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ギャリギャリギャリ

ギャリギャリギャリギャリギャリギャリ。

きらめく無数の構造物を載せて、機械は今日も動く。私はそんな音を耳の隅に留めながら、夜の街をすり抜ける。歩みを進めると、実に様々な人と物が現れる。街へ出てもう数年が経つが、それらは私を飽きさせない。


炭と油の匂いを空気に感じる頃、飲み屋のひしめく通りに踏み入った。今は営業のピークで、どこも開け放した扉の奥には賑やかに光が溢れている。
私とすれ違う男達や女達は皆、つまらなそうにも楽しそうにも見える。ただ淡い希望に浮かされて外へ飛び出たようにも見える。どちらかひとつのようにも思えるし、一緒になったとも思える。
店の軒先では空のビールサーバーと、ビール瓶が席を満たしたプラスチックケースが積まれていた。黒いTシャツに前掛けをつけた店員の男が、太い腕を筋張らせてプラスチックケースを店外へ出し、がしゃんと置くのを見る。空き瓶は互いに擦れ合い、ギャリギャリギャリ、と騒ぎ立てるように音を立てた。

私の耳に常に聞こえる、地球の動く音と同一だった。こんなふうに、ガラスの擦れる音が無数に堆積したものが私の耳に届いているのかもしれない、もしかすれば。

(違いますよ。僕らの耳にはそんな風には聞こえません。もっと甲高い、軽やかな音が聞こえます。あなたのようには、きっと聞こえません。)


私はそうした飲食店の地区を過ぎ、ビルの立ち並ぶ通りへ出た。ビルはガラス張りでピカピカしたものもあれば、薄汚れたタイル張りのものや、古びたモルタルのもあった。だが一様に、昼の賑わいを忘れたかのごとく静かだった。深みのない青の制服を着た警備員が、牢のようなシャッターを下ろしていた。ゆっくりとそれを下げる、ギャリギャリギャリという音が通りに反響する。

(ギャリギャリ、とは聞こえないなあ。もっと騒がしくて、遠慮なさげな音だと思うよ。)


私は黙ったまま、流れゆく風景に意識を巡らしつつ歩み続けた。やがて私の住むマンションへ着く。エントランスに入ると、かじかむ手をほぐし、バッグの中の鍵を指で探した。
金属の輪でまとめられた3つの鍵を指に提げれば、鍵が揺れ互いにぶつかり、ギャリギャリギャリと音が鳴る。

(きっとそんな音は立てていないぞ。もっと小気味いいもののはずだ。お前はそんな重々しい音に聞こえるのか。)


ガラス扉を開錠し、エレベータで4階へ昇ると私の部屋である。外廊下を突きあたりまで歩くあいだ、風によって運ばれた枯葉を踏みしめた。足裏に心地良く感じられる、ギャリギャリギャリと砕ける枯葉。

(それは貴方だけよ。あたし達と少し聞こえ方が違うのですね。落ち葉をどんなに重ねても、そんな鈍い音は聞いたことがありませんよ。)


私は自室の前に立つと、3つの鍵のうちひとつを鍵穴へ挿し、ドアノブを引いた。ドアがあくびするような含みをもたせて、重く、ゆっくりと開いた。
履物を脱ぐと、バッグをいつもの場所へ置き、手を洗う。冬の外気で芯まで冷えた手には、冷水ですらぬるく感じる。赤くかじかんだ手は鈍くしか動かない。私は濡れた手をしっかり指の間までぬぐい、ソファに倒れ込んだ。手はいつまでも冷たく、私は手のひらをこすり合わせた。ギャリギャリと、独りの部屋の中でやけに大きく響いた。

(君にはそう聞こえるんだね。でも、それは、聞こえる、というよりは、感じる、と言った方が正確なのかもしれないよ。だって僕らにとっては、君の言うような擬音には感じられないのだもの。)


夕食を終え、シャワーを浴びた。パジャマ代わりの学生時代のジャージは、縮んでしまったのか私の背が伸びたのか、足首が微かに見え、肌寒い。足を出さぬよう毛布をしっかりと被り、枕に頭を埋める。
目をつむれば、いつものあの音が頭にこだます。

ギャリギャリギャリギャリ......。

日常は、もう数年変わっていない。非常に緩い傾斜の坂を転がるように、ゆっくりと暗いなにかへ進みゆく感覚。
私のみの冷えたこの部屋は、自ら作りあげたとも、他人に遺されたとも言える。
いけない、他人へ目を向けてはいけない。

ギャリギャリギャリギャリ......。

ブルーライトは音を増長させる。私の孤独が極限までコントラストを高めた写真のように、くっきり浮かび上がる。

ギャリギャリギャリギャリ......。

(そう、この音は生きているだけでずっと聞こえている。)

ギャリギャリギャリギャリ......。
私にとって、私の心の内の音が大きすぎて、外界の音もそう曲解してしまったのだろうか。この音はなにものでもない私の心が、削れゆく音なのだろうか?

(貴方にとってこの音は何ですか?)

私にとってこの音は何なのだろう。いつからか、この音はずっと聞こえている。

(貴方に巣食う音なんですね。ギャリギャリギャリギャリ。)

孤独、不安、焦燥......底冷えした私の指先。それらが軋んだ音だ。歪んだまま動くと鳴る不協和音。

(そう思うのですか?)

うん。

(そうなのかもしれませんね。)

......そうなのかもしれない。

ギャリギャリギャリギャリ。

私の内に響く音を真っ直ぐに見ること、それがきっと大事なのだ。

(ええ。)

歪みを歪みと気付けた。

(ええ。)

それはきっと......。
ギャリギャリギャリギャリギャリ。

(それはきっと、ひとつの到達点であるはずです。)


依然として鳴り止まぬこの音を、私は少しだけ愛おしく思った。きっとこれは私の糧になる、と、そう信じられた。

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