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Scattered

兄の様子がおかしいらしい。

広報のタケダからタレコミがあり、わたしは渋々兄にLINEをした。兄は大学時代の仲間と起業しており、1学年差で同じ大学に入学したわたしとは共通の友人も多い。タケダはわたしのゼミ仲間で、4年間遊び惚けた結果就活に失敗し、兄の会社に潜り込んでいた。

そのタケダいわく、兄が最近、社員にコーヒーを奢るようになったのだそうだ。

ホイップクリームがどっさり乗った甘いラテで、疲れている社員のところにふらりと現れては、気まずそうに、これ、よかったら、と置いて帰るという。

ほかの人間がやるならごく一般的な行動を、タケダはまるで昔話の怪談のように語った。

身内ながらわたしの兄は学問に秀で、スポーツもよくでき、体格もよく、自信にあふれた人間である。人生で劣等感にさいなまれたことなど一度もないのではないだろうか。常に自分の意思を持ち、困難な道でも堂々と先頭を歩くタイプの人間で、つまり人の痛みに鈍感な人間でもあった。

その兄が、疲れた社員をいたわる?

人として必要な機能がついに備わったのだろうか。バージョンアップを待っていた甲斐があった。

夕飯を食べる約束をし、手ぶらもなんだからと6缶パックのビールをぶら下げて兄の家のチャイムを鳴らす。

出てきた兄はいつも通り清潔な身なりなのに、なんだかくたびれて見えた。

兄と二言三言かわし、わたしはビールをビニール袋ごと兄に預けてサンダルを脱ぎ、洗面所に向かった。

以前あったピンクのコップはもうとっくに片付けたのだから、真ん中に置けばいいのに、兄のコップは洗面台の、妙に端のほうに置かれていた。

うがい手洗いをしてリビングに進むと、兄が土鍋をテーブルに置いていた。

この真夏に鍋である。

最寄駅から15分、坂を上がってきた妹を迎えるのに、普通このチョイスをするだろうか。ただ、最近は冷房病予防に鍋とも言うし、いやわたし今汗だくなんだけど、これは兄なりに気を使った結果なのだろうか。

急に家に押しかけて飯を食わせろと言った手前、出てきたものに文句もつけづらい。

席に着き、テーブルに置かれたビールのプルタブに手をかけると兄が土鍋の蓋を開けた。

「アニィ……」

余談だが、わたしは兄をアニィと呼ぶ。小さいころに見たドラマで後輩刑事が先輩のことをアニィと呼んでおり、面白がって真似したらその後数十年にわたって定着してしまったのだ。

「これ……、豚汁じゃね?」

土鍋にいっぱい、もうもうと湯気を上げているのは、どうみても豚汁である。

豚肉に豆腐、人参、サトイモ、それにこんにゃく。途中から鍋の具じゃなくなっている。

ビールのプルタブに指をかけたまま困惑して兄を見上げると、兄も鍋の蓋を持ったまま、困惑して鍋をのぞいている。

「うん……、豚汁なんだよな……」

気を失いたいような気分になりながら、とりあえずビールのタブを立てる。ぷしゅ、と気の抜けた音が微妙な空気が支配するリビングに響いた。

……タケダ。これ、ヤバいかも。

・・・


我が家は昔から、料理を作らなかった人が皿洗いをする不文律がある。

大汗をかきながら豚汁で白飯を流し込むという、学生のような夕飯を済ませると、兄の家のキッチンに立った。アイランドキッチンの流しからはリビングの向こうのベランダがよく見える。そのベランダに通じるサッシを開け、兄は桟に腰を下ろして夕涼みをしていた。そりゃあれだけ豚汁食べれば汗もかくだろう。

洗ったお椀や茶碗を流しのカゴに伏せて置き、冷蔵庫を開けるとわたしが持ち込んだビールの隣にハイボールが冷えていた。2つ手に取ってわたしもベランダに向かう。

「ん」

差し出したハイボールを受け取り、兄が無言でプルタブを開ける。わたしも開けると兄の隣に座った。

「最近、様子おかしいらしいじゃん」

「ん?」

「タケダが怖がってたよ。夜な夜な甘いラテを社内で配って回ってるって」

ああ、とうめいて兄が顔をしかめる。

「何かあったの」

兄がうつむいて両腕の中に顔をうずめる。珍しい反応だ。

「……スタバ行くとさ、つい無意識で頼んじゃうんだよ」

「ラテ?普段ブラックじゃん」

「あれは…、あいつが、好きだったカスタムで……」

思わず絶句してしまい、無言でハイボールを流し込む。

兄は、1年半も前に別れた彼女の好きだったラテを無意識に頼んでいるというのか。

その、なんだ。

「キモ」

我が兄ながら、シンプルにキモい。いったん冷静になろうとハイボールを飲んだのに、結局ストレートな感想が口から出てしまった。キモいよなあ、とうめくように兄が反復する。

「大体あの子、もう結婚したじゃん」

「知ってるわ」

「それに別れた直後はそんなことなかったんでしょ?」

「いや、そうなんだよ」

「なんでまた、最近になって?」

「わからない」

兄の口から、わからない、という単語が出ること自体がレアである。こんなに弱っている兄を見るのは、用水路にハマった小学生以来じゃないだろうか。

兄はハイボールをぐいっとあおると、弱り切った顔をして頭をぐしゃぐしゃとかいた。

「飯も気づいたら2人分作るしさ、布団も半分空けて寝るしさ、気を抜くとダメなんだよ俺。ちゃんと別れたんだってわかってるのに、つい今まで通りの行動を取る」

「なぜ真夏に豚汁作った」

「先週はおでんだった」

「真夏に」

「なんか寒いような気がして」

「病院行け」

「よく寝てよく食べて、仕事も順調で。医者になんて言うんだこれ」

「頭がおかしくなりました」

「うるせえよ」

兄が顔をしかめてハイボールを一気にあおる。武士の情けで冷蔵庫からもう1本持ってきて手渡した。(当然自分の分もある)

「付き合ってた時、彼女のほうが圧倒的にアニィのこと好きなんだと思ってたよ」

「おれもそう思ってたよ」

「それがフラれた挙句、こんなに引きずるなんてねえ……」

あー、と声を上げて兄がうつむく。

正直、兄が弱っているとちょっと愉快でもある。仕方がない、これはわたしの性格が悪いのではなく、長年、優秀な兄の陰で比較され続けてきた妹の性である。

「俺にとってはさー」

兄がうつむいて頭を抱えたまま、うめくようにつぶやいた。

「俺にとっては、日常だったんだよ。あいつがいるのが」

「ほう」

「それが、一生続くもんだと思ってたんだよな」

「全然違ったね」

「そう、全然……、お前本当に容赦ないな」

イヒヒと笑いながらハイボールをあおる。

「彼女はさ、アニィにずっと守られて生きるのが負担だったみたいよ」

「俺は全然、負担とかなかったんだけどなあ……」

兄がちびちびと缶に口をつける。

「あいつのことを守って、一生生きていくんだと思ってたんだよ。そういう日常を送るって、覚悟っていうか、そういうもんだと思ってたんだよな」

「学生時代から、彼女が一切成長しないとタカをくくってたってこと?」

「そういうわけじゃないけど、でも、俺が守るんだろうなあとは思ってた」

「そんな風に見下されてたら、そりゃ耐えられないわ」

「見下してたつもりはなかったんだけどなあ」

「その無意識さがさらにダメだわ」

ううう、と兄がうめき声をあげる。我々強者は、無意識のうちに弱者を傷つけているということに自覚的でなければならない。

それにしても、誰かと生きるということは、こんなにも難しいことかと思う。

誰かと出会い、愛し、同じ時間を過ごすということは、実は無数の対話と合意、納得感の積み重ねだったりする。それはとても繊細なバランスで成り立っているもので、俺たちは連理の枝だと侮った瞬間、瓦解してしまうものでもあるのだろう。

兄はそのがれきの中に困惑したまま一年半も立ち尽くし、バラバラに砕け散った破片を握りしめているのだ。

我が兄は強者であり、現実世界への適応力が強く、高い成果を上げることができる。一方で日々散文的に生きており、こうした精神攻撃にはとても弱い。

その破片はもう元には戻らない。自覚して手放し、新たな日常を構築するしかない。

「俺、早くあいつのこと忘れないとな……」

まあ、まだまだ当分時間がかかるだろうな、と思う。

その夜のことをタケダにLINEすると、あっという間に既読がつき『キモ』と返ってきた。容赦のない人間である。

その後もタケダから定期的に怪談の報告が届いていたが、季節が進み、初雪が降ったころを最後に、夜な夜なラテを配って歩く妖怪は姿を消したという。

いや、そこは奢りなよ。


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