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福島正則の終焉地を歩く(2)……高井・高杜神社〜小布施・岩松院

以前『戦国武将・福島正則の終焉地を歩く』というnoteを記しました。そこでは、福島正則が亡くなるまで住んでいたという場所に立つ、長野県高山村の高井寺(こうせいじ)について記しました。

早朝の6時前に着いて、高井寺をじっくりまんべんなく見て回りました。と言っても、一辺が50〜70メートルほどの……しかも境内で立ち入れる場所も少ない、小さなお寺です。それでも20-30分ほど時間をかけて見た後に、「さて…これからどう時間を潰そうか…」と思いました。

実はこの日は小布施でハーフマラソンの大会が開催されていました。その大会に義叔父が出場していて、わたしはその送り迎えを担当したんです。出走時間の1時間前には小布施へ行き、そこから高井寺へ行ったので、見終わった時には、やっとスタートしたかどうか? という時間だったでしょう。

高井寺を後にしてから、Googleマップを開いて、近所に見るべき程よい場所はないかと探してみました。すると……「高杜たかもり?神社」というのがありました。その時に居た交差点にも、「高杜神社参道」という看板があったため、きっと素敵な神社に違いない…と、寄ってみることにしました。

Googleマップ
今調べると、赤和観音や海福寺など、寄って見ておけば良かったなと思いますが…また次回の楽しみということで

クルマで道を上っていくと、すぐに立派な鳥居が見えてきました。

クルマを降りてみると、六脚の鳥居と門のような建物が並んでいます。その参道の両脇には杉の木がずらぁ〜っと並んでいて「これは、ものすごい神社を発見しちゃったかもな」なんてワクワクしました。

近くに設置された解説パネルを読むと、この高杜神社の杉並木は、鳥居から社殿まで、長さ200m にわたり100本を超える木が植えられているそうです。ちょうど朝日が差していて、神々しさを感じました。

並木の先に小さく見える神社へ向かって歩こうかとも思いましたが、クルマがあるので、再び運転して本殿への道を上っていきました。本殿が見えたところで「おぉ……予想通りに立派な神社だな」と思いつつ、境内へ入っていきました。

振り返って見ると、並木の向こうに、先ほど居た大きな鳥居が小さく見えます。

境内の中で、ドン! と構えているのが……神楽殿かぐらでん……と書かれていた気がします。中に舞台のある立派な建物です。逆光がキツかったため、露出を変えた2枚の写真をおいておきます。写真で振り返るとこじんまりとした印象を受けますが、目の前にした時には「大きいなぁ」と思ったものです。

神楽殿の階段をのぼっていくと、扉が開いていて……というか、扉のようなものはなかったような気もします……本殿が姿を現しました。そのまま神楽殿の中にあがって、ずんずんと本殿の方から出たいとも思いましたが、その振る舞いがOKなのか否かが分からなかったので、やめておきました。

神楽殿と本殿との間には、広い空間が広がっていました。

下の写真は振り返って撮った神楽殿です。

拝殿の立派さを演出しているのが、両翼のある作りです。参拝者から見ると、その左側は境内を囲むように続いています。

拝殿

拝殿の下には、この高杜神社の建物についての詳細が記されています……なのですが、なかなか内容理解が難しいなぁと。

 高杜神社本殿は、間口が九尺(二.七メートル)の二間社流造りで、嘉永元年(一八四八)当所の宮大工亀原和太四郎嘉重の作によるものです。

 社殿の特徴を見ると、正面の扉を四枚一連の両折り戸としていることや、向拝の木鼻を振り向きの龍としている点が独創的です。また、その他の彫刻も和太四郎渾身の切れを見せ、見事な作品に仕上がっています。

 本社は、間口二四尺(七.二メートル)入母屋造り・桟瓦葺きの建物で、本殿上屋部分とは棟を直行させた撞木造りとなっています。天明二年(一七八二)の再建で、本殿とは作風が異なることから、亀原武平太嘉貞の作と推定されます。

まず1行目の「本殿」というのが何を指すかと言えば、写真の奥に覆屋の中にあって外からは見えない建物です。その間口が9尺で、二間社の流造(ながれづくり)だということ。このエリアで活躍した大工の亀原和太四郎嘉重さんによるものだそうです。

2段落目の「社殿」というのは、正面に見られる「拝殿」のことを主に言っているようです。写真で確認する限りでも、拝殿の正面の扉は「両折り戸」となっています。

下の写真の右上にある、っこである「木鼻」が「振り向き龍」になっているのが確認できます。独創的なのかは不明ですが、確かに珍しいのかもしれませんね。

解説の3段落目には「本社」の説明です。「入母屋造り・桟瓦葺きの建物」で「間口二四尺(7.2m)」とあるので、これも「拝殿」のことなのかなと。こちらは天明二年(一七八二)に再建されたとあります。となると、拝殿の方が本殿よりも古い建物ということになりますが……どうなんでしょうね。亀原武平太嘉貞の作と推定されているそうです。

御柱おんばしら祭というと、諏訪大社が有名ですが、こちら高杜神社でも行なわれているそうです。調べてみると、高杜神社にはローカルな氏神「高毛利神(たかもりのかみ)」と、諏訪大社と同じ「健御名方命(たけみなかたのみこと)」とを祀っていました。そのため、諏訪大社と同様に御柱祭が残っているのでしょうね。

下記のサイトを見ると、諏訪にある諏訪大社以外の御柱祭について語られています。その中で信州大学の笹本教授は、次のように語っています。

「もともと諏訪大社は信濃の国の一宮として、信州の氏神様のような役割を持っていた神社。そのためかつては信州の人たち全体が御柱祭りに参加していたが、江戸時代に入り、藩の成立によって信濃国全体の奉仕がなくなり、各地の祭りが極めて独自性を持つものになった」

これを読むと、なるほどなぁと思う点がありますよね。諏訪大社が、そもそも信州全域に影響力を有していたということ。戦国時代にも、その求心力がどれだけ残っていたかは分かりませんが、少なくとも武田信玄は、諏訪大社の力を利用しようとしましたよね。

先述の諏訪大社の「建御名方神(たけみなかたのみこと)」の末裔が、戦国大名の諏訪氏(神様の末裔です)。その諏訪氏を、武田信玄は20歳の時に制圧します。そして諏訪御料人が14歳頃(天文14年説)の時に、側室として迎えます。その翌年に生まれたのが、諏訪四郎勝頼であり、武田信玄の跡を継ぐ武田勝頼です。

再びの神楽殿

ということで、高杜神社に福島正則が来たという話は聞けませんでしたが、きっと来ているはずです。例えば、福島正則がここに引っ越してきた翌年、元和6年(1620年)は庚申です。御柱祭は寅(とら)と申(さる)の年に行なわれるので、この年に開催された可能性は高く、福島正則の何らかの関わりがあっただろうと思います。

ということで高井エリアをあとにして、福島正則がたびたび通い、そして墓が建てられた、小布施の岩松院へも行ってみました。

本堂の左脇を進んでいくと、福島正則の墓が見えてきます。

と……こんな感じで福島正則の晩年の足跡を辿ってみました。

また改めて高井エリアについては、行く機会があれば……できれば桜の咲く時期に行きたいものです。

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