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この夜は君に翻弄

そういえば、と永野が不意に喋り出した。それを言い終わるのと同時にげっぷも出して、不自然な間を残し、言葉が途切れた。
廃油にまみれた水風船が押し潰された時のような違和感が残った。
「そういえば、ぐふっ......」

僕は永野の方を見ることもなく、言葉が継がれるのを待っていた。永野はふぅ、と息を漏らした。
僕は黙ったまま、一口だけ、こくりとビールを飲んだ。永野はげっぷによって調子が狂わされたかのように、なにも語りださなかった。だから僕は少しだけ焦らすように、
「そういえば?」と促した。永野はそれを無視した。だいぶ酔っているように見え、目は空いているのか閉じているのかよく分からない。

春のひんやりとした風が店の底へするりと流れているのを、薄い靴下に覆われた足首に感じる。くるぶしの辺りの血管が僅かに縮こまったようだった。
「そういえばなんだよ」と僕は言った。
酔いにまかせて微笑みながら、それでいて急かすような語気も含めた。そんな僕の問いかけに励まされるように、永野はようやく言葉を繋いだ。
「今のあれ......漢字一文字で書けるらしいよ」
僕はその言葉を、とりあえずビールと一緒に鵜呑みにした。
「なんて書くの?」
「忘れた」永野は即答した。
「なんだよ、気になるな」
僕の指摘に、永野は笑った。
今時珍しくテーブルの上に灰皿を備えてある店だった。犬の餌入れにも似たそれは、2時間で灰まみれになっていた。指先によって駆り出され、消費され、憎しみすら込められた煙草の吸い殻が、混浴客のように身を捩りつつ詰め込まれている。
テーブルに置いた携帯の画面を軽く指先でとん、と叩き、時間を確認した。19時半だった。それと同時に、若い女の店員が僕らにラストオーダーであることを告げた。あくまでも明るく、語尾を跳ね上げるように言ったが、それでも事務的な口調だった。
店員の女の子はミルクティーゴールドに染めた髪をポニーテールに結んでいて、根本のみが黒かった。

なので僕はハイボールを2つ注文した。永野はそれに対しなにも言及せず、携帯を見ていた。
すぐに2つのハイボールが来た。ハイボールです、と言いながら、さっきの女の子が2つのジョッキをがちゃんと置き、さっさと厨房の方へ引き上げていった。女の子は厨房に入るとひと息にマスクをずり下げ、置かれていたグラスの水を口に含んだ。すわりのいい小鼻と、尖った八重歯がちらりと見えた。
それを愛おしく思ってしまい、僕は酔いを感じた。

永野は黙ってテープに置かれた2つの酒を見て、ぼんやりとしていた。
「飲めよ」と僕は言った。
「ちゃんと飲むわ」と永野は言った。
僕は満足げに目を細めた。

店員の女の子が、まだ店に残っている客に退店を促してまわっていた。そして僕らの席にも、もう閉店なので退席お願いします、と言いに来た。
僕は腕時計を見て、文字盤が19時55分を指しているのを確認した。僕らはあれからハイボールを半分ほど残して、ぐだぐだとしていたのだった。
僕は「はい」と小さな声で応え、帰り支度をする意思を示すため背もたれから身を起こした。先程まで溶けかかったゴム人形のようになっていた永野が突然顔を上げ、「よし、飲むぞ」と言った。
僕らはハイボールを一息で飲み干した。息切れするように酔いがまわるのを感じつつ、僕らは提示された金額を出し合い、店を出た。
入り口のガラス扉を押すのと同時に、隣の従業員用出入り口から、さっきの店員の女の子が出てきた。
彼女は髪を下ろしていて、クリーム色をしたフェルト地のジャケットを羽織っていた。黒革のブランドもののバッグも相まって、僕はその洗練された感じに見惚れてしまった。 

永野は僕と女の子と街の光を眺めていた。もしくはなにも見ていないかった。
女の子がそのままかつかつと歩き出していれば諦めていただろうが、しかし彼女は僕らの方をちらりと見た。瞬きの10分の1程の時間、僕らと目が合った。
永野が女の声をかけた。
女の子は嫌がらず、僕らに着いてきてくれた。

彼女は僕らと同じ大学生で、年齢はひとつ下だった。大学という、混沌の新しい世界に足を踏み入れてから、2年目。僕たち3人は11時までやっている狭くて暗い居酒屋に入り、僕と永野はハイボールを、女の子はレモンサワーを啜っていた。
僕らはひと通りの自己紹介を済ませた。
「普段もバイト後に飲むの?」と永野が尋ねた。
「ううん、いつもはすぐに帰るかな。疲れてるから」と女の子は答えた。
「今日はいいの?」
「うん。最近は店は8時までだし、お客さんもあんまり来なかったでしょ?だからちょうど良かったの。飲みたいなあって思ってし、金曜日だしね」
女の子はにこり笑った。僕らもにこりとした。
そうして僕らは、あってもなくてもいいことを、とりとめもなく喋っていた。
女の子の薄い耳たぶにぶら下がったピアスが、やけにちらちらと光っていることが印象に残った。

2時間が経っていた。
最初のハイボールと次のビールで、僕と永野はぐでぐでに酔ってしまっていた。僕らはちびちびと飲んでいたが、女の子は物凄いペースでグラスを空けた。
「すごい飲むね」と僕は褒めた。
それに対し、
「喉、渇いていたから」と女の子は返した。
僕はあまり納得のできないまま、曖昧にふうん、と頷いた。
「吐きそう」と永野が言った。

「もうそろそろ出ようか」と言うと、女の子は同意し、トイレへ立った。
女の子が席を外している間に会計を終え、僕らは壁や椅子やテーブルに足や手や肩をぶつけながら、ふらふらと店を出た。
腕時計を見ると、10時50分だった。
「だめだ、終電間に合わない。今日泊めてくれない?」
「おお、いいよ」
永野はこころよく、溶けそうな顔で承諾してくれた。やはり目は半ば開いていない。
僕は郊外に住んでいたので、終電の時間が早く、11時5分の電車に乗らなければならなかった。だから間に合わなそうな時には、終電の時間が僕のよりも1時間近く遅い永野の下宿によく泊めて貰っていた。
永野は電柱にぐったりともたれかかり、煙草を吹かしていた。僕も煙草の箱を取り出し、火を点けつつ、女の子に終電に間に合うか尋ねた。
女の子はまだ間に合う、と答え、加熱式煙草を取り出した。紫色の箱に入った丈の短い煙草を慣れた手つきで挿し込み、じっと待つ。
ジジジ......と音がした。
暗い路地には酒と油と昨日の雨の匂いがこびりついていた。僕らはマスクの紐を耳に引っ掛け、駅の方へ歩き出した。

駅へ歩くあいだ、女の子の腕が何度も触れ合った。僕は気付かないふりをして歩いていた。
駅に着くと、僕は便所に入るため、永野に待っていてくれるよう頼んだ。そしてそこで女の子とは別れを告げた。
しかし便所を出ると、永野は消えていた。携帯へメッセージを送ったが、既読表示は付かなかった。
そのかわりに、女の子が便所の近くの椅子に座っていて、口紅を塗り直していた。
「あれ、あいつ帰った?」
僕は隣に腰を下ろし、そう訊いた。
「知らない。私もトイレに入っていたから」
「あいつの家に泊まるつもりだったんだけど」と僕は苦笑いした。
「家は知らないの?」
女の子の問いに対し、僕は
「いや、知っているよ」と答えた。
「だから本当はただ一緒に帰れなかっただけ」
「まだ、飲まない?」
「まだ飲めるの?」と僕は驚きつつ笑った。外の空気に冷やされ、いくぶん酔いは醒めたにしろ、まだ頭の奥は熱を持つようにぐらぐらしていた。

それでも僕らは駅を出て、大きな公園の隅の方のベンチで、僕は缶ビールを、女の子はスミノフの瓶を傾けていた。時計は11時半を示していた。
2人ともの終電はとっくに過ぎていたが、もうどうだっていいと思った。
女の子ががさがさとビニール袋を漁り、コンビニの安い赤ワインと、プラスチックのコップを取り出した。濃緑色の瓶の中で黒色の液体が揺れていて、遠い街灯の光へかざすと、液体の輪郭が紅色に透けた。
女の子は2つのプラスチックコップに半分くらいワインを注いで、僕に手渡した。意味もなく乾杯し、飲み下す。胃と喉がアルコールの熱を受け止めた。
僕はかなり酔っていたが、不思議と吐き気はなく、脳が揺れる感覚を楽しんでいた。ワインを何杯か飲み、僕らは煙草を吸った。
真っ白な煙がいつまでも宙に留まっていた。
風は全く無い。

時刻はもう分からず、僕らは互いを支えるように、もたれ合っていた。
女の子は僕の太ももの上に右手を置き、優しくさすりながら僕に語りかけた。
「あと少しでいなくなるから」
「帰るの?」
「ううん。帰らない」「ただいなくなるだけ。生まれた時とおんなじみたいに」
「酔ってるね」と僕は笑った。
「酔ってるかもね。みんなも酔わしちゃったしね。夜の中全部を」
「この世はクソだ、って、永野は今日何回も言ってた。酔っぱらってたなぁ」
「この夜はどうだった?」
「今夜はなんか不思議。いつもとは少し違った感じがした。空気の感じとか......」
君がいたから、と呟いた。声に出ていたかどうかは分からない。女の子はなにも言わず目をつぶっていた。
僕も目を閉じ、深く鼻から息を吸い込んだ。深夜のしっとりとした空気と、酒の匂いが混ざり、鼻の奥へ染み込んだ。
「たくさんの人を去らせたから」
女の子は瞼を閉じ合わせたまま続けた。「私もいかないと」
「永野も去っていったしね」
相槌に応えるように、女の子は僕の首元へ頭を傾げた。
「私は私なりにいただけなのに」
酒の匂いのする彼女の吐息が香った。酔ったこの女の子が何を言っているのか、風だけが頼りだった。
僕は身体の力を抜いて、ワインを一口飲んだ。
「いいひと休みだと思ったよ。最近はなんだか忙しくて、息つく間もなかったから。周りはただ進んでいって、豪華なこととか、得することばかりが持て囃されてたように感じてた。大きな大会もあるみたいだとか。でも、」
「うん」
「この夜は永野は先に帰っちゃったけど、久しぶりにゆっくり過ごせた気がする。あのまま帰っていたら、多分シャワーも浴びず布団に倒れてた」
女の子はくすりと微笑んだ。「なら、悪いことばかりじゃなかった?」
「そう思いたい。頭がだんだん痺れて痛いけど。それでもそう思わないと救いがないんだもんね」
僕らは揃って深く息を吐くと、立ち上がり、大通りへ出て、タクシーを呼び止めた。

別れ際、女の子が僕に顔を近づけた。僕は目を閉じず、彼女の目も開いたままだった。
2つの瞳が互いに貫き合った。
唇には、熱い息のみが触れた。
「しないよ」
僕は黙っていた。
「きっと良い事が起こると思う。明日からは。新しい夜でも元気でね」

女の子と別れ、僕は揺れるシートに沈み、窓の外の無数の街頭を眺めていた。
その中で、僕は明日がどうなるかは分からない、と思った。また、この夜は君に翻弄されたままだった、とも思った。そして自分は明日からも、この乱れた世の中で生きていくのだろうと思った。
窓から滑り込む外の風には、彼女の匂いは無かった。

数ヶ月経って、あの居酒屋へまた来た。新鮮な空気を気持ちよく吸い込みながら店を見回したが、あの子はいなかった。

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