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残りもの

あの人と別れてもう1年になる。そう思い出し、黒い箱をクローゼットから取り出した。妙に軽いので不思議に感じていたが、蓋を開けると中身は空だった。

私は眉をひそめて箱の中を観察して、時計へ目を向けた。針は静かに片腕を持ち上げ午後11時52分を指し、文字盤のかすれたデジタル数字は眠たげに日付を表していた。
今日は一年で最も昼が長い日、夏至だ。7時までは明るい夕闇が名残惜しそうに残っていたが、今では幻のように散り散りに消え失せている。昼が長かったからか、窓から見える夜空はかえって深く暗い。濃い粘液を思わせる雲が充ち、重い湿気が立ちこめていた。



この箱に中身を入れたはずだった。箱は外側も内側も艶のある黒色。漆のようだが、本当に漆かは分からない。木製で、人の頭がちょうど収まるくらいの大きさである。箱をかたちづくる板は厚くて、しっとりと重い。
私はそこに思い出の品々を詰め込んだのだ。それは1年前に別れた、7歳下の男にまつわるもの。生まれて初めて、我を忘れるほど愛してしまった男のにおいのするものである。

私はその男と別れてから、自分の中の決して少なくない部分が、その男に持ち去られてしまったことを感じた。男と交際することであるものを捨て、男と別れたことで、必要のなくなったものが失われた。そうして1年前、新しい自分になった。私は、新しい自分になってしまった、と思った。衣服と片肺を剥ぎ取られた気分で、肌寒く、浅い呼吸しかできなかった。
大事にとっておいた、そして不必要になってしまった思い出の集積をひとつにまとめよう。別れてから少し経った頃、そう思い立った。そのため雑貨屋で黒く塗装された箱を見つけ、買った。内側まで真っ黒なその箱は、洞穴のようだった。
その「洞穴」に全てを放り込み、蓋をしてクローゼットの奥へしまった。しかし封じ込めた気持ちでいたのに、眠れない夜更けにはたびたび箱の中のものを取り出していた。手にとり、鼻先をつけ、自らを慰める暗い夜。
ただおよそ3ヶ月が過ぎた頃には、箱に触れることもほとんどなくなった。限りなく平地に近い傾きをゆっくりと滑ってゆくように、記憶は緩やかに遠ざかっていった。

箱の中身を捨てなかったのは、未練にほかならない。漆黒の箱に封じ込めてもなお、手放すことはできなかったのだ。過去を忘れることはできても、消すことはできない......。
そんなふうに思っていたにもかかわらず、箱に閉じ込めておいたものは消えてしまった。中身が消えて、私は自身がなにを入れたか忘れていることに気付いた。

「なんだっけ......」

問いかけるように呟いてみたが、部屋は静まっただった。誰からの応答もなく、私も私に応えない。

どこに行ってしまったのだろう。そして、私はどんなものを入れたのだろう......。
消えたものの輪郭を炙り出すように、私は箱の中をじっと見つめた。まばたきをせず、息をつめる。やがて目が乾き、涙が染み出た。涙は瞳が充分に潤ってもなお湧きたち、ぼたぼたと溢れた。とめどなく涙が溢れるうちに、徐々に呼吸が乱れ始めた。

はっ......。はっ......。

身体がだんだんと熱くなり、背中や脇にじわりと汗が滲む。身体の先端が、こわばるように震えた。

はっ......。はっ......。

涙はずっと出続け、やがて大粒の滴が箱の底で水溜りを作った。それを覆い見る、私の顔が映る。顔は影で真っ黒で、表情が分からない。
いつの間にか月が雲の合間から顔を覗かせ、超自然的な力な輝きでもって私を照らした。月の周囲には依然として厚く暗い雲が澱み、対比によってますます強く輝いた。
私は電気を消して、涙を流したまま月を見上げた。月はまるで膨張するように、近付いてきた。月には私の瞳が映った。瞳に潤む涙が、金色に輝いる。
月はやがて私の目の前まで迫り、視界いっぱいになった。

はっ......。はっ......。

はっ......。はっ......。

はっ......。はっ......。

私は目を閉じた。絞り出されるように、たっぷりとした滴が流れ落ちる。落ちた涙を追うように下を見た。溢れた一滴による波紋で、水溜りの水面は長いあいだ収まることなく揺れ続けていた。

はっ......。はっ......。はっ......。

ああ............。

揺れが鎮まった時、水面には2人の人影が映っていた。私と、私ではない誰かが見覚えのあるベッドで眠っている。それが誰だか、私には分かる。これは私が望んだことだ。私の望みが夢になったのだ。
水面の向こうで私はベッドの側に立ち、男の寝顔を見つめていた。かがみこみ、男の頬に片手を沿わせる。懐かしく愛おしい肌の触り心地に、熱い息が漏れ出た。

ああ、会いたかった、なぜ眠っているの......君を感じとれるもの、なくなってしまったの......だから私は......会いに来たんだよ............。

私は男に身体を寄せた。
男の胸に頬をつけ、肩に手を伸ばす。

どうか私に気付かないで、きっと君はもう私のことを忘れてしまったから、だからあの箱の中身も消えたんでしょう......私も私から君は消えたと思っていたのに、どうして......私のもとから君がいなくなっても、私の一部は君のもとのまま......私だけが、空っぽのまま............ああ、どうか私に気付かないで、もうちょっと夢を見させて............。

男は私がいないかのように深く眠っていた。左腕は胸の上に、右腕は身体に沿って、だらりと横たわっている。私は左の手の甲を包むようにそっと触れ、指を絡ませた。

私に気付かなくていい、だから私の身体に触れて......もう一度口づけをして、頭を撫でて......どうして私を抱いてくれないの、どうして手を握ってくれないの......私はこんなにも想っているのに......どうして............君は私がいないのに、どうしてそんなに静かに眠っているの............。

頭が熱を持ち、こめかみが震えた。
私は自分が男を憎しみつつあることを感じた。

どうして去っていったの............どうして寂しそうにしていないの............どうして............どうして私に気付かないの............。

男は眠り続けている。

まだこんなに好きでいるのに..................私に気付いて。

両手を、男の首へ伸ばした。



突然、窓からするりとひとかたまりの風が流れ込み、はっと我にかえった。
月は再び雲に隠され、部屋は暗い。時計は午前2時を示していた。指先も爪も、白く血の気が引いている。不思議な夢を見ていたようだ。
頬に触れた風はぬるく湿っている。
それは女の豊かな髪を思わせた。私は黒く細く、熱を帯びた自らの髪を撫で、微笑んだ。
そして夢の続きを見るため、私は私をその傍らに残したまま、眠りについた。

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