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唄とつがう樹液

この土地の冬は寒い。寒い上に寂しく、食こそ賄えても、娯楽にはとことん乏しい。
腹は満たされるが、心は満たされない。冬を迎えるとこの土地は、そういった場所となる。
そんなこの土地の人々の楽しみといえば、私の樹皮を傷付けて滲み出た樹液を採集し、その甘みを味わうことだった。私の樹液を採るとき、この土地の人は歌に乗せた物語を唄う。どんな物語でもよいが、人々が唄うのはもっぱら恋と性愛に関するものばかりだった。とろけるほどの熱い恋を唄い、加えてその物語が淫猥であればあるほど、私の樹液は甘く、多く分泌されるというのがこの土地での共通認識だった。
そうした物語は娯楽性の最たるものであり、時折聴けばそれにのめり込みそうになる。しかし毎度毎度、来る人来る人から紋切り型の淫猥なラブストーリーを唄われると、流石にうんざりするものだ。だので難解でありながら美しさを感じられるものや、暗く悲劇的ではあるがどこか心揺さぶられる物語が唄われた時には、私はそれに聴き入りながら蜜を滲ませる。その時間は幸福と言って差し支えない。
しかし人々は、そのような暗く悲しく難解な物語で蜜を食べる人をあまり良い目で見ない。時には彼を狂人とすら言う。

男がやってきた。この男はいつも、他の人々とは違う、悲しくも美しい、どこか暗い物語を唄う。私はこの男の唄が好きだった。毎日傷が付き、蜜を出させられたこの身が、生命の水に触れるように潤い癒されていくのを感じる。
男が唄い始め、物語が始まる。
*
「子供は要らないよ。子供が可哀想だから」
彼はそう言い、煙草を私の口に咥えさせ、自分のと一緒に火を点けた。
部屋は寒くて、裸の肌に触れるシーツは冷たい。私は吸って、吐いてを3度繰り返し、ベッドの上の灰皿に灰を落とした。彼は煙草を咥えたまま、煙に髪を浸している。
ジジジと煙草の先が燃える音がする。私は彼に尋ねる。
「じゃあ今のセックスはなんだったの?」
「ううむ......」と呻いて押し黙る。彼は伝えたいことがある時、できるだけ正確な言葉で自らの想いを伝えようと、頭の中で念入りに推敲する。私も彼の答えを待って、沈黙していた。
彼はいつもこのようにじっくりと言葉を考え、選び抜き、口にする。しかし私がよく分からないという顔つきをするたび、彼は自身の言葉の能力に限界を感じているようだった。そして、「ごめん。上手く言葉に出来ないや」と、申し訳なさそうに、また悲しそうに、呟く。
私は彼を迷宮へ迷い込ませてしまう前に、しっとりと言った。彼の身体を優しく撫でる。
「私も子供は欲しくないよ。あなたと一緒の理由。でもセックスは楽しくて気持ち良くて好きだよ」
彼はほっとしてこちらを見た。私は彼との夜を過ごすたび、光の当たらない、どうしようもなく暗い情動が溢れ出てしまう。そう思った時に、彼も同じことを話した。
「君と寝るたびに、僕には光の当たらない、どうしようもなく暗い情動が生まれてくるんだ。その波に揺られて、君と夜を過ごすことが、僕の生きる中で一番、自身を解き放っているような気がするんだ」
私は微笑む。互いの煙草はもう根元まで燃え尽きている。
「うん。分かってる。私もそう。そこにかけてあるネクタイの、一番高いやつでこれを固定して」
私はそう言い、手のひらを握りしめて両手を差し出した。
「うん」
彼は2本目の煙草に火を点けて、口に咥えたまま、ネクタイを私の手首へ這わせた。するすると絹の擦れる音がする。
煙をゆっくり吐き、灰皿へ細い煙のたつ煙草を置き、
「1本で2万くらいした上等なシルクのやつだよ。これ」と彼は言った。その口ぶりは私を慰めるようでもあった。
そうして彼は私の背に絵を彫り始めた。じくじくと熱い針の感触を感じると、頭の裏側に蛸の姿を覚えた。奔放に8つの脚を広げた、豊かな身体と艶やかな肌を持つ、1匹の大蛸が浮かび上がる。
血の滲む背を仰け反らせ、私は嘆息を漏らす。
「この前彫った子も、おんなじような声を出していたよ」
彼は私へ語りかけた。強い嫉妬の震えにすら、私の心は熟れるばかりだった。
私は尋ねる
「その人、あなたと口づけした?」
「それはもちろん───」
*
「よし、これだけあれば2週間はもつな」
男は唄を止め、満足そうに言った。
酔った頭に突然冷水をかけられた心持ちで、私はぼんやりと男を見ていた。透明な蜜で満たしたボトルをナップザックへしまい込み、雪を踏みしめて去ってゆく男の背を、私は見守っていた。
男と女と女たち。《それはもちろん───》

次の日、昨日とは違う男が私の元へやってきた。ナイフで私の樹皮に斜めに傷をつけ、物語を唄い始める。
同じ職場の男女。女は少しずぼらなところがあるが明るく愛嬌のあり、一方男は変わり者と噂されているが優秀な人物だ。端正な顔立ちのために陰で人気が高い。そんな2人は、初めはその性格の相違のためにいがみあっていた。しかしある出来事がきっかけで、互いを異性として気にし始める。そして惹かあってゆくが、その関係を乱す人物が現れ、また誤解によってぶつかることもあった。2人は相次ぐ障壁に立ち向かい、乗り越えてゆく。そしてラストに続く。最後の場面、互いは気持ちを言葉にして確かめ合い、甘く親密な夜を過ごす。
彼の唄は私に刻まれた。ボトルに蜜をいっぱいにした彼は満足げに、きっと甘い蜜だろうなとひとり呟いた。ボトルをバッグへ詰めると、おもむろに私の樹皮へナイフの先を突き立て、小さな穴を開けた。男はそこへ耳を当て、私に刻まれた、昨日の唄を聴いた。
彼が私に耳を当てていると、車がやってきて、迎えに来た女がやってきた。彼の妻のようだ。
男は唄を聴き終え、女に向かって話した。
「××の〇〇さんが歌った唄みたいだけど、これ聴いてみな。酷い内容だよ。物語も途中で終わっているし、意味不明でどろどろしてて、奴はまた不気味な唄を歌っているよ」
男は手にしたナイフを眺めながらそう言った。昨日の男に比べて彼の持つそれは、華美な装飾に彩られている。
男の妻は、「貴方みたいにひとを感動させる物語を思いつけないものだから、きっとおかしなものばかり唄っているのよ」と言った。
「まったく、たまには『美しい』物語を唄ってみることができないもんかねえ」
車に乗り込む際に男は、聞こえよがしにそう呟いた。
私の樹液は正直だ。だから彼の採取したそれが苦いものでなければいいがと、男とその妻の乗った車が走り去るのを見送りながら、私は思った。

また次の日、一昨日蜜を採取した男がやってきた。しかしいつものように私の幹へ切り込みは入れず、代わりに私の根元へ傷をつけた。そして男は手首を私の上へ差し出し、自らの手首を浅く切った。鋭い刃先が皮膚を滑らかに裂き、ぼたぼたと血が落ちる。血は私の根本に吸い込まれてゆく。
「いつも唄を聴いてくれてありがとう。今度は俺の蜜をやる。だからお前の唄を聴かせてくれ」
男がそう言い、私の幹へ耳をつけた。
私は唄った。
*
俺は俺の思う美しい唄を歌う。それを聴いてくれるのは蜜の出る森の木だけだ。木はこの地域の人間の誰とも違って、静かに俺の歌を聞き、なみなみと蜜を与えてくれた。
木はなにも言わないが、滲み出た蜜に濡れた樹皮のきらきら光るさまを見て、俺はいつも喜びを感じた。
俺には妻もいなければ、愛しい人もいない。変わり者と揶揄される俺を見て、両親は俺に愛想を尽かせたし、そんな俺に俺自身だってがっかりている。
この土地からは出られない。俺はこの土地で生きるしかないのだ。そしてこの土地で俺の思う美しさは、ただの醜い気狂いとして処理されている。異臭を放つ動物の死骸。彼らからすればそんなところだろう。
俺は横に眠る女へゆっくりとナイフを刺し、それを真横にずいと動かした。女は美しくて、美しくて、俺の生きる全てに思える。そんな女の白い肌を切り裂くと、透明な蜜が溢れた。どぷどぷどぷと、とめどなく溢れた。このままそれが流れで続けて、やがて彼女は死ぬだろう。俺が殺したのだ。
*
私は唄の途中で、口を挟んだ。
「私は貴方の唄が好きだ。この唄のように、貴方の美しいものを殺してほしくない」
そう言うと、彼は静かに、
「唄の途中だ。それにもう死なせてしまったんだよ」と答えた。
私は唄を続ける。
*
女は艶やかに光る長い睫毛を動かし、俺を見た。
「私が死んでも、貴方は生きられるでしょう?」
俺は彼女の頭を撫で、手のひらでそっと目を閉じさせた。
「君がいないと俺は生きる意味がないんだよ。殺された君は、俺そのものなんだ」
「そう......」そう言い、振り絞るように、女は続けた。「最後の言葉を聞かせて。私自身......貴方の......最後の言葉......」
「次生まれ変わるのなら、君と生きられる場所で、広い世界で、きっと生きたい」
*
鳥が鳴いた。雪に満ちた寂しい森に、どこか悲痛なその声が響き渡った。私の唄は終わった。

もう何年も経つ。私の根元にはあの男が眠り続けている。この土地の人々は私に近付かず、もう蜜を採ることもなくなった。私は最後にあの男から聴いた唄の続きを、ずっと待っている。
《その人、あなたと口づけした?》
《それはもちろん───》

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