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映画日記『妖怪の孫』バラエティ的な作りの政治ドキュメンタリー映画は成功しているのか?

アップリンク吉祥寺で観た。故・安倍晋三を扱ったドキュメンタリー映画だ。平日の昼間なのに、ほぼ満席だった。観客は61歳の私よりも年配の方々が多かった。40代か50代と思しき女性が、母親の手を引いて観に来ていた。そういう二人組がいくつかいた。



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知っている人は知っているし、知らない人は平然と知らないでいるが、安倍晋三は、2014年7月に、集団的自衛権の行使を容認する「閣議決定」を強行して、自衛隊が海外で戦争に参加出来るようにしている。1946年の憲法発布以来、我が国が遵守してきたものを、骨抜きにしてしまったのだ。

その後、いろんなことを変えてしまったが、その方針は、そのまんま岸田政権に引き継がれ、今の日本は、原発も推進するし、戦争に参加することも辞さない国になりかけている。この十年で日本という国の性格が変わってしまったような印象だ。

変わってしまったといえば、政治の手法も大きく変わった。議論や話し合って決めるという従来の、それこそ当たり前だったやり方がなくなって、内閣が「閣議決定」するだけで、重要なことも、それで通るようになってしまった。

この、ある種脱法的な手法を、そのまま放置している野党も我々一般人も無責任だと思うが、どうしたらいいのか対応の仕方がわからない。わからないと言っている間に、どんどんことは進められていって、今の日本は後戻りが出来ないところまできてしまった感じがする。

とにかくこういう抜け道的な、脱法的手法に長けていた人というのが、私の安倍晋三に対する認識だ。

安倍の意見が盛り込まれた自民党の改憲案も、かなりすごいことになっている。今のところ実現してはいないけれど、憲法を守るのが国民の義務だとか、自衛隊を明記するとか、まるで社会の試験に数学の方程式を持ちこんで、それで出した答えを正解にしろと要求するような、おかしなことになっている。

憲法は、国家権力が暴走して、国民の権利や自由を侵害しないように、国を縛るための決まり事だ。つまり権力者が守らなければならない決まり事だ。法律はその反対で、国民が守らなくてはならない決まり事だ。

これは、私のような素人でも憶えていることだ。社会科の憲法のところで最初に習ったような気がするのだが、安倍晋三は、なんで国民にまもれとか言いだしたのだろうか?  周りに止めたり諭したりする人はいなかったのだろうか?

安倍の発言に押し切られて、自民党の改憲案まで安倍に忖度してしまったのか? 安倍が死んでいなくなったのだから、やり直せはいいじゃないかと思うが、修正できずにそのまま突っ走ろうとしている。

政治家も、信頼のおけない人ばかりになってしまった。特に自民党の要職についている人は、その昔、学園ドラマに出てきた見るからに仕事の出来なそうな教頭先生みたいな人ばかりに見える。

それは、一般教養もないし、議員になってからも勉強もしない人が、世襲とか右翼的な付け焼刃発言で珍重されて、実力もないのにポジションをもらうからだ。その結果、その権力を振りかざして恫喝することが政治活動だと思っているような政治家ばかりになってしまった。

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そういう恫喝好きな人達ばかりが集まった内閣が、自分たちには正当性があると思って何かをやると、とっても迷惑なことばかり起こる。そこに拍車をかけているのが、安倍が確立した「閣議決定」というタチの悪い万能手法だ。これは岸田首相も都合よく継承していて、便利に使ってやりたい放題状態になっている。

右翼は何でこんな状態を見過ごしているのだろうか? なんて不穏なことを思ってしまうが、親米追従路線が日本の右翼の主流だから仕方がない。鈴木邦男も死んじゃったし……。

私は「閣議決定」のような手続き無視のやり方は、小泉純一郎から始まったと思っているが、そんなことを言う人も今では少なくなって、今や小泉純一郎は、テレビに出てくれば好々爺として、もてはやされている。誰もがおもねって「この変節漢、責任をとれ!」なんて迫ったり、つるし上げたりする場面はみられない。

安倍晋三に対しても、世論調査では6割強が国葬に反対したくせに、実際に国葬が挙行されたら献花をする人たちが、まんべんのない世代から現れて、脱力したが、日本の世の中の人々は、「死人に罪はない」とか、「犯罪者だろうがどんな悪人だろうが死んだら仏になるのだ」なんて、平均的に思っていたりするから、平気で花などを添えて、涙まで流したりする。

それでそのまま犯罪者の罪について考えることもなく、流して、終わりにしてしまう。死人に罪はない、とか、罪は問わない、と言うのは聞こえはいいが、残された自分たちも罪については考えない、という怠慢な態度の裏返しに見える。

安倍晋三も、死んじゃったから、このまま逃げ切りなってしまいそうだ。芸能人やタレントが一方的に自慢話をした自伝のような『安倍晋三回顧録』という本まで出ている。なんと中央公論が出している。

この本の制作には、名のあるジャーナリストが3人も関わっているのだが、内容の不正確さを指摘されて、「これを世に問うて、反論があったら反論を受けて、検証しましょう。これをたたき台にしましょう」みたいな都合のよいことを言っている。

『安倍晋三回顧録』には不正確なところが多々あると、自ら認めているのだろうか? ジャーナリストなら、本を出す前に、内容に不備がないか検証しておくのが責任のある態度だと思うのだが、出してしまってからでも遅くないと思っているらしい。

類は友を呼ぶというのか、安倍の近辺にいたジャーナリスト風な人たちは、みんなそのような態度をとる人ばかりだ。以前なら、相手にされないのだが、今は、政権とその周辺に重用されている。

なんてことを日々思っていたら、先週、『デヴィッド・ボウイ  ムーンエイジ・デイドリーム』を観たときに、この映画の予告編をやったのだった。誰が監督か知らないが、安倍政権の全体像を振り返る映画のようだった。がぜん興味がわいたのだが、観に来るのに一週間かかったのは、1日2回しか上映していないから、いまいち、時間が合わなかったからだ。

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映画は、全体像を振り返るだけあって、知っていることばかりで、安倍晋三の悪行の、おさらいみたいだった。が、アベノマスクにはほぼ触れず、襲撃されて亡くなったことにもあまり触れていなかった。

なぜなのか理由はわからないが、男性の声によるナレーションには、「まんが日本昔ばなし」の常田富士男(たとえが古い……)を連想させた。その人の個性なのか、演出なのかわからないが、語り掛けるような芝居がかったナレーションに、違和感を感じた。

これまた理由がわからないのだが、実写のドキュメント映像の間にアニメーションが挿入されて、安倍政権が生んだ悪しき慣習を、妖怪にたとえて、背後から迫ってくる、みたいに表現しているのだった。その際は、アニメ「ゲゲゲの鬼太郎」の音楽を彷彿とさせるような音効がかかるのだった。

また、ところどころ、実写人物の肩越しや背後に、安倍晋三や自民党を揶揄するようなイラストがワンポイントで出てくる。

これらの演出は、わかりやすさを狙ったのだろうけど、テレビのバラエティ番組の演出のようで、政治ドキュメンタリー映画には、そぐわないように、私は感じた。

この映画の中で、安倍晋三が国会で野党議員に向かって「印象操作はやめてください」と連呼する有名な場面が取り上げられていた。実際には行われていない印象操作を、安倍が被害者然と連呼することで、あたかもあったことのように印象づける、それこそが印象操作だ。

この映画では、安倍晋三が行っている印象操作を批判しているのだが、この映画全体に流れているバラエティ番組のような演出も、私には印象操作そのものに感じた。

安倍の印象操作を批判するのなら、作り手は、自分の印象操作的な手法に関して、もっと自覚的であるべきだろうと思う。安倍や自民党のメディア戦略(印象操作)も相当陳腐だったが、この映画の演出も同じくらい陳腐だ。

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それでも知らないことがいくつかあった。一つは、安倍晋三の選挙区になっている山口県の下関界隈の惨状だ。

何十年も前から、箱モノや建築物は、安倍一族が利権を独占していて、結果的に中央資本の大企業が儲けて、地元は搾り取られるだけで何の還元もなく、今はすっかり寂れてしまっていた。

いいことは何もないのに、地元で安倍人気が続いていたのは、安倍の意向が、人々の生活に直結していたからだ。安倍支持の立場をとらなければ、生活がよりしんどくなったからだ。

そういう権力者として安倍の一族は、下関に君臨していたことがわかった。桜を見る会の土壌は、何十年も前から培われていたのだ。

また、きな臭いハナシもあった。

全国紙もテレビもほぼスルーしているが、下関の安倍晋三事務所と自宅に、火炎瓶が放り込まれた事件がかつてあったらしい。犯人は、安倍事務所から対立候補への選挙妨害を依頼されて実行したものの、約束の対価が払われなったことが犯行動機だったと判決文に記載されている。犯人はすでに服役を終えて出所している。

この事件に関しては、ウィキペディアに項目が立っていた。


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新聞やテレビといった大手マスコミは、本来、報道すべきことを報道していないと、この映画は批判している。が、どうして報道されないのかについては、さほど深く切り込んでいない。

直接、報道機関に質問すればいいのだと、門外漢の私は無責任に思う。どんな形でもいいから、言質をとって並べれば、今の報道機関のスタンスが見えてくると思うのだが、この映画ではそこまではやらない。

同じように、自民党議員などの当事者たちに取材をして、ストレートに質問をぶつければいいのだと思った。

それをしないで、常に迂回しているような印象を、この映画の作り手に感じた。もっとストレートで、愚直でいいんじゃないか、と思ったのだ。でもそんなことは出来ないくらい、監督が所属している業界を始め、多方面からじわじわとして締め付けがあるのかもしれない。

でも、表現をする人は、そこに気を使ってはいけないと思う。出来ない事情があるのなら、それも丸ごと撮影すればいいのだ、と思う。覚悟が出来ていない自分や、いろんなところに忖度しそうになる自分や、ビビっている自分も含めて、まるごと画面に出せばいいのだと思う。

政治評論家の古賀茂明が、ずいぶんの時間を使って出てくる。この人は、元通産省や経産省の官僚で、報道ステーションのコメンテーターを不当に解任されたとされる、体制批判をする人だ。

別にどうでもいいことなのだが、その古賀のインタビュー撮影の場所が、アンティークなファッション・スタジオみたいなところで、部屋の隅にマネキンがおいてあったりして、映画の流れから妙に浮いて見えた。

古賀は、この映画の中で、安倍政権を分析したり、現役官僚のインタビューを行ったりしている。インタビューを受ける現役官僚は、顔は見せず、声も変えてある。

なぜ政権の言いなりになって、公文書を書き換えたりするようになったのかと問われて、あなただったら書き換え(改竄・捏造)に応じるのかと問われて、安倍のやったことは、「テロ」に等しいだと言いながらも、納得は出来ないが指示されれば、頭を切り替えて、仕事だからやる、みたいなことを答えている。

要するに正義よりは保身を優先させるということだ。やりたくないなら断ればいいと思うのだが、それはしない。出来ないのだろう。どんなエリートで優秀な人でも、自分が辿ってきた道から外れたら、再起は出来ないと思っているような、そんな諦念のような開き直りのような、スッキリしない気分が伝わってきた。

一度、道を外れたら、再起はないのだ。敗者復活がない社会に日本はなっているのだ。安倍晋三的なものは、そういう不健全な国に、日本をしてしまったのだと思う。

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この映画のラストは変則的だった。画面が中断し、カメラが引くと、パソコンモニターがいくつも並んだ事務所の風景になる。今、まさにこの映画の編集作業をしていた、という映像だ。

画面に出ない監督が、声だけで唐突に観客に語り始める。「どうやってこの映画を終わらせたらいいのか」という問いかけだ。批判しただけで終っていいのかと逡巡している様子が伝わってきた。

ドキュメンタリー映画の場合、作り手は、常に「傍観者」か「行動する人」かを問われるのだと思う。世の中を変えるためには直接「行動」が必要だ。だからこのラストでは、監督が「傍観者」から「行動する人」に踏み出しそうな、その際が映っていると、言えなくもない。

笑顔の女の子の写真が並んだスマホの画面が出てくる。監督が自分の娘だと語る。大事な家族だ。絶対に守りたい家族だ。その画面の日付は、2007年になっている。わざわざそれを示すことで、家族を晒しているようで守ってもいる。この家族の笑顔の対極にあるのが、安倍晋三的なものだ。

最後の最後まで散漫な印象が残った映画だった。

演出も含めて、質はテレビだったと思う。

この監督の次の闘いに期待したい。

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