば行ってみたいと思います。


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