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國學院大學博物館で今見られる企画展「神輿―つながる人と人―」の内容

國學院大學博物館のホームページをチェックしてみたら、6月29日から9月16日までの会期で、企画展「神輿―つながる人と人―」が開催されていることを知りました。

同館の企画展は、決して大きなものではなく、こじんまりとしたものです。ただし、わたしが大好きな「無料」で見られるということと、主に新石器時代から弥生時代までの遺物が展開されている常設展が、充実していることもあり、今年になってから既に2回も訪ねています。今回も、どんな展示がされているのかを、同館のサイトとYouTubeチャンネルとでチェックしてみました。もう少し距離が近ければ、すぐに行くんだけどなぁ……というくらいにはソソる内容。「9月16日までのどこかでは行く!」ということで、予習をnoteに残しておきます。

企画展「神輿―つながる人と人―」のチラシ

今は知りませんが、わたしが在学中の数十年前には、どの学部のどの学科に所属していても「神道学の基礎」的な単位が必須でした。当時のわたしは特別に神道に関心があったわけでもないので、どの大学にもいるだろう「仏の〜〜先生」と呼ばれている授業を選択しました。神道の先生なのに「仏」というのが、なんともおかしいのですが、神仏習合していたのでしょう。で、この先生の授業は、なんと! “夏休み後にレポートを提出するだけで単位がもらえる”というものでした。そのレポートの内容が決まっていて、これまで参加したお祭りについて記すというもの。

1年生のわたしは夏休み後に作文を用意して、それを提出するために一度目の授業へ行きました……。レポート提出を促されることなく授業が散会となり、いぶかしみながら教授のもとへ行きレポートを提出しにきた旨を伝えると……なんとなんと! 「今年は、夏休み前が提出期限だった」と、わたしよりもいぶかしそうな顔をされた教授がおっしゃっていました。ということで当然、わたしは単位を落とし、やっと2年次にレポートを提出して単位取得することができた……ということを、今回の企画展のチラシを読みながら思い出しました。そんな不真面目な学生だったわたしが、今では毎年、地域の祭りに参加して、あろうことか大学の博物館へ行って、祭祀について学ぼうとしているなどとは、仏の教授も想像しなかったでしょうね。

さて、既に企画展の解説動画が同館のYouTubeチャンネルにアップされていました。こちらの動画で、どんな解説がされているかを、少し詳細にnoteしていきます。


神輿は人々を繋ぐ:歴史と文化

新型コロナウイルスの影響で祭りが中止になったり、災害によって地域が分断されてしまうなど、現代社会では人々のつながりが希薄になりがちです。このような状況下で、神輿が人々を結びつける象徴的な存在であるということに着目し、今回の展示を企画しました。

国学院大学で行われている祭りや地域研究の成果も取り入れながら、神輿の歴史や文化、人々の生活との関わりについて深く掘り下げています。

神輿のはじまり

そもそも、神輿はいつから日本に登場したのかについて解説しています。まずは企画展でも展示されている《延喜式神名帳》という、当時の法律書を見ていきます。ここには、全国の主要な神社の名前と、祀られている神様の名前がリストアップされているのですが、「どこどこにします神」という表現が多く使れているそうです。解説する先生によれば、この書により「古代の神様というのは本来は、その土地と密接に結びついている」ことが分かり、つまりは「乗り物に乗って出かけるということは、極めて特異な状況だった」ことが分かるとしています。

ただし例外的な事例として「8世紀に宇佐神宮の八幡様が平城京に上京するお話があり、これは非常に例外的な動きだった」としつつ、動画の字幕では(先生の注釈なのか分かりませんが……)「これを神輿の起源とする説もある」としています。ちなみに八幡様が上京したのは、天平勝宝元年(749)。三重大学の藤田達生教授は、サライの記事で「東大寺の盧舎那仏(るしゃなぶつ 以下、大仏)の鋳造が完了した頃で、八幡神は神輿に乗って大仏に拝礼するために駆けつけた」としています。同教授は、この時の入京が「八幡神のデビュー」だとしています。これ以前には、「はぁ? 八幡さんって誰っすか?」という存在だったようです。

とはいえ、この八幡神の上京は、完成間際の大仏に会いに行っただけで、一回だけのイベントだったようですし、この時に神輿と呼べるような乗り物を使ったのかも定かではありません……そもそも神ですからね……(ストーリーとしては)ぴゅ〜っと空を飛んで平城京に降臨されたかもしれません。だって、(鹿島アントラーズの)鹿島神である武甕槌命が、鹿に乗って平城京へ上京したのは有名な話ですからね……そして奈良時代の神護景雲2年(768年)に春日大社が創建されました。←鹿に乗って飛んで降臨されたのは、これより前の話ということ。

記録されているうえで「神様が神輿という乗り物に乗って動き出す時期」は、10世紀の天慶8年(945)になります。『志多羅神という神様が、神輿に乗って大阪方面から京都方面を目指して動いてきている』という報告が朝廷にもたらされ」たことが、《本朝世紀》という歴史書に記されているそうです(展示あり)。

教授によれば、「この天慶という時代……ちょうどまえ平安時代の半ば、災害が多い。洪水や干ばつも多い。さらに承平・天慶の乱(平将門や藤原純友の乱)のような内乱も起きている。こういうような社会的不安が大きくなっている時代に人々に近いところに神様がやってきてくれる。その時に乗り物が必要になって神様がお出ましになってくる。こういうような社会背景の中で、どうも本格的な日本の神輿というのは展開してきたようです」と解説しています。

先生の話を聞いて、ハッとしました。945年と言えば、藤原道長が生まれる約20年前のこと……ということで中央では、摂関政治が形成されつつあった時代になります。同時に中央集権化というか、大和朝廷が北海道や沖縄を除く全国統一の最終段階に入っていた時代です。おそらく重税が課されていたうえに自然災害も多く、庶民には苦しい状況だったことでしょう。そんな庶民の要望からなのか、もしくは行政が庶民の注意を逸らすためだったのか、神輿イベントが爆誕した……のかもしれません。

また945年となると、仏教では天台宗の比叡山で、中興の祖とも言われる元三大師の良源さん、それに空也さんが浄土教を広め始めていた時代です。浄土教とは阿彌陀佛信仰であり、浄土宗のルーツのような考えと言えるでしょう。そんな空也さんが京都で人気を博した理由の1つが、盆踊りのルーツと言われることもある踊り念仏ですよね。

神輿と盆踊りのルーツが、同じ平安時代の半ばに発生したというのは、偶然ではないでしょう。

神輿の構造と意味

前述した志多羅神が移動する、その様子もまた記録に残っているそうです。どの記録に残っているのか明言されていませんが、話の文脈によれば、《本朝世紀》ということになりそうです。動画の中で教授は、以下のように解説しています。

「多くの人々がその神輿を捧げて動くだけではなくて、供え物も持っている。さらに歌って踊ってそれにくっついていく。そういう意味では神様を中心にして社会不安を吹き飛ばすような形で、大騒ぎしながらみんなで賑やかに移動する。こういう形がどうも10世紀の段階には成立してきてるらしい」

志多羅神の上洛の後、10世紀の末期……正暦(しょうれき)という時代には、平安京で疫病が大流行しました。おなじみ一条天皇の時ですが、藤原道長のお兄さん……またはお父さんが実権を掌握していた時代です。その疫病を鎮めるために、京都の船岡山で御霊会が行われ、その時には2基の神輿が作られました。

で、神輿がさらに平安京の中で定着していきますが、その典型例として挙げられるのが、一般的には……というか関東生まれのわたしのなかでは「祇園祭」として記憶されている「八坂神社の祇園御霊会」です。この御霊会の、12世紀の状況を記録した《年中行事絵巻》が、今回の企画展で見られるそうです。

《年中行事絵巻》(部分)國學院大學博物館蔵

「神輿の先導の形で色々な捧げ物や威儀物がまず先行して、それの後に太鼓を叩いたり笛を吹いたりしながらここではもう獅子が入ってきています。さらに言うと、その先行するところには高い鼻の赤いお面をつけた、王の舞と言われる、今の猿田彦の原型になるような人物も、この神輿を先導する形で出てきます。で、その後にお神輿がやってきて、その後に神主さんがついてくる。こういう基本的な構成が、どうも12世紀の段階には成立してきてるらしいということが、この年中行事絵巻の内容をよく見ることで分かってきます」

《祇園祭礼図屏風》
動画での説明はありませんでしたが、こちらの《祇園祭礼図屏風》も展示されているようです
國學院大學博物館蔵
いつかの小野照崎神社の例大祭
いつかの千束稲荷神社の例大祭での猿田彦

祭礼の伝播

平安時代に成立した神輿の行列は、鎌倉から室町時代になると、地方にも展開されていくようになります……と、一気に鎌倉時代へと時代が飛んでしまいます。

が……神輿で思い出すのは、比叡山などの僧侶による朝廷への強訴ですよね。平安時代後期頃から、彼らは日枝神社などの神輿を担ぎ出して京都へ進入し、人事に関する要求をゴリ押ししていました。

前田青邨さんの《神輿振(みこしぶり)》東京国立博物館蔵

という比叡山延暦寺などの僧侶による、強訴に関連する展示はなさそうです……。話は鎌倉時代から室町時代へと進み、企画展では、この頃に成立した祭礼と考えられる、千葉県の香取神宮の祭礼の記録……《神幸祭じんこうさい絵巻》が展示されています。

《香取神宮神幸祭絵巻(部分)》國學院大學博物館蔵

まずお供えや神楽のような歌舞が先導し、それから神輿が出てくるという、平安京の頃の構成が継承されていることが分かるといいます。また神輿の後ろからは、花傘が上にかけられた神主さんがついて来ているのがポイントなのだそう。この神主さんの装束やお伴を見ると、神社の序列や格が見て取れるそうです。

いつかの小野照崎神社の神主さん
小野照崎神社では、3年に1度の本祭では本社神輿が登場。神主さんも馬に乗って行列に加わります。神主さんも大変そうですが、大きな傘を捧げるお伴の人も大変そう……

江戸の神輿と祭り

江戸時代の、江戸の街はどんどんと発展を遂げていきました。と同時に、神輿祭りも成立していったのでしょう。その当時の様子を描いた資料として、ここでは《天王御祭礼宮出之図》や《天王御祭礼之図》が展示されているようです。いずれも神田神社(明神)から現在の神田、日本橋、銀座に設けられた御旅所まで、神輿が渡御するという江戸時代の祭りの様子が描かれています。

神田明神

江戸時代に神輿祭りが発展したと言っても、「1番先頭には太鼓、榊、鉾、四神をつけた鉾、獅子そして神輿」という行列の構成は、平安時代とそれほど変わらないようです。ただし、担ぎ手が荒々しい人になったというのが大きな変化でしょうか。

江戸時代から明治時代になると、北海道が明確に日本の領土に組み込まれたことで、北海道の札幌にも神社が建てられました。企画展では、明治2年…1869年に創建された札幌神社(現・北海道神宮)での祭礼の様子を描いた《官幣大社札幌神社鎮座三十年紀年祭市街御巡幸之図》が展示されています。

ちなみに、同図には山車だしが描かれていますが、その中には、東京となった江戸から買ってきたものがあったようです。どんどん札幌が発展していくと同時に、東京でも各町会が神輿を持つようになり、それまで使っていた山車だしが不要になった……その山車を札幌の人たちがリユースしたという話があるそうです。

まとめ

企画展では、YouTubeチャンネルで触れられたもののほかにも、いくつかの屏風や絵巻などが展示されているようです。「これは見にいかねば!」とまでは言い切れませんが、時間があればぜひ行ってみたいものです。

国井応文画 1877年(明治10年)《稲荷神社両御霊神社私祭之図》
國學院大學博物館蔵
《山王祭礼図屏風》國學院大學博物館蔵




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